49:黒き婚約者①
ベイルとリンを一行に加えて、三日。ハアースを発ってから九日目のこと。
王都へ到る土の道が、ついに二つに分かれてしまった。
「右は王都に行く道のはずだ。んで左は、アプリー公爵領のタスアに行く道だな。」
「詳しいですね。」
「ああ。アプリー公爵領は、丸ごとオレの庭みたいなもんだ。」
そこが彼の故郷なのだろう。その中のどこかの人里が、きっと。
「妹さんは王都にいることですし、せっかくなら他の家族に会ってみたらどうです?きょうだいとか、お母さんとか。」
ハヤトの提案に意外とベイルも乗り気になったらしく、「そうだなぁ。」と唸る。
「ま、たまにはお袋と兄貴の顔を拝むのも、悪くねぇかもな。」
「おおーッ!ついにシショのご家族にゴアイサツできるっスか!」
「お前は宿屋で留守番だ。」
リンは一つまとめにした黒い髪をぶんぶんと揺らしながら、「なんでっスかーッ?!」と素っ頓狂な声で叫んでいる。彼女はまず、自身の行いを顧みるべきだろう。
「じゃあハヤトの案に乗って、オレらはこっちに行くぜ。またどっかでな。」
「はい。またどこかで会いましょう。」
「姉さん!ハヤト!ばいばいっス!」
「元気でやれよー。」
左の道へ進んでいく、筋骨隆々とした男と美丈夫な脚の少女。
凸凹で対照的な背中の彼らも、これからどこかで「生きて」いく。出会い、別れた後もずっと、ずっと。
手元にある、この皮紙の巻物にも記されていない場所で。彼らは二人揃って酒を飲み、食べ物を貪っていく。
「この先に宿場町があるみたいだよ。ついでに物資も補充しようか。」
「ようやく軽くなったっつうに、また重くなんのかよ。」
食材や寝袋は半々で、重量的にはハヤトが多めに担いでいるものの、何日も重い荷物を背負って歩くのは男であっても厳しいもの。女の身となれば、悪態の一つだってつきたくなる。
「乗り合い馬車でも探そうぜ。あんま来る町はねぇけどさ。」
「乗り合い馬車か……。」
王都からハアースへの旅を経験した今考えると、ミル=カイロ大修道院から王都への旅はとても快適だった。あの天蓋付きの立派な馬車は乗り心地が良く、腰も痛くならない。
この世にあるほとんどの馬車があれに比して、同等だとは思えない。ただ、荷物を担ぎ、自分の両の足で地面を踏みしだくよりはずっとマシであるに違いない。
「まあ、そうだね。馬車が来る町だったら乗っちゃおうか。」
「へへ。言ってみるもんだな。」
牙のような八重歯を見せて、したり顔で笑うリオンの肘に肩を突かれながら、ハヤトはまたしばらく歩いた所にあるはずの宿場町を目指して右の道を選んだのだった。
十四日目の午前。ハヤトとリオンは細い街道が伸びる只中に築かれている、大きくはない宿場町の大きくはない宿屋の、こぢんまりとした二人部屋にいた。
荷物を下ろして軽くなった背中を、大人二人が寝られるベッドに預ける。互いの肩が当たらないギリギリの位置に並んでいるハヤトとリオンは、ゆっくりと息を吐き、肺に空気を送り込む。
「これで一泊小銀貨五枚かあ……。」
廊下に繋がる扉と、木板の押戸と窓枠の隙間から冷たい湿った空気が吹き込んできて、少しだけ汗ばんだ体に張り付く。ベッドのクッションはフレームに乗せた藁に布が被さっているだけ。量こそ多いものの、少し身じろぎするだけで潰されていた藁が、かさり、と擦れて耳に障る。
小銀貨五枚。せっせと歩いて疲れ切っている旅人の足元と懐を見た、価格設定。これが「観光地価格」というモノかと思いながら、ハヤトは体から力を抜いて、ベッドから漏れ出た腕を垂らした。
このまま意識も手放してしまいたいところだが、物資の補給をしに市場へ行かなければならない。
「リオン、市場に行こう。買い物しないと……。」
隣で横になっている赤毛の女に目線を向けると、彼女は腹を抱えながら体を縮こませ、こちらに背中を見せている。軽口も悪態も一つとして放ってこない。
どうやら、只事ではないようだ。
「だ、大丈夫?」
「……ああ。」
いや、訊き方が悪かった。ハヤトはすぐに自身の言葉を顧みる。
「お腹痛いの?」
今度はしばらく経ってから、呻くような声の「ああ。」という返事が聞こえる。
それにしても、腹痛を催すようなことがあっただろうか。
腹痛の原因として真っ先に思い浮かんだのは、「食中毒」。けれどジャガイモの芽はしっかり取り除いたはずだし、野兎は新鮮そのもの。火の通り具合だって、煮込みながら突いて確認した。
十日間の旅の疲れが一気に出たのだろうか。しかし彼女は盗賊を率いていた人物。その辺りの街道よりもずっと淀んだ空気で満たされた拠点を使って、ほとんど野営に近い環境で生活していた。
どれだけ首を捻って小賢しく頭を使ってみても、うずくまっている彼女が体調を崩した原因が思い当たらない。
「ねえ。何か思い当たることがあれば言って。」
「無い。」
「俺たち仲間なんだから。遠慮しないで。」
ハヤトに訴えかけられたリオンは腹を押さえながら、しばらく黙りこくっていたが、はっきりとした声で「ほら。」と呟いた。
「あれ、だ。あれ。」
「あれって?」
リオンは張りのある太ももを擦りあわせて、脚を組み替える。
「……アタシ、重いんだよ。あれが。」
体調不良の原因となる、重いと表現される「あれ」とは……。
そうして少しの間考えた少年は、ああ、と声を上げた。申し訳なさがよく表れている表情と共に。
「一人でも大丈夫?」
「ああ。」
苦しそうにしている彼女を放っておくのは気が引けるが、天地を返したとしても「あれ」を理解しきれない男である自分に、何かできることはあるのだろうか。
それに旅を続けるための物資を確保することも重要だ。彼女が動けないのだから、なおさら一人でやるしかない。
「市場に行ってくる。あと、食べる物も持ってくるから。」
「要らない。」
「何も食べないと疲れもとれないでしょ。」
もぞり、と肩を揺するリオン。返事をするのも億劫なのかもしれない。
ハヤトはそれ以上、彼女に何か言葉をかけることはせず。背嚢と革袋の財布、トリカブトの剣を持って、こぢんまりとした部屋を後にした。
宿場町の市場には住民や旅人向けに、雑貨や保存の利く食料品なんかを売る屋台が所狭しに軒を寄せ合う。ハヤトと同じように街道を通ってどこかに向かっている途中なのであろう装い多様な人々は、屋台が連なる細い通路のあちらからこちらへと、肩で躱しあいながら通っている。
必要なものは新鮮なジャガイモと、調味料の塩。それから暗がりを照らすランタン用の油を少々。それぞれが銅貨十数枚で、十分な量が確保できた。
それから、おそらく何も食べたがらないであろうリオンの口にねじ込む為に、練った小麦粉の焼き菓子と葡萄酒。とびきり甘い真っ赤な林檎も三つ。林檎は背嚢に入りきらなかったので、手に抱えて持つしかなかった。
そうして宿屋に戻ろうとしたところ、落ちかけた林檎に気を取られたせいで、物陰から出てきた通行人とぶつかってしまう。
乾いた地面を転がっていきかけた真っ赤な林檎を、細い手が拾い上げる。
その手は今まさに、ハヤトとぶつかった通行人のものだった。
「ごめんなさい。大丈夫かしら。」
母親に両腕で包み込まれたかのように柔らかくて、安心感のある声。目元のほくろ。すらりとした鼻筋とは対照的な、豊かに波打つ肢体の曲線。曲線を覆うドレス。
特徴的な部分に目と意識を取られていたハヤトに、女は朱色の唇に弧を描きながら林檎を差し出した。
「こっちこそすいません。怪我して……は、なさそうですね。」
「ええ。でも林檎が……。」
受け取った林檎をよく見ると、微かに土塊が付いている。とはいえ傷はなさそうなので、土は洗い落して皮を剥けば問題ないだろう。
「銅貨十枚で足りるかしら。」
女がそう言って、どこからか硬貨の音がする革袋を取り出したのを見て、ハヤトはかぶりを振った。
「い、いやそんな!大丈夫ですよ!」
「私が考え事をしていたせいだもの。せめて、これだけでも。」
女の細い手の上には、銅貨が十枚転がっている。
まあ、彼女から差し出してきたものだ。この銅貨十枚で相手が納得しているというのなら、素直に受け取るべきだろう。
ハヤトはいくらかの迷いを心中に残しつつも、銅貨に手を差し向ける。そして細い手の上から銅貨を全て拾い上げながら、女の顔に目線を戻そうとして__
「やっと見つけたわ、悪ーい子猫ちゃん。」
背後から聞こえる、別の女の声。
気がついた時には、脇の下から伸びて出た手が女の手首をがっちりと掴んでいた。
「は、放して!なんなのいきなり!」
「これが仕事なのよ、ごめんなさいね。」
激しく歯軋りをして、振り解こうともがいているが、その手は逆に女の腕を手首ごと翻させて背中に回すと、苦痛に歪んだ顔面を地面に押し付けた。
「ほぉら、暴れない暴れない。抵抗すると、余計に痛くなるだけよ。」
「い、いやぁッ!助けてぇッ!」
助けを求める声を聞いた通行人や屋台の店主は、狭い道の真ん中で繰り広げられている騒ぎに目を向けるが、女を押さえているもう一人の女の姿を見て、不気味そうに顔を引きつらせる。
理由は、あまりにも明白。
その女は黒い革のベルトを襷掛けにしている下に、首の付け根から足元まできっちりと覆い隠す、真黒に染め上げられた婚礼服を纏っているのだ。
黒い婚礼服の女は慣れた手つきで、ハヤトとぶつかった女の手首を後ろできつく縛り、市場の外につま先と体を向けさせる。
「キミも一緒に来てくれるかしら。」
「わ、わかりました。」
風体からして不審な人物だが、この妖しく微笑む女が何者なのかは歴然だった。
襷掛けにしている黒い革のベルトには、小型の弓と矢が詰まった筒がしっかりと括りつけられているのだから。