108:寝坊、野暮用
「……あれ?」
ハヤトが腫れぼったい瞼を擦りながらのっそりと顔を上げると、ずいぶんと高い所から差してきている陽の光で焼かれて思わず顔を背けた。
ぐらり、ぐらりと揺らぐ意識をなんとか掬い上げて目を開くと、右腕を握りしめて眠るカルリスティアがいて、頼りない肩を小さく上下しながら静かな寝息を立てている。細く白い手が重なっている所から柔らかい熱がじんわりと広がって、どうしようもなく心地よい。
このまま、この熱と気だるさに身も心も委ねてしまいたい。このまま、銀色の髪の少女がどこにも行かないようにしてしまいたい。
だがここでようやく、かなり寝坊したのだと気がついた少年は重い、重い腕を強張らせて毛皮のブランケットを体から払い退けた。
「ん……ぁ、ぅ。」
「ああ、ごめん。起こしちゃった?」
「ううん……起きて、た。」
「ホントかなぁ。」
小さく欠伸して紺碧の瞳を向けてくるカルリスティアの頭を撫でながら、ハヤトも肺の奥からゆっくりと息を吐き出した。
ベッドから出た二人が一階に降りると、物音を聞きつけたらしいハルハルが居間から飛び出してくる。
「にいちゃんもカルリスティアおねーちゃんもおそーい!」
「ごめんごめん。」
「ボクお腹すいちゃったよう。」
「ぁ……ご飯。」
「うん。お腹空いたね。すぐ作るよ。」
汲んでおいた水を暖炉の火にかけ、根菜はナイフで皮を剥いて投げ、干し豆をひと掴みだけ取り投げる。塩をふた摘まみ、味を見てからひと摘まみ。あとはよく煮えたら完成だ。
以前も述べているが、塩と根菜と干し豆だけのスープが旨い道理はない。コリーンが差し入れてくれるパンは、溜まっている分から片付けてしまおうと思うと必然的に水気が減った物を食べる破目になるわけで、千切ってはスープに浸して口に投げる、を繰り返さざるをえない。
そうだとしても成長期のハルハルや男のハヤトが満腹になれるだけの量は作れる、ということが重要だ。カルリスティアが一杯と一つだけで満足そうに血の気の通った頬を緩ませてくれるのが、どれだけ助かることか。
こうして昼に朝食を取り終えたハヤトは食器を片付けると、トリカブトの剣を持って勝手口から出た。
家の裏手側では女たちが飼っている鶏に餌をやったり、灰色の水に衣服を浸してから木の棒で叩いたりしていた。剣を持ったハヤトが現れると、井戸の近くで洗濯していた女たちが振り向く。
「あーら、今日はずいぶん遅いわね。」
「寝坊しちゃいました。」
「まあ、そうだったの。」
女たちと話している間に、丈長の衣を脱いで剣を抜く。
深い切り込みが特徴の三つ又の葉の装飾が施された、銀色に輝く鍔。
花言葉は「騎士道」、「栄光」、そして「復讐」。
所々が白んだ天から地上を照らす白光に当てられてぎらりと光る、鋭い片刃。
最も基本的で、最も効果的な構え。
切っ先は、目に見えぬ討つべき敵へ。
頭の上まで持ち上げ、腰の下まで降り下ろす。頭の上まで持ち上げ、腰の下まで降り下ろすという動きを黒い髪の少年は粛々と、延々と、堂々と繰り返す。女たちがこちらを窺いながら何やら話しているのに、まったくもって気を遣らず。
体感としておよそ三十分は素振りを続けた少年は、ちょうど五百回のところでゆっくりと息を吐き、構えを解いた。
片刃の刀身は鏡のように澄んで光り、鍛えられた鋼は硬くしなやか。剣に並々ならぬこだわりを持つオナー人ではないが、この手の中にあるのが不相応だと思ってしまうほど見事な剣だ。
「……んん?」
ふと、刃の一部がくすんでいるのに気がついた。柵にかけておいた丈長の衣で拭ってみてもくすみは取れず、よくよく見れば他にも同じような症状が見受けられる。
この剣に限らず、刃に残った血や脂はすぐに拭い落すようにしていたのだが。それでも金属である以上、手入れを怠れば錆やくすみが浮かぶのは避けられないのだろう。
しかし思い返してみると、メイン武器である斧を使い捨ててばかりいたせいで手入れの方法に頓着してこなかった。砥石で研ぐ、くらいのことは想像がつくが手元には無い。そもそもどこで手に入るのやら。
「……ネイル工房で聞いてみるか。」
王国一の技術者集団がいる都市に滞在しているのだ。
少年は布切れと井戸水で汗を拭ってから、外出するための身支度を整えるべく勝手口の扉を開けた。
「ちょっとネイル工房に行こうと思うんだけど、二人も一緒に行かない?」
「うん!ボクもいく!」
「ぁ……私、も。」
暖炉に当たりながらくつろいでいたカルリスティアとハルハルも誘って、ハヤトは丘を登っていく。煙突たちは今日も元気に黒煙を吐き出していて、根元では男たちが汗を流しながら鉄を鍛えている。
ネイル工房の職人や職員にはとっくに顔が知れていて、用を訊かれることもなく透かし塀の内側に入ることができる。ハヤトたちはやはり忙しなく歩き回っている男たちの隙間を縫いつつ、とある作業場に顔を出した。
そこでは見習いらしき若い男たちが、炉で熱されて白熱した鉄棒を狙いの形状へ加工していた。偶然か必然か、彼らが鉄を叩く調子は浜を打つ波のようで小気味いい。
「ッたく。何度言やぁわかんだ!」
「すっすいません!」
ただ、作業場の奥まった所では中年くらいの男が若い女に付きっきりになって、太い鉄の棒で組まれたハサミの扱いを教えていた。しばらく観察していると、どうやらそのハサミは鉄棒を移動させるための道具のようなのだが、女は炉へ入れるのも炉から出すのも覚束ないらしい。
からん、からんと白熱した鉄棒を落とした回数は十そこら。ここに来る前にもっとやらかしているのだろう。
「炉から出すたンびに落としてどうすんだ!」
「すっすすすいませんッ!」
女は慎重に、かつ着実に白熱した鉄棒を取り出そうとしている。両手で握ってしっかりと挟み、燃料を掻き分けて鉄棒を浮かし、金床の上へ運んで__
「あっ。」
今回も白熱した鉄棒は地面へ転がり落ちてしまった。中年の男は土塊が付着してしまったそれをあっさりと拾って炉へ放る。
「研ぎ、やってろ。」
中年の男の静かな宣告に、若い女は少しだけ俯いて「……はい。」と呟くように答えた。
積まれた木箱の一つを抱え上げる女の背は陰が差しているように見えて、なんともいたたまれない。
「お前ら。なんか用か。」
「ああ、はい。」
声を荒げていた姿から変わってかなり落ち着いた雰囲気になった男に、少年はトリカブトの剣を差し出した。
「この剣の手入れをしたいんですけど、やり方がわからなくて。」
「アダルフの剣か。どれ、見せてみろ。」
男は右、左と両面を一瞥するだけで答えを返す。
「お前、ろくに手入れしてねぇな。」
「はい。血と脂を落としたくらいです。」
「それでこの状態だっつうんだからな、アイツの腕もこの鉄も。」
そう、正しい手入れができていないのにもかかわらず、この剣はクリオから渡された時とほとんど同じ輝きを保っている。それについては本当に、本当にありがたいと思っている。
「ま、ざっと研いでやりゃいいだろう。」
中年の男はまた振り向くと、円形の石が付いた器具に腰かけて木箱から剣を取り出そうとしていた若い女に声をかける。
「おい!この兄ちゃんに研ぎのやり方、教えてやれ!」
「えっ?!あっははっはい!」
ハヤトが女の所へ近寄ると、若い女は引きつった顔で少年の顔を見上げる。
「あ、あの。研ぐのは、それっすか……?」
「はい。」
「ぎえぇえぇぇ……。」
本当に彼女に教わっていいのだろうか、とハヤトは内心で首を傾げる。しかしこの作業場をあてがわれているあの男が任せるのだから大丈夫なのだろうと、剣を差し出した。
「え、と。騎士の方、ですか。」
「いや、傭兵やってます。」
「ああ、じゃあ砥石でやったほうが……。」
円形の石の器具の近くには、道具が詰め込まれた工具箱や水を張った桶が置かれている。女は工具箱から長方形の石を取り出すと、左膝に右足を乗せ、その上にトリカブトの剣を置く。
「えと、刃を研ぐ時はとにかく、角度に気をつけてください。」
女は「これくらいで。」と砥石を刃に当ててみせる。浅くはあるものの、寝かせると言うほどではない。
「少しだけ力を入れて、滑らせる感じで擦ってください。」
「滑らせる感じですね。」
砥石で刃を撫でる手つきはかなり安定していて、ぎん、ぎんという金属と石が擦れる音が一定の調子で鳴っている。刃の状態を確認しつつ、二、三十回ほど磨くとトリカブトの剣の刃は曇りの無い輝きを取り戻した。
それにしても。白熱した鉄棒を何度も落としていた姿からは想像つかない手際の良さだ。説明は端的だが、実演しているのもあってわかりやすい。
「じゃあ、はい。反対でやってみてください。」
「わかりました。」
ハヤトは女と同じ格好、同じ調子になるよう心掛けて砥石で刃を磨いていく。たまに女から「もう少し強めに。」だとか「もっと砥石を寝かせて。」と指示されて、作業を進める。
こうして刃の研ぎ方を教わっている間、他の見習いたちは自身の作業に没頭している音が響いていた。だいたいが剣を作っていて、数人は斧らしき幅広の鉄刃を叩いている。
彼らを率いる、中年の鍛冶師。無精髭の男が携えていた溝付きの狩猟剣を作ったと思われる人物。
是か、否か。「碧い刃」と内通している疑いがある。
それは、この工房にいる全ての人間が当てはまるのだが。
__……でも。
大量の毛皮の引き取り手になってくれ、装備まで作ってもらった。自分は取引相手とはいえ、いつも快い応対をしてくれた。
ここにいて、接した人たちは皆、癖はあっても悪いヒトではない。
小賢しく考えるのは、自分の役目。なの、だが……。
「ああ、はい。いい感じだと思います。」
女よりもずっと時間はかかったが、こちらの面もぎらぎらとした妖しい光を放つようになった。しかし、くすみは刃以外の部分にもある。こちらはただ砥石を当てればいいのだろうか。
「刃以外の所も磨いていいんですか?」
「気になるのなら。」
ならば、と少年は砥石で気になる部分を磨いていく。くすんでいない所とまったく同じにはできなかったが、それなりに見栄えのいい状態にすることはできた。
「えと、研ぎはこんな感じです。」
「砥石って雑貨屋で買えます?」
「たぶん買えますよ。金物屋とか、武器屋でも。」
ハヤトは脳内予定表に、帰り道で雑貨屋へ寄るという工程を加えた。
「ありがとうございます。」
「あ、いや。私はこれくらいしかできないんで……。」
少年は若い女と、中年の鍛冶師に会釈してから作業場を後にした。
研磨されたトリカブトの剣を左腰に携えてネイル工房を出たハヤトは、南へとつま先を向ける。最近は人通りも住民たちが騒ぎ立てることも少なくなって、平穏で賑やかな都市に戻っていた。
自分は、傭兵。自身の命を危険に晒し、他者の命と財産を守る者。良くも悪くも、そうあるべきだ。
きっと、そうなんだ。
一歩、また一歩と丘を下っていく足取りは少しだけ重くなっていた。
「……ん?」
左の袖を引いてくる、細く白い手。銀色に輝く前髪の隙間からこちらを覗きこむ、紺碧の双眸。きゅ、と締まった朱色の唇。
血の気を帯びた白い頬が、少しだけ緩む。
「大丈夫、だよ。」
「……うん。」
この銀色の髪の少女を心配させてしまうような顔をしているのだろうか。自分がどのような表情をしているのかはわからないことがあまりにも、もどかしい。
「にいちゃんはボクが守ってあげるからね!」
「ハルハルは頼もしいなあ。」
「へへへーっ。」
風で揺れた栗色の髪を撫でてやれば、人懐っこい可愛らしい笑顔が返ってくる。
あとは、よく見慣れた赤毛の長髪の持ち主が戻ってくれば、それで……。
「おうい!『一番星』ィーッ!」
丘の斜路を下った所、人混みのずっと奥からこちらへ走り寄ってくるやや小柄な男。
それなりに見慣れつつあったが、近づくほどに彼の慌てた表情が明らかになる。只事ではないことは瞭然だ。
「何かありましたか!」
ハヤトたちが急いで近づいて合流したところで声をかけると、やや小柄な男は「ああ!」と慌てたように答える。
「あいつら、とうとう動きやがった!」
あいつら__「碧い刃」が、壁の中で動いた。この言葉の意味はただ一つ。
「お前の読みは正しかった!東門の近くの家に、見かけない連中が集まってる!」
「本当ですか!」
「ああ!お前はとにかく『風の呼び声』に行け!オレは城に行ってくる!」
「いや、城には俺が行きます!」
「なにっ?!まあ、そりゃあ助かるけどよ!」
物事の始まりは、常に突然訪れる。自分ではない誰かによるのだから、なおのこと。そして動き出した物事が同じ位置に留まりつづけることはない。
だが、しかし。覚悟はいつだってできている。
「任せてください。」
黒いたてがみを風にたなびかせる若獅子は仄暗い黒に染まった瞳を煌めかせて、間もなくやってくるであろう「その時」を見遣っていた。




