20:黄金色の髪の少女2・①
耳の奥でまだ男たちが騒いでいる気がする。そんな感覚にさいなまれながら、ハヤトは一日分の汗を落とすために、宿屋の裏口から出てすぐの水浴び場に来た。
いつもより時間は遅く、けれど大きな月が高い所で静かに輝いていてくれるおかげで、手元は意外にもハッキリと見えている。この時間なら他の客は既に寝静まっていて、鉢合わせることもない。
布切れと、替えの衣。それからトリカブトの剣だけ持って出たハヤトは、裏口の戸を開けて、建物の裏道からも目抜き通りからも木板の囲いで隔絶されている場所に、足を踏み入れた。
だが今日に限って先客がいた。
厳粛たる青白き光の階が天より差し、水気を孕んだ御髪は磨かれた琥珀石よりも艶やかに輝く。細く白い首筋から垂れる清らかな雫は鎖骨、へそ、太ももと伝っていき、膝の先からぽたり、ぽたりと地面に落ちて、広がる。
ツン、と伸びた睫毛の奥にある煌々とした灯火のような黄金色の瞳が、乙女の真白い柔肌を上から下へなぞっていく。
その瞳が思いもよらず、立ち尽くす一人の少年の姿を捉えるまでは。
「あ……。」と、朱色の唇から漏れる吐息。
それすらも、少年の鼓動を早めるに十分だった。
「ご、ごめ……。」
ただただ、その言葉しか出てこなかった。
そしてなぜか、少女から目を背けることができなかった。
「み、見世物じゃ……ないん、だけど。」
潤んでいく黄金色の瞳で射貫かれた少年はこの時になって、ようやく少女の体から目を離し、瞼を下した。
スルスル、と柔肌と布が擦れる音がしばらく囲いの中に響いた後、深く呼吸する吐息が聞こえる。
「ほら。早く来なさいよ。」
「いいの?」
少年が思わずそう問い返すと、少女は頬を赤くさせる。
「……いいから。気にしなくて。」
本人がそう言うのならば、と少年はゆっくりと、しかし唇を噛んだまま、少女の反対側で井戸を囲った。
水を汲み上げて、足元に重ねられてあった桶に移す。夜の寒さと地下の冷たさが布切れを水に浸ける手から伝わってきて、体を震わせる。
丈長の衣の裾を巻き上げ、その下の体もまた、水に浸した布切れで力込めて擦る。目線を上げないために俯いたまま。
「……脱げば?」
目の前で同じようにしていた少女は、声をかける。
「そっちこそ。」
少年が十中八九の冗談で返すと、少女の唇がまた尖る。
「ばか。」
囲いの中に静寂が戻る。
布切れを水に浸し、体を擦る。少年は火照る体を鎮めるかのように、ひたすらにそれを繰り返す。
ただ、体の前側が終わった頃。反対側にいた少女はゆっくりと立ち上がると、少年の後ろで膝を地につけた。
「背中、洗ったげる。」
「い、いいよ。大丈夫だから。」
「脱いで。」
しかし少女は、ぐっ、と衣の裾を掴んでいて、離そうとしない。
抵抗は無駄だと悟った少年は、大人しく要求に従い、丈長の衣を脱ぐ。
薄ぺらだった体には頑丈で柔軟な筋肉が厚く層を成している。腹は六つの板に割れ、肩はメロンのように丸く膨らみ、首の根本は頭巾を被っているかのように隆起し、背中には渓谷のような溝が真っ直ぐ伸びている。
ひと月以上レオノルドの訓練を受けた成果は、その体に間違いなく表れている。
自身の体を拭った布切れで、少女は自分よりも大きなその背中をゆっくりと擦っていく。
「痛く、ない?」
「気持ちいいよ。」
「……そう。」
首元から腰骨まで。上から下へと肌を擦る布切れの感覚の裏側に、確かに感じる少女の手の形。
不意にその形が、ひたり、と背中に乗った。
「ルイスさん……?」
名前を呼んでも反応のない少女の答えを、少年は黙って待つ。
「この前の、本気?」
少年は必死に「この前の」と言われることがあったか、と頭の中にある記憶を一つひとつ改めていく。ギルドで仕事の話を聞いた時のことではないだろう。では本の話か、それとも一緒に工房にいった話か、それとも。
そうして気がつくのを、少女は待っていたようだった。
「あ、あれは……。」
キミをからかいたかっただけ、だなんて。
人差し指を絡ませてきた、あの真っ赤な顔を見てしまって。あの時言ったことがウソだった、冗談のつもりだったなんて。今さらそのようなことを平然と言う度胸を、少年は持っていない。
少女は口をつぐむ少年の右頬を、親指でぐりぐりと押した。
「大丈夫わかってる。からかっただけ、なんでしょ。」
そして左頬も、親指でぐりぐりと押す。
「あたしはさ、口も頭も、あんたみたいに躾てもらえなかったから。あんたにやり返されたって文句言えないわよ。だから怒ってないし、あんたも気にしなくていい。」
頬を押す指が、ほんの少しだけ離れる。
「でも、故郷でも歳の近い子どもはいなかった、から。だから、あんたは……。」
頬から離れた手が、両の肩を掠める。
「ルイス。」
少女の名を呼び、体を翻す。
そこには薄い尻を地につけて、黄金色に光る睫毛に小さな雫を溜めこんだ、ひとりぼっちの少女がいた。
「俺もさ、故郷がちょっと遠いんだ。故郷から一緒に来た人がいて、でもその人も今はちょっと遠いところにいて。だから俺も、キミと一緒なんだ。」
互いに知らない、遠いどこかにある故郷。互いに会ったことのない、家族の顔。そして一人で戦わなければならない、孤独。
女と、男。「加護」ある者と、「加護」なき者。この世界の住民と、異世界の住民。
正反対でも、どうしてか似ている少女。
彼女の細い手首を、少年はしっかりと捕まえた。
「俺とルイスは、仲間になる。でもライバルにもなりたい。それに、友達にもなりたい。」
「と、友達なんて、別に……。」
そうして寂しそうに目を反らす少女から、自分だけは目を反らしてはいけない。
彼女の姿は、自分の姿だ。信じあい、高め合う仲間を得られなかった将来の、自分そのものを映す鏡だ。
できないことを、できるようになる。
そのためには、この孤独な少女から目を反らしてはいけない。心の奥にいる何かが、少年に囁いた。
「なるって言ってくれるまで、ずっとこうしてるから。」
「う。それ、は……あぅ……。」
時折、視線を下に落としては顔を赤くする少女から、少年は一瞬たりとも目を離さない。
黒い瞳と黄金色の瞳が重なるまで、ずっと。
「……なる。」
「ホントに?」
「なる!なるわよっ。」
小さく「もうっ。」と不満を垂らしている彼女の口元は、微かに緩んでいる。
「あーあ。使ってる宿屋まで一緒だったなんて。なんでこんなにあんたと同じなんだろっ。」
知らなかったのはルイスだけだということを、ハヤトはあえて黙っておくことにした。代わりに少しだけからかってみようとも。
「もしかしたら、恋人同士だって勘違いされてるかもね。」
怒っていないと知った途端に調子に乗ったハヤトの額に、ルイスはちょっとだけ強めのチョップを食らわせた。
「バカ。いいから早く服着なさい。風邪ひくわよ。」
「ルイスが脱げって言ったのに……。」
「なに。あたしほどのイイ女の裸見て、しかも背中まで洗ってもらったくせに、なんか文句あるわけ。」
「ないです。」
「ならよし。」
ふふん、と鼻を鳴らすルイスの顔は、いつも通り自信に満ち満ちている。
ああ、この少女にはこの顔が一番似合う。替えの衣を着たハヤトは、着ていた衣を桶の水で擦り洗う横目で、そう感じた。
「鎧が出来るの、明日だっけ。」
「うん。朝に見に行く。」
「ふーん。あっそう。」
尖らせた口は興味も関心もなさそうにしておいて。明日工房に行けば、きっと彼女も工房にいるだろう。それか宿屋を出ようとしたところで、偶然ばったり会うかもしれない。
ハヤトにとっては、どちらでもよかった。
このあまりにも理想的な、金髪ツインテールのツンデレチョロインすぎる異世界の少女が、明日も自分と一緒に笑顔になってくれるのならば。
「あたしの顔見てニヤけないでよ。」
「ごめんごめん。」
柔らかく微笑む、一人の少女。
段々と冷たくなっていく夜の風に揺れながら、少女の黄金色の髪は月よりも静かに輝いていた。




