56:足止め①
石材と木材で築かれた、二階建ての屋敷。木板の戸が当てられた細い窓から、様相とりどりの草花がその日の気ままに伸びる庭園を臨む一室に、もぞりもぞりと蠢くひとつの人影があった。
人影は真黒に染められた衣が覆う非力そうな体を羽毛が詰め込まれた柔らかいクッションから剝がして、大人二人が並んで眠れる寝台から這い出る。
「くぁ……ぅ……。」
人影は喉の奥まで見えそうなほど大きな欠伸をしながら、室内と外界を隔てる木板の戸窓を少しだけ開けた。
「ぅぅ……。」
高い所から温もりの光を注ぐ、偉太なる陽。
強い白光に照らされた紺碧の瞳と純銀の長髪が儚げに、しかし煌々と輝いている。
「帰ってきたんだなあ。」
「お前にとっちゃあな。」
十字路の集落から乗り合い馬車に揺られること、九日。
黒い髪の少年と赤毛の女はフロリアーレ王国の首都にして、ライラク大陸で指折りの大都市__王都テルナの土を踏む時を迎えたのだった。
「リオンは来たことないんだよね。」
「ああ。十七ん頃には盗賊になっちまったからな。」
だが、狩人の父と占星術師の母を持つリオンの知識や技術が衰えるわけではない。ハアースとは比べ物にならない大都市の内側にあっても、彼女は仲間として頼りになるはず。
「まずは城に行く。」
「んでもって、オウサマにご挨拶か。」
「うん。」
黒い髪の少年は赤毛の女を伴って、都市の内側に巡らされた城壁を目指して歩きだした。黒いたてがみを人々の生気と営みの喧騒に満ちた風に、たなびかせながら。
「王命により、ハヤト・エンドウを名乗る男が城に近くことなきよう達せられている。」
しかし四十四日間進みつづけた歩みは、そこで不本意にも留まることとなってしまった。
「ど、どうしてですかっ?!俺は王様に報告しないと!」
「王命である!下がれ!」
城を囲む壁にぽっかりと開いた門の衛士の男に歩み寄ろうとするも、男は迷いなく槍の穂先を突き出して、鋭い刃でハヤトの鼻先をおびやかす。
「……わかり、ました。」
唇を噛み、握り拳を震わせる少年は、なおも踵を返す。
その背中は、ひどく小さく見えたのだった。
「どうすんだこっから。」
次に二人の姿があったのは、王都の南側。様々な商人や住民が拵えた軒先の混ざり乱れる地区にある、二階と離れが宿になっている酒場の一角だった。
赤毛の女は目の前にある皿に盛られた川魚の蒸し焼きやハーブ一枚が優雅に泳ぐシチュー、爽やかな香りを漂わせる橙色の柑橘、外はサクサク内はふわふわのパンを交互に口にしている。
その対面では手元にあるシチューにぷかり、ぷかりと浮かんでいる芋と葉菜の切れ端を、ぼんやりと眺めている黒い髪の少年がいる。
「まあ、オウサマに会いてぇってのに城に入れねぇんじゃあなぁ。しかもオウサマの命令で。」
好かれていない、というよりも目の敵のように扱われていることは感づいていた。しかしまさか、この身に課した「治安維持」の役目はまさか、城から追い出すための口実だったというのか。
役目を果たすか果たせぬかなど、端からあの男は興味がなかったということか。
自分が武具や属性の「加護」を持たないからなのか。
問いかけようにもその人はあの厚い壁の内側にいて、精強な兵たちに守られている。頼るべき人々も皆、あの中にいる。
たった一人の幼なじみも、あそこにいる。
「どうする、ったって……。」
黒い髪をどれだけ掻きむしり、頭を回しても答えは降りてこない。
手元にあるのは、芋と葉菜が浮かぶシチューだけ。
少年はしばらく白く濁った水面を見つめ、そして木のスプーンで一口ずつ掬い上げていった。
食事を終えた二人は、目的も無く王都を歩いていく。
王都はハアースと違い、道はまばらながらも石材で舗装されており、馬が荷車を曳いていっても轍が残らない。木の底板が敷かれた革靴であちらからこちらへと往来していく住民たちの足が滞る時は、決してない。
路上では剣や槍で武装し、しっかりとした金属の鎧で身を守る兵士たちがバラの紋章を掲げながら巡回している。そのおかげで剣やら斧やら弓やらで武装している男たちは道端で騒ぎを立てることもなく、それぞれの目的地へ黙って向かっていた。
「ギルド、行こうか。」
「ま、それが一番らしいな。」
人が集う。ということは、傭兵しか解決できない問題も湧いて出てくるということ。だとすれば傭兵ギルドはこの都市にもあるはずだ。
ようやく歩き回る理由を得た二人は、通りすがった人に訊ねながら一軒の建物の前に辿りついた。
銀で装飾された、山と積まれた粉末を象った看板を軒先から二つ垂らすその建物は、何の変哲もない住民らしき人々や、立派に仕立てられた丈長の衣を着た人、あるいは雑多な武具を携える男たちが絶えず出入りしている。
ハヤトとリオンは出入りする人々に混ざって中に入ると、まずその賑やかさに驚かされる。出入り口の両開き扉の先には高い天井の広間があって、装い様々な人々でごった返して息が詰まる。
また広間の奥には今まで見てきたものと同様に、鉄柵でこちらとあちらが隔たれた受付台があり、受付係の前には男たちが行儀よく列を成している。
「おい、あの女見ろよ。赤毛だぞ。」
「クロスボウを持ってる。」
「まさかあの女……。」
装い様々な人混みにいてもやはり、その髪色は目立つ。そして彼女を連れている少年もまた、否応なく目立つ。
ただ、少なくともこのギルドにおいては、事情を察した傭兵たちからの羨望や嫉妬の眼差しを集めるだけに留まって、時折肩で躱すのでも足りないほど人で溢れるここをスムーズに移動するのに役立っていた。
「すいません。ちょっといいですか。」
「お、おう。なんだ。」
だからこそ、赤毛の女を連れた黒い髪の少年から話しかけられた傭兵らしき男は、冷静さを保ちながらも少し上ずった声で応えざるをえなかった。
「最近の王都の様子について知りたいんです。」
「まあ、それくらいならいいけどよ。」
縦長の盾を背中に担いでいるその男は、黒い瞳に射抜かれながら話しはじめる。
「ここんところは目立った騒ぎは起きてない。まっ、傭兵への依頼は減るどころか増える一方で、そのせいで最近じゃあ『稼げる仕事』って勘違いした野郎が増えて困ってるくらいだ。他所のギルドにゃあどっかから流れてきたごろつき紛いの連中もいるらしくて、そいつらに対処してくれっつう依頼も増えてるな。」
人が集い、騒ぎが起き、それにかこつけてまた人が増える。この都市はそれを繰り返して大きくなっていたに違いない。とはいえ流れ者のせいで治安が悪化して騒ぎが起きるのは、善良な住民からすれば望むところではないはずだ。
「けどテルナじゃあ、拳よりも平和的な手管で解決すんのを望んでる依頼主も多い。お前がそういうのは苦手ってんなら正直言って、この都市でやってくのはちと厳しいかもしんねぇぞ。」
「そうですか……わかりました、ありがとうございます。」
「同業のよしみだ。感謝は要らねえよ。」
縦長の盾の男はそう言って、ハヤトが携えているトリカブトの剣を一瞬だけ見遣ってから人混みに消えていった。
とにかく、玉座の下にあるこの都市では何事も荒立てるべきではなさそうである。傭兵ならば当然、手段を選ばずにはいられない状況もあるだろうが……その時は、その時だ。
「とにかく仕事をしないと。」
「じゃ、アタシは待ってるから__」
と、離れた所に行こうとするリオンの腕を、がっちりと掴むハヤト。
「リオンも一緒に選ぶんだよ。」
「アタシは傭兵じゃなくて、お前の。」
「仲間、だもんね?」
仄暗い黒に染まった瞳から強烈な圧力をかけられた赤毛の女は「……うす。」と呟いて、腕を引かれるままに男たちが成す列に混ざっていった。