126:教官補佐の仕事②
「おや、ハヤト先生。ごきげんよう。」
「ごきげんよう、ヘネトリーク。」
扉の先から顔を覗かせる青い瞳の少年は朗らかな笑みをこちらに向けている。
「今日はここで勉強?」
カルリスティアの髪を整えてやりながら問いかけると、ヘネトリークは「いえ。」と柔らかい声色で答える。
「私の友人がお姉様にお聞きしたいことがあるというので連れてきたんです。」
ヘネトリークの後ろには「友人」らしき二人の生徒が付いている。彼らがこちらを見る目はどこか距離感があって、カルリスティアへ向けている羨望の眼差しとはまるで違う。
その「友人」の中の一人は緑に染められた革で背表紙が装丁された本を握りしめている。質問がある友人、というのは彼のことだった。
「ご機嫌麗しゅう、カルリスティア様。お尋ねしたいことがありまして御前を失礼いたした次第。どうぞご容赦を。」
「ぁ……あなたを、許します。」
テンプレート的なやり取りだと思われる言葉を交わした後、友人らしき生徒は話題を「本命」へと移す。
「イテルスの三章二編でオターがルコウに説いた、凡なる者が才ある者に優る場合についての言葉に関する、ルストウスの解釈に疑問があるのです。」
生徒の言葉にカルリスティアは「ん。」と頷く。
「イテルスでオターは、知持たざること才に優るべきなく、と述べています。ルストウスは『知』とは知的好奇心を指していると解釈していますが、そうなると五章五編におけるトパルスの戦いの描写との辻褄が合いません。」
「ぁ……ルストウスはよ、読んで、ない。五章五編は、オスタリアウスじゃ、なくて、ニオのちょ、著作。」
「えっ。そうなんですか?」
「ん。ぁ……でも、オスタリアウスの、未完分にか、加筆した、だけ。そこが、トパルスの戦い。」
「では『知』が知的好奇心であるというルストウスの解釈は間違っていないのでしょうか。」
カルリスティアは少しの間、瞼を閉じてから「ううん。」と前髪を揺らす。
「七章四編で、オターはる、ルコウに、真に、価値あるは、書にして、って説いてる。『書』は、経験のこ、こと。後の描写にも、共通、してる。」
「しかし『知』と『書』が同じ意味を表しているとは限らないのでは?」
「ぁ……たぶん、表現をか、変えただけ。四章は、三章から、七年た、経ってる。」
「あっそうか。オスタリアウスはイテルスの三章を作り終えてすぐに、オドーセイアの創作に移っているのでしたね。」
「オドーセイアは、『書』がけ、経験を、指してる、描写が多い。これの、せい。」
「別の作品を作っている間に変化した表現方法を、続編の創作でも使っているということなのでしょうか。」
「だと、思う。」
__なんの話なんだろう……。
ハヤトはカルリスティアに寄り添う形で聞いたのだが、ルストウスだかトパルスの戦いだか「書」が経験だかと、話の要領が全く掴めないでいた。辛うじて、オスタリアウスが『イテルス』と『オドーセイア』の著者であることは理解できている。
「ぇ……古詩学、初めて?」
カルリスティアが問いかけると、彼は何か思うところがありそうな渋い顔で「……はい。」と小さく頷く。
「父からは、その。古詩学を早い内に修めておくように、とは言われていたのですが。古詩は同じ作品にいくつもの解釈が存在しますし、多くの詩人によって加筆や注釈された版がありますから、どれを参考にしたらいいのかわからなくて……。」
「ん……。」
思い詰めたような険しい表情をしている生徒を見たカルリスティアは、自身の右後ろの山から一冊の冊子を漁り取って、彼に差し出す。
「神官、ヤフナの、詩集。」
「ヤフナ?聞いたことのない方です。」
「二年前、死んだ人。」
「かなり新しい詩集なのですね。」
しかし彼は古詩……古い時代の詩を学ぼうとしている身。最近まで生きていた人物が残した詩集を読んで、どうするというのだろうか。
「詩は、言葉。つながりが、ある。」
「つながり……歴史的な文脈、ということですか。」
少女は血の気を帯びた頬を少しだけ緩めて小さく、しかし確かに「ん。」と頷く。
「技法、語彙、風景、展開。全部、つながってる。」
銀色に輝く前髪の隙間から覗く紺碧の瞳は、細い窓から差し込む橙色の光に当てられて瑠璃石のようにキラキラと煌めく。
「つながりを、自分でみ、見つける。そこから、始めて、みて。」
旧きを知るには新しきを知るべし__彼女はきっとそのように伝えたいのだろう。そしてそれは間違いなく、ヘネトリークの友人に伝わっている。
「ありがとうございます、カルリスティア様!」
「……ん。」
険しい表情はいつの間にか、晴れやかな笑みへと変わっていたのだから。
それにしても。カルリスティアは突然やってきた彼の質問へ真摯に答え、重要そうな助言を与えた。ハヤトやリオンやハルハルに優しく接している姿を見ることもある。
彼女はきっと慈しみ深い性格なのだろう、と少年は内心で頷く。近しい血の繋がりがあるとはいえ、ヘネトリークから親し気に「お姉様」と呼ばれている理由もわかる気がする。
こうして友人の用事が済んだ頃、ヘネトリークは視線の先をハヤトへ置いていた。
「そういえばハヤト先生。ニヨンから聞いたのですが、先生は組み合いがかなりお強いとか。」
「そんなことないよ。みんな年下だし、教官だからカッコ悪いとこ見せたくなくて頑張ってるだけだよ。」
「でも先生がルイナークを剣比べで負かしたって話も聞きましたが。」
「いやあ、まあ。事実ではあるけど。」
「ええっ?あのルイナークをこの人が?」
「『一番星』って熟練の傭兵だと思ってたのに……。」
大層な二つ名を受けるに足る威厳がないことは、本人が最も理解している。
「それで先生は、春祭りの決闘大会には出場されるのですか?」
「決闘大会?」
そういえば、とハヤトはそのような話をアストリエスの護衛の女騎士から聞いたことを思い出した。
「王様が主催するやつだったっけ。」
「はい。噂によると今年の賞品の一つが、かなり上等な葡萄酒らしいですよ。かの七代王が秘蔵した物だとか。」
七代王とは、ローゼイ朝フロリアーレ王国の七代国王ロイスタール・フラ・ローゼイだ。賢明な王であったと同時に無類の酒好きとしても知られ、五本薔薇の一角「レイスの樽蔵」に薔薇の紋章を与えた張本人である。
酒に並々ならぬこだわりを持っていたという七代王のコレクションの一つ、という噂が本当だとすれば、腕に憶えのある猛者がこぞって出場することだろう。自分が個人としてどれほどの戦闘力を持っているのかを測る、よい機会になるかもしれない。
「決闘大会の競技ってなに?」
「組み合い、的当て、模擬戦闘の三つです。模擬戦闘は集団戦なので賞品は地味なんですけど、競技は迫力があってすっごく見応えがあるんですよ!」
「組み合いと的当ては個人戦?」
「はい!組み合いは勝ち抜き戦、的当ては点数戦です。的当ての賞品はいつも『アカサスの金槌』製の弓やクロスボウですから、葡萄酒が賞品になるのは組み合いだと思います。」
組み合い、的当て、模擬戦闘。どれも為になりそうだが、貰ってうれしい賞品を狙うならば組み合いに出場するべきか。しかし出ると決めたわけではなく、そもそも自分には教官補佐の仕事がある。やたらに遊んではいられないだろう。
ハヤトはそのように考えていると、ヘネトリークが突然パッと顔を明るくして、「そこで!」とうわずった声で叫んだ。
「先生!今年の引率役、お願いできませんか!」
「へっ?引率?」
話の流れから、生徒たちが春祭りを安全に楽しめるように見守る係なのは瞭然だが。ちらり、と横を見るとカルリスティアは銀色に輝く前髪の隙間からこちらを見上げながら、小さく頷いている。
「春祭りは生徒が四人以上、教官が一人以上の集団じゃないと参加できないんです。」
「いろんな人、が、来るから。」
「ああ、そっか。貴族の子もいるもんね、ここ。」
「はい。一昨年は生徒の誘拐未遂が起きて騒ぎになりました。」
「そうなんだ……。」
オグマンド王立学園は貴族子女が大勢在籍している場所。生徒を狙うタチの悪い連中が防壁の内側に入り込むことをわかっていても、この中世ヨーロッパ風の世界にはそれを完全に防ぐ方法は存在しないだろう。
と、なれば。常に近くで見張る役を置かない限り、敷地から出させないという判断は正しいように思える。生徒四人以上という条件も互いに守りあわせることが目的だろう。
「去年はほとんどの先生方が出払ってしまって、私は行けなかったんです。」
寂しそうに眉を寄せるヘネトリークと彼の友人たち。前の年に誘拐未遂事件が起きて、なおも春祭りに参加させてしまう学園側の対応もいかがなものかとは思うが。
「ベイグルフ王陛下が直々に教官補佐の職を与えた傭兵なら、来たばかりの先生も引率役ができるはずです!お願いします先生!」
「う、うーん……。」
厳めしい見た目をしている巨獣の革の鎧を身につけていれば、良くも悪くも目立ってタチの悪い連中が寄りつかなくなるかもしれない。より単純に、学園に籠りきりになるかと思われたところに降ってきた機会、と考えるのもいいだろう。
どうするにせよ、頼りにされて無下に扱うのは忍びない。
「俺も引率役やっていいか、後で学園長先生に確認してみるよ。」
「わかりました!」
まだ決まってもいないのに明るい笑顔を見せるヘネトリークからの頼みには、応えてやりたいものだと思うハヤトだった。




