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乃愛⑥

 さっぱり興味を持てないドイツ語の授業は退屈で、欠伸を堪えるのが難しい。何しろドイツ人の感覚が理解できない。

 少年を意味するJunge (ユンゲ)は男性名詞なのに、少女を意味するMädchen (メートヒェン)は女性名詞ではなくて中性名詞。ドイツ人の感覚では、男性は子供の頃から男であっても、女性が少女のうちは男でも女でもない中性的なものに分類されるらしい。その他、月や曜日が男性なのはまだわからないでもないけど、季節まで男性名詞。夏はともかくとして、春なんてとっても女性的だと思うんだけど。

 開かれた窓から、ゆるゆると心地よい風が頬を撫でる。暦の上ではもうすぐ夏になろうかというのに、この柔らかで穏やかな日差しはどう考えても男性的には思えない。やっぱり学校に来るのなんてやめて、部屋で寝ていたらどんなに気持ちよかっただろうと考えてしまう。

 でも駄目だ。これ以上単位を落としたら、本当にアルバイトどころではなくなってしまう。

 ドイツ語のウィルヘルム先生――旦那さんがドイツ人なだけで、見るからに典型的な日本のおばさん――は並みいる大学の講師陣の中においても厳格で知られていたので、油断するわけには行かなかった。代返でごまかせるような相手ではないから、嫌でも出席せざるを得ない。

 欠伸をかみ殺しながら、黒板に次々記されるアルファベットを、眠気覚ましのつもりでノートに書き写す。駄目だ。全然頭に入ってこない。気を抜くとミミズが這ったような、という形容そのものの謎の線が紙の上を滑る。

 結局あの後、私はほとんど寝ることが出来なかった。

 隣の部屋の陽君とりーちゃんの動向は気になったけど――それよりもピクリとも何の通知も示さないスマホに釘付けだった。

 陽君達とみんなで飲み会するとは伝えてあった。学生アルバイトだけで、と言うと彼は「ふぅん。いいね」と少し肩をすぼめただけで、大した反応も示さなかった。

 口実の一つとはいえ、今後夏を迎えるにあたってアルバイト同士懇親を深めようというのだから、もう少し興味を持ってくれてもいいじゃない。もしかしたら陽君の友達も誘って、知らない男の子達が同席している可能性だってあるんだから。ちょっとぐらい気にする様子を見せてくれてもいいんだけど。

 私から連絡すれば良いのかもしれないけれど、彼が自宅で過ごしている事を思うと気が引けた。頻繁にメッセージが届いたりすれば、奥さんに不審がられるかもしれない。

 私が気を遣って連絡しないのは彼だってわかっているはずだ。だもの、彼の方から連絡をしてくれたっていいのに。

 しかし、私の思いとは裏腹に、スマホは沈黙を保ったままだった。

 きっと昨日の夜は、私に気兼ねなく真っ直ぐ自宅に帰ったのだろう。そうして奥さんに向かっていかにも家族思いのパパという幸せそうな笑顔を向けたに違いない。「今日は珍しく早く終われたんだ。急いで帰ってきたよ」なんて。

 良かったですね、早く帰れて。私の事なんてすっかり忘れて、さぞかし家族水入らずの楽しい一夜を過ごした事でしょう。

 きっと私の事だから、仮に昨日の夜「まさか変な事してないよね?」なんて心配のメールをもらったところで、「自分の事を棚に上げて何言ってるの?」とそれはそれで不機嫌になったに違いないのだけど。

 結局私は、彼と離れてはいられないのだ。昨日一晩でよくわかった。仕事は仕方が無い。でも、仕事以外の部分については、出来る限り彼の側にいたい。彼が目の前にいてくれるその時間しか、私が満たされる事はないんだ。

 私の眠気を妨げてくれるのはウィルヘルム先生のキンキン耳障りな声でも、意味不明なドイツ語の羅列でもなく、彼からの連絡を待つスマホだけだった。

 眠気から逃れるようにして、机の天板の下でスマホを点滅させる。どうせ何も来ていないだろうなと半ば諦めながら視線を向けると、タイミングよくポップアップが飛び出した。


『今夜、どう? 良かったら久しぶりに食事にでも行かないか?』


 浮かび上がったメッセージに、身体の奥底の大事な場所にしまってあったはずの心が打ち震えた。積もり積もっていた彼への不安や不満が呆気なく飛び散ってしまい、今にも弾けそうなキラキラした光の粒が全身を駆け巡る。

 どんなに彼に対して不満や苛立ちを感じたとしても、私の心は簡単に私を裏切ってしまう。

 ちょっと餌を見せられただけで、子犬のように尻尾を振って彼に飛びついてしまうのだ。

 そんな自己嫌悪すらも、全身を駆け巡る喜びにあっという間に塗り潰される。

 眠気は一瞬で消え去り、私の頭の中は夜の準備で占められてしまった。

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