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103:ひと欠片

 

「くあぁ、あぁぁ……。」


 ベッドに寝転がって腹を掻いている豊かな赤い毛並みの雌狼は、この借家に戻ってから数日、ずっとこのような調子でたるみきった時間を過ごしていた。


 いったいどのような苦労をかけたのかはわからないが、多大な心労を負わせたことには違いないと思って何も言わないでいたハヤトだったが、もうそろと「これから」のことを打ち明けることに決めた。


「リオン、話がある。」

「ん、おう。」


 ベッドの横に持ってきた椅子に腰をかけ、深みのある赤褐色の瞳をしかと覗くハヤトに、リオンはのっそりと体を起こしてあぐらをかくことで応じた。


「碧い刃は半年もキハロイの近くに居座ってる。そろそろ何か、行動を起こす頃だと思うんだ。」


 黙って揺れる赤毛の長髪。


「そのために俺たちも備えをする必要があると思うんだけど、リオンは何かやっておきたいこととかある?」


 今度の件で間違いなく功労者として称えられることになるリオンを早めに労わるのは悪いことではないだろう。まあ、銀貨が一枚、二枚飛んで消えるくらい痛く……まったくもって、痛くない。


「……そうだなあ。」


 一方でリオンはぼさついた横髪の裏にある耳を右手で擦ったり、足を組み替えたりして首を捻っている。


 ハヤトは待った。急かすことはなく、慌てることもなく。普段から気ままにしているリオンにこちらから要求を要求する機会はなかったから。そうしなければいけない用がないというのもあったが。


 ただ、だからこそ。よく聞き慣れたやさぐれボイスで返ってきた答えにハヤトは、冷や汗を一粒垂らしてしまった。


「もう一度、行かせてくれ。」


 行かせる、とは。いったいどこへ送り出せばいいのか。いや、彼女がそのように表現する場所など満にも一つしか心当たりがない。

 だとすれば、なぜこの赤毛の女はそのようなことを。


「どうして?」

「もうすぐなんだ。」


 なにが、と聞き返す前にリオンの口から話の続きが出てくる。


「今ンとこあいつらは、アタシが『哀れな奴隷の女』だと思ってる。もうちっと入り込めりゃあ、なかなか旨いトコまでアガれそうなんだ。」


 要するに彼女は、さらに「碧い刃」の幹部たちからの信頼を得られれば重要なポジションを任せてもらえる確信を得ているらしい。


「でも、どうするの?一回戻ってきちゃってるのにまた行けるの?」

「ああ。もうすぐご主人様が帰ってくっから、戻って家、カラにしてたのをごまかさにゃなんねぇっつってある。」


 なるほど、とハヤトは思わず感嘆する。留守を任されたのにも関わらず「碧い刃」で活動していた……主人の命令を守らず、いずれ厳しい罰が下されるだろう奴隷、という物語を作ってしまうとは。


 機転が利くところは、さすがは数百人規模の集団を統率していた人物。それにそのような確かめようがない言い訳が受け入れられるほどには、ごろつきばかりの集団でも信頼を勝ち獲れている。


 この信頼はもしかすると、強力な「一手」へ変えられるかもしれない。

 例えば襲撃部隊の規模や装備、参加している構成員の能力、注意が必要な構成員を報せてもらえば。こちらがどれだけの戦力を出せば撃退できるかが判断できる。襲撃の日時がわかるとなお良い。


「お前がなぁに考えてんだか知らねぇが、たぶんそれよりもイイ案があるぜ。」

「へえ。どんな案?」


 牙のような八重歯を見せてニヤリと笑う、赤毛の女。


「壁ン中に入る部隊。」

「……わざと壁の中に招き入れるってこと?」


 リオンとほくそ笑んでいることからして、二人が見ている未来は同じだ。


 キハロイを襲撃する作戦の第一段階、東門の確保と開放。これは門近くの建物に潜んだ「碧い刃」の構成員が夜中に奇襲する方法をとっている。どの建物を使うかが判明すれば逆にこちらから奇襲でき、極めて有利な形で「碧い刃」の部隊を迎え撃てる。


「どれかは見当ついてっけどな。」

「そうなの?」


 リオンは後頭部を掻きむしりながら「まあな。」と呟く。


「門の辺りの地図もあったんだ。門から見て左手の並びに印がついてた。」

「どの建物かはわかる?」

「いや。戻る時に見たけどよ、その辺にゃあ家が四つ並んでんだ。」


 広大なこの都市に数えきれないほどある家屋をしらみつぶしに制圧しなければならないよりは、すでに四軒に絞り込めているのは好都合だ。


「みつ月前からズスリスが偽名使って部屋、借りてあんだと。」

「じゃあ問題は、いつ決行されるかだね。」


 襲撃の拠点として部屋一つを借り上げる資金力と計画性を思えば、「碧い刃」はいつでも作戦を決行できるはず。

 しかし現状、そうしてはいない。戦力と資金をさらに集めている。


「まだ準備するつもりなのかな。」

「ンじゃあねーかね。」


 用意周到なあの連中のことだ。さらに時間を与えてしまっては逆転する芽が生える前から潰されてしまいかねない。なんとかして連中が事を急くように仕向けられないだろうか。

 腕を枕にして仰向けに転がっているリオンを、ハヤトは椅子に座って見下ろす。


「どの建物が使われるかはこっちで調べてみる。リオンはなんとかして門を襲う部隊に入って。」

「ンでもって『本番』で背ぇ射抜いてやりゃあいいんだな。」

「うん。容赦なくね。」

「ッたりめぇだろ。」


 こうしてくつろいでいる姿からは想像できないが、彼女は「風の加護」を持ち、クロスボウの扱いと蹴り技に長けている。きっと屋内でも大いにその実力を発揮してくれる。


 重要なのはこちらがそれの動きへ完璧なタイミングで合わせること。まずはズスリスが部屋を借りている建物を特定し、突入する人員を選び、反撃作戦を組まなくては。


 やることは多い。その時が近づくほどに増えている気さえする。


「いつ行く?」

「早い方がいいか。」

「じゃあ明日の夜明け前にしよう。」

「あいよ。」


 こうなることを見越してずっとごろごろとだらけていたのだろうか。ハヤトはやはりごろごろとだらけているリオンを眺めて思う。


 一方で、だらけている本人はだらけつつも、どこかへ思いを馳せているようで、深みのある赤褐色の瞳をあちらへこちらへと動かしていた。やがて決心がついたらしく、また起き上がってこちらへ向き直る。

 その顔は、凛々しく引き締まっていた。


「なあ、頼んでいいか。」


 珍しく改まっているリオンに、なにを、と聞き返す。


「この体、『哀れな奴隷の女』にしちゃ綺麗すぎっと思うんだ。」

「……まあ、そうかも?」


 赤毛の長髪はあまり手入れがされていなく、毛先がやや跳ねて野性味を感じる。とはいえ傷んでいるわけでも痩せているわけでもなく、よく栄養が行き届いていて健康的な艶がある。


 肌に目立った傷跡やアザがないところに違和感を覚えると言われればそうだろう。太ももにはかつて手ずから与えた攻撃の跡がうっすらと残っているが、筋肉で締まった両の脚に走っていればそれすらも装飾品になっている。


 総じて健康的で、哀れさよりも頼もしさを覚える彼女の体。

 奴隷らしいかと問われると、どちらかと言えばそうではない、と答えざるをえない。


「だからよ。なんとか、やってくんねぇか。」


 そう言われても、とハヤトは内心で唸る。

 今から食事を抜いても意味はないし、そんなことはさせたくなく。髪を手早く痛ませる方法も思い当たらない。しかし、あとに残るのは……。


「いや、嫌だよ。リオンを殴るのなんて。」

「それしかねぇだろ。」


 理屈は、まあわかる。しかし敵対組織に潜入して情報を抜き取り、さらにもう一度潜入しようというかけがえのない仲間を必要だからといって殴るなんて。どうしたって同意しかねる。


 痛い思いをしてほしいわけではない。痛い思いをさせたいわけでもない。ただ一つの目標に向かってそれぞれの特技や適性、できることを組み合わせて進んでいこうという話だ。


 けれども。少年は内心で、ああ、とため息をつく。

 小賢しく考えるのは自分の役目だが、その役目をこれほどまでに恨めしく思う時が来るとは。


 すでに事は動いている。

 大切なのは、何を成すかだけ。


「……わかった。」

「容赦はいらねぇ。」

「…………わかっ、た。」


 これは本人が求めていること。これはあくまでも、仲間が思い通りに事を運ぶための偽装。


 誰かがやらなければならないのなら、せめて自分がやらなければ。それが自分のために覚悟をもって動こうとしている仲間に対する、自分が持つべき責任であって。それが今回はこのようなカタチだったというだけで。


 丈長の衣やなめし革のズボンを脱いで、最も大切な場所以外を晒す赤毛の女。


 肌も、形も、色も、影も。

 とても美しいとハヤトは想った。


「直接やりゃ、それらしくなんだろ。」

「わかった。」


 やるのなら、最善を尽さなければ。


 椅子から背と尻を剥し、眼前であられもない格好に耐える「ひと欠片」に向けて。黒い髪の傭兵は握った拳と仄暗い黒に染まった瞳を振りかざした。


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