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プロローグ

 彼は、つけない。

 いつだってそうだ。初めてこの関係が始まった時から、一度たりともつけたことはない。

 剥き出しのまま、彼自身そのままの状態で、私の中に入って来る。

 決して広くはないステーションワゴンの中で、彼はとっても優しく、且つ激しく私を求める。

 時に注意深く周囲に視線を走らせながら、色んな体勢で私の身体を蹂躙する。

 思えば一番最初、始まりの段階でつけずに突っ走ってしまったのが失敗だったのかもしれない。あの時は成り行きでそうなってしまって、あらかじめ準備しておく事なんて出来なかった。つけないままに始まってしまった以上、今更つけてなどと言い出せば自分の気持ちが冷めていると思われかねない。なんで? どうして? なんて質問でも飛び出せば藪蛇だ。


 「中で……出してもいいかな?」


 眉根を寄せ、呻くように彼は言う。

 私を見下ろす強い眼差しは、最初から断られる事なんて想定していない。


「……うん」


 私の返答に満足したように、彼の動きが激しさを増す。

 けれど彼は、結局中には出さない。

 ちゃんと寸前であたしの中からそれを引き抜いて、お腹のあたりに溜まったものをぶちまける。

 温かな彼の体液を腹部に感じた瞬間、あたしの心の中には安堵と、ほんのちょっとの失望が生まれる。

 やっぱり、中には出さないんだ。


「乃愛……」


 達した後、彼は満足げに穏やかな笑みを浮かべて、私に優しく口づけてくれる。


「やばいな。中でいっちゃいそうだった」

「もう! びっくりするじゃない」


 いたずらっ子のように笑う彼に、私も笑顔を返す。

 でも、心の中ではいつもチクリと、胸を刺される痛みを感じた。

 そこまで言う癖に、どうして中に出さないんだろう?

 答えは聞くまでもない。妊娠したら困るからだ。

 だったらそもそも最初から避妊すべきだって言われるかもしれない。コンドームをつけろ、と。彼がつけないのであれば、女である私自身の口から言うべきだ、と。

 でも最初からつけないでこの関係が始まってしまった以上、今更つけようと言うのはお互いに気が引けた。

 ある意味ではつけない事こそが、彼と私との間における数少ない愛情表現の中の一つであり、確認の方法だった。

 今さらつけようと言い出すのは、愛が冷めてきたと言うのと同意なようにも感じられた。

 始まった時から、いつか終わらなければならない関係だから。

 そもそも始まってはいけない関係だったのだ。

 わかっているからこそ、私たちはいつもこの愛が現在進行形である事を確認し、証明し合わなければいられなかった。

 仮にほんの些細な事柄であったとしても、下降線を辿り始めているなんて認める訳には行かなかった。

 だから私達は、常にお互いが相手をより以上に愛していると、より大きなリスクさえも恐れないと、まるでチキンレースにも似た我慢比べを続けなければならなかった。


「乃愛は本当に可愛いな」


 私の目を覗き込む彼の瞳の中に、つい真実を探さずにはいられない。でも私にできるのは、ただ彼の言葉を、全てを受け入れ、信じ抜く事だけだった。


「……嬉しい。言われ慣れてないから、恥ずかしいけど」

「少なくとも僕の目には世界一……って言ったら嘘くさいか。滅茶苦茶可愛く見えるよ。小っちゃくしてカゴに入れて常に持ち歩きたいぐらい」

「何それ。微妙」


 吹き出した私の頭を撫でた後、彼は力いっぱい私の身体を抱き寄せた。彼はいつも、息が詰まって、骨が軋みそうなぐらいきつく、強く抱き締める。苦しさすら感じるのだけれど、抑えきれない彼の愛情が強く強く感じられるようだった。

 血液の流れが止まるような圧力が和らぎ、彼は軽く口づけると、するりと自然に、私をシートの上に解放した。

 私に対して、惜しげもなく賞賛の言葉を降り注いでくれるのは彼が初めてだった。こんなにも人から褒められた経験はこれまでに無かった。くすぐったいような気持ちもあったけど、不思議と悪い気はしなかった。

 彼は一人、するすると下着とズボンをたくしあげると、煙草に火を点ける。その横で私はいそいそと衣服を見に着けた。

困った事に彼は全て脱がせるのが好きだった。車の中という危険度の高い環境下にも関わらず、「乃愛の全部が見たい」と求める。行為の最中は夢中だから気にならないものの、終わった途端に羞恥心と恐怖心が込み上げる。こんなところ、他人にでも目撃されたら大変だ。

意識的か無意識か知らないけど、彼は事後から平常へと戻ろうとする最中の私を見ない。運転席側の窓を全開にして、半ば身を乗り出すようにして煙草を吸う。彼は喫煙家だが、車は禁煙車だ。ただ行為の後だけは例外で、こうして煙草を吸うのだった。

開いた窓から波のさざなみと、冷たい風が滑り込んでくる。身体の火照りが冷めていくのに合わせて、窓の曇りが晴れていった。


「ねえ、外出ようよ」


 私は言って、外へ飛び出した。車の中にいた時よりも、荒ぶる波の音が鮮明に耳を襲い、いつもより湿っぽい潮の香りが鼻をくすぐった。雨が近いのかもしれない。

 砂浜を縫うように、海に向かって伸びる石畳の遊歩道。突き当たりには丸く円形の広場が設けられ、周囲には私の背と同じぐらいの高さの星の形をしたモニュメントが並ぶ。それぞれに刻まれた牡羊座、牡牛座、ふたご座、蟹座のマーク。同じ広場はこの新舞浜に三つあって、それぞれに四つずつ、全部で十二の星座が並んでいる。

 もう幾度となく訪れた場所。必ず足が向かうのは、私と彼、同じ牡羊座のモニュメント。ハート型にも見えるその形が、好きだった。


「おーい、どこまで行くんだ」


 ようやく追いついた彼が、後ろから私の腰を抱いた。細く、でも筋肉質なその腕に私は頬を寄せる。そのまま振り向くようにして、私達は抱き合ったまま肩越しにキスした。何度も何度も口づけを交わし、やがてどちらからともなく、舌を絡ませ合う。

 胸をまさぐろうとする彼の手を掴み、私は慌てて彼から離れた。


「もう。また止まらなくなっちゃうじゃない」

「乃愛が望むなら、そうしようか」


 風に吹かれる私の髪を撫でつけるように押さえ、彼はもう一度キスをした。

 左手の袖口から、シルバーの腕時計がちらりと覗く。


「でも、もう遅いから。帰らなきゃね」


 私は出来るだけ明るく装いながら、言った。


「……ん、ああ、そうだね。僕はまだ大丈夫だけど、なにか用事でもあるの?」

「今日は買い物して帰らなくちゃ。明日の朝ご飯と、あとはリップが切れちゃって」

「そうか。じゃあそろそろ帰ろうか」


 残念そうに彼は言い、私達は手を繋いで車へと急いだ。

 本当はまだ大丈夫なんて嘘だって、知ってる。

 付き合いが始まった最初の頃に比べると、彼と別れる時間は段々遅くなっている。時間の壁を少しずつ後退させるのは、きっと私に対する愛情表現の一つ。我慢比べの一つ。

 彼もきっと、もっともっと私と一緒にいたいと思ってくれているのだろう。けど、実際には大丈夫ではない。ただ、無理しているだけだ。

 でも彼からは帰りたいなんて言い出せない。それも知ってる。

 だから私は、いつも何やかやと口実を設けて、自分から別れを切り出す。

 彼が家に帰れるように。

 奥さんと可愛い娘さんがいる、あの部屋に。


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