98:灯の館①
二人の仲間が壁の外に出てから五日目のこと。
この日もハヤトとカルリスティアはサント・ライナ城の二階でアストリエスと話し込んでいた。どちらかというとアストリエスが話す側で、商人たちの様子はどうだとか城の兵士たちの様子はどうだとか、ままそういった内容だ。
対してハヤトも時折、傭兵たちが相も変わらず騒いでいること、商人たちが相も変わらずカネを稼いでいること、酒場が相も変わらず人でごった返していることを彼女に伝えていく。
そうしているとあっという間に時間が過ぎてしまって、外では太陽がずいぶんと低い所まで落ちてくる頃合いになる。
「ああ。そろそろ帰らないと。」
ハヤトがそのことに気がついて席を立つ。カルリスティアも倣って椅子から背中を離そうとすると、アストリエスが「待って。」と声をかけてきた。
「ねえハヤトさん。ひと晩、カーリーを借りたいのだけどいいかしら?」
「え。まあ、俺は別に……。」
ハヤトには申し入れを拒絶する理由も道理も権利もない。アストリエスの所に泊まるかどうかを決めるのはカルリスティアだ。
「どうする?」
「ぁ……ん……じゃあ、リエスといる。」
本人がこうして乗り気ならば、なおのこと。
「夕食はハヤトさんも一緒にいかが?」
「いや、俺はいいです。カーリーと二人で食べてください。」
こうして偶然にも同じ都市の中にいるのだ。たまには幼なじみ同士で積もる話をすればいいと、ハヤトは思う。
「と、ハヤトさんは言っているけれど?」
「ぁ、ぅ……。」
カルリスティアはそれきり、口を閉ざしてしまった。
「カーリー、明日迎えに行くからね。」
「うん。待ってる。」
「じゃあ俺は帰ります。カーリーをよろしくお願いします。」
「ええ。また明日。」
「……ばいばい。」
丘の頂上に築かれた城を出て、北から南へ坂を下っていく。鎧を身に着けなくなってから一か月ほど経つが、この緩やかとも険しいとも言えない勾配がある道を何度も往復したおかげで、体力や脚力を損なわずに済んでいた。
今日も確かな足取りで町を歩いていけば、職人に叱咤される見習いや住民の営み、傭兵たちのバカ騒ぎが音や風景、振動や熱気といったモノとして体に伝わってくる。
この世界に来て、半年ほど。
半年も経っていると頭ではわかっていたが。事実としてそうだという感覚はあまりない。
王城での六日間。辺境伯領への道のり。ハアースでの出会いと別れ。王都へ上がる旅。侯爵邸での日々。大森林と謎の巨獣。そして、ここ。
常に誰かが隣にいてくれて、寄り添ってくれた半年間だった。
左腰に携えた剣の柄を、ぐ、と握る左手。
「……遠いなあ。」
故郷は、ずっと遠い。
そしてあの二つの背中も、まだまだ遠い。
けれど、独りではない。
仲間たちが今は誰一人として近くにいないからこそ、そう思えた。
ちょうど、その時。腹の虫が食事時の鐘を鳴らしてくれる。今は一人、四人で掛けられるテーブルを探す手間が省ける。
「腹減ったなあ。」
黒い髪の少年は誰へともなく呟いて、行き慣れた酒場へつま先を向けた。
「今日は休みなんですか?!」
しかし少年の前にお出しされたのは、コリーンの「ごめんねー。」という言葉だけだった。
「最近すッッごくお客さんが多くって、食べ物の仕入れもお酒の仕込みもぜーんぜん追いついてないのー。」
と、コリーンが団子髪を揺らして謝った通り、「割れた杯」は臨時休業となってしまっていた。アストリエスについてきた商人たちのせいでキハロイは連日沸き立ち、そのままの熱量で客が押し寄せて食材も酒も食い尽くしてしまったらしい。
「お肉屋さんにも在庫なーいって言われちゃってさぁ。次の食材が来る荷馬車も、あと二日は待たないとなの。」
「そうなんですか……。」
さて、と内心で頭を抱えるハヤト。物置にあるのは長距離移動のための保存食のみ。自炊しようにもこの時間では、市場の屋台に店主がいない。
ぶらり、ぶらりと町を歩いていっても見当たる酒場はどこも満席。通りにテーブルと椅子を持ち出す店まであって、職人か傭兵か兵士か従者かまったく定かでない男たちが木組みの杯と広口瓶をいくつも手元に置いて食事を貪り食っている。
せめて今晩の食事くらいは済ませたいところだが……と、ハヤトはうねった通りを東から西にあてもなく歩いていく。
「おお?『一番星《the Golden Star》』じゃねえか!」
そんな腹を空かせたカネだけは持っている男に、声をかける者がいた。
彼はやや背は低いもののがっしりとした体格をしていて、顔は少し赤らんでおり、そして酒臭い。背中には大きな弓ではなく毛皮のマントが垂れていて、しかし腰には短身剣を帯びていた。
「どうも。はしご酒ですか。」
「おうっ!三つ目ぇ探してんだ!」
普段のしっかりとした口調をどこかに忘れてしまっているということは、もう出来上がっているということだろう。
「おめぇどうした!シケた面してよう!いつもの連れはいねぇンか!」
「今は一人なんです。夕飯を食べたいんですけど空きがある酒場がなかなか見つからなくって、ちょっと困ってます。」
彼がどうにかできるとは思えないが、何の気もなく正直に状況を伝えてみるハヤト。するとやや小柄な男は逞しい腕で少年の肩を抱き寄せると、したり顔で酒臭い口を開く。
「ンならよ。例の店、行かねぇか?」
左の拳を握り締め、人差し指だけをくいくいと曲げる。おそらく何らかの意味を持つ仕草なのだろうが、この世界の住民ではないハヤトには一切通じない。
ただ、彼と交わした会話で登場した「例の店」と表現するような場所には心当たりがあった。
まあ、別に。食事をするだけならば、普通の酒場と変わりはないはずだ。
「……行っちゃいますか。」
「ようし!男ならそうこなッきゃあなあ!」
やや小柄な男に連れられる形でキハロイの街並みを縫って歩いたハヤトは、町の南端辺りにある建物の前までやってきた。
三本の松明が屋根から伸びている邸宅の看板を、広い軒に垂らす建物__酒場「灯の館」。
扉の向こうは他の酒場と同様、客で溢れかえっていた。しかしテーブルは辛うじて空きがあり、二人は丸椅子が四つ据えられた、程よい広さの天板のテーブルを占拠することができた。
「ここ空いてっか?」
「おうよ!」
直後にもう酒臭い二人組の傭兵らしき男がやってきて、彼らと相席することになりはしたものの。
「姉ちゃん!酒持ってきてくれ!飯も山ほどな!」
やや小柄な男が声をかけると、一人の女が「はぁい!」と返す。
ところで。その女しかり、店内を歩いている従業員らしき女たちの格好はやけに危なっかしい。上半身は普通のドレスと似ているが胸元がやけに強調されており、裾は異様なまでに高く切り詰めてある。
そして女たちは全員、白や橙、赤や緑に塗られた仮面で口元以外を覆っている。切り花や編み込みで可憐に飾られた髪に、仮面にくくられた紐が這っているのが身中で虫が蠢いているような違和感を覚えてやまない。
そういうコンセプトなのか、あるいは顔で選ばせないためか。妖艶な肉体美で男たちを振り向かせる女は絶えず呼び出されているし、そうでない女もそこそこの注目を受けている。
「キョロキョロしちまってよう!ここは初めてか!」
「ハッハーッ!童貞丸出しだぞ兄ちゃん!」
「どっ、童貞じゃないです!」
相席している二人組の男は聞く耳を持たず、両側に座ってからかってくる。その様子をテーブルの反対側から窺っていたやや小柄な男は、とうとう天板を叩いて立ち上がった。
「お前らそんくれぇにしといた方がいいぜ?なんてったってそいつァ、あの『一番星』だからな!」
「ああ?こいつがぁ?」
「おう!一晩で三百の盗賊をぶった斬り、山のような金貨を探し当て、『紅い疾風』をひと蹴りで片付けて自分の女にしたっつう、あのだ!」
どうやら「一番星」の功績は、やけに派手な尾ひれがついた状態で広まってしまっている。部分的に合っているところが逆にタチが悪い。
幽霊騎士の噂といい、「一番星」の功績といい。噂というのはヒトからヒトへ伝わっていく間に誇張されたり事実と異なる情報が加えられたりしていくようだ。
それを思うと最も眉唾に思える「謎の巨獣」の噂だけは、おおむね事実に基づいて伝わっていたというのがこの上ない皮肉に感じられる。
「ダッハッハ!こーんな青くせぇガキが『一番星』なわけねぇだろ!」
「まあ、ここじゃあ新人なのは事実ですから。」
「そら!コイツがこう言ってんだぜ!ハッハ!」
鍔に布を巻いた剣しか携えていない自分が「らしく」見えないのは当然だと思うハヤトは、この男たちとの衝突を未然に防ぐことを優先することにした。名誉を守ろうとしてくれたやや小柄な男には悪いが。
歯軋りをし、すぐにでも殴りかからんと拳を固めていたやや小柄な男は「そうかよッ。」と吐き捨てて尻を丸椅子に戻した。
ひと悶着が起こりかけた後、ようやく女店員が木組みの杯を持ってきた。数枚の銅貨の代わりでテーブルに置いていった衝撃で、数滴ほど零れてしまうほどになみなみと注がれたエールを男たちは天上へ掲げる。
「今夜の良き出会いに!」
「「良き出会いに!」」
ぐい、と勢いをつけて仰ぐと茶色い液体が喉を通って胃へ落ちていく。液体はぬるくて苦く、しかし舌の上を過ぎきる時にハーブか何かの刺激的な匂いが、鼻奥に柔らかく触れる。
どこの酒場でも、ただぬるくて苦いだけのエールが出てきたが。ここのエールはなかなかに手が込んでいるようだ。
「なかなかイイ酒だろッ。ここは酒も飯もうンめぇんだぜ!」
「マジっすか!」
やたらに歩いたせいで空腹具合も悪化している。空っぽの胃に刺激的な味わいのエールを入れたことで、なおさらに。
それから男たちは杯を三度、四度と揃って傾けた。すると二人組の男の片方が突然、右手を大きく振り上げる。
「なあ聞いてくれよ。ちと前から西の通りの若旦那んトコで仕事してんだ。」
「ああ、あの若ぇのにやり手の。」
「近所の女とねんごろなんだって?」
「そうだっあン野郎!毎晩毎晩ッオレの横でようッ!なんなんだアイツぁ!」
仕事で疲れて眠ろうとしている隣でストレスフリーな行為に及ばれるストレスフルな生活を送っていれば、この店に来てしまうのも納得できる。
「恋人はいないんですか。」
「いるわきゃあねぇだろ、ンなむさ苦しい男に!」
「むさ苦しいってなんだテメェ!」
「言われたくなきゃそのクソだせぇ髭、ちったぁマシにしてこい。」
もみあげから顎まで四角形に広がって伸びた髭に、杯から散ったエールが一粒、二粒と滴り染みていく。
「おい兄ちゃん!オレの髭だせぇか?!」
「逞しくてかっこいいと思いますよ。」
「だろうっ!ハッハーッ!」
彼に恋人ができない原因はむさ苦し……逞しい髭ではなく、酒臭さと鎧姿にあると思うが。と、ハヤトは男が杯を傾ける姿を眺めながら思う。
いや、しかし。話からして商人の家に住み込みで働いているようで、それだけ傭兵としては信頼の置ける人物だとすれば稼ぎもなかなかのものだろう。
「こんな店に来ないで貯金して畑を買えば、その内に結婚できるんじゃないですかね。」
「おいおい兄ちゃん!それまでだぁれにオレの槍ィ磨かせりゃあいいんだよ!」
「……自分で?」
「カァーッ!これッだから最近の若いのはぁ!」
そもそも、この店に来ている時点で貯金などという計画的な行動をとれる人物のはずはなかった。