第六話 透き通る記録
ノインはランタンを取り出し、中に魔法で生み出した光の玉を入れ、体の前に掲げた。万が一の追っ手を警戒してのことだ。光の玉を浮遊させたら、夜では、遠目にも目立つ。
「今夜、どこまで進みますか?」
ランタンがあっても暗すぎる森を見回して、ヴィンセントが遠慮がちに問う。彼としては、危険は冒したくないのだろう。ノインは自分の顔が照らされるようにランタンを掲げ、微笑んでみせた。
「そう奥まではいかないわ。少し先に、下草の柔らかな場所があるの。そこで休みましょう」
足下に気をつけて、と、ノインは木の根が隆起する地面をランタンで照らしてみせた。それから、地面すれすれのごく低い位置に、光の玉を数個浮かべる。
「下だけでなく、上の枝やツタにもね」
今度は上を見上げさせ、低い位置に張り出している木の枝などを示す。
「大変ですね……」
「街道を行けたらよかったのだけれど、やはり、追っ手が来たらまずいもの」
「そういえばノイン、もし追っ手が前の村からの情報を得ているなら、あなたの行く先も知られているのではないでしょうか」
「コレルへは行かないわ」
「えっ……わっ」
ノインの返事に気を取られたヴィンセントが、何かにつまづく。彼の足下に光の玉を寄せながら、ノインはヴィンセントが立ち止まっているうちに続けた。
「どうしても行かなければならない場所ではないの。目的地なんてない旅だから」
ヴィンセントが顔を上げる。淡い光しかない今は、彼の表情もよくは見えない。それでも、じっとノインを見つめ、何かを推し量ろうとする気配が伝わってくる。
ノインは泰然とその視線を受けた。後ろ暗いことなど何ひとつない。
やがて視線を逸らしたヴィンセントの伏せた目元に、罪悪感のようなものが見える。
純粋すぎるわ、とノインは内心で呆れと感心とを混ぜてつぶやいた。美徳ではあるが、今のこの世では、その性質は彼を脅かすものになりかねない。
「あなたはなぜ、旅をするのですか」
ノインは思わず微笑んだ。彼が想像しているような、たいそうな理由はない。ノインのおこないは、この世にほとんど何ももたらさない。
世界に散らばる仲間たちのあいだにだけ、ひっそりと受け継がれてゆく。
「この世に何があって、どんな人たちが、どんなことをして生きているのか、この目で見るためよ。そしてわたしは、わたしが見たものを記録するの」
胸に手を当てる。服の下には、首からかけた小さな水晶板がある。服の上から軽く押さえると、それは肌に押しつけられて一瞬ひやりとし、すぐ体温に馴染む。
「あなたは前も言いましたね。国が滅びるならそれを記録すると。いったい、何なのですか?」
「あなたの知っている記録と、同じよ。国には国の記録――歴史があるでしょう。国に起こったことや、人々の暮らしについて、誰かが記したから残っているものよ」
「ではノインは、歴史学者、ですか?」
知っているものに当てはめようとするヴィンセントに、ノインは「いいえ」とはっきり否定した。
「わたしたちは、推測したり、解釈したりはしない。ただ目の前にあるものを、その通り記録するだけ」
「記録して、どうするのです?」
「どうって、何も……」
答えられるものがなく、声が途切れる。
ノインの役目は、記録することまでだ。その先は、父も母も、何も言っていなかった。
ヴィンセントは、ノインを不思議そうに見る。
「記録するのは、あとから確かめて、何かに使うためだと思うのですが、ノインは……」
ノインは服の上から水晶板を握りしめた。ヴィンセントの疑問が純粋だからこそ、答えに詰まる。彼への明確な答えを、ノインは持たなかった。
「……いつか誰かが、この世界に起こった物事、生きた人々の、事実に最も近い情報を知ろうとすることがあれば、わたしたちの記録に、求めるものがあるでしょう」
「歴史書があるのに?」
「公の記録は、歪められるものだわ。権力者の都合や、記す者の立場によって、同じ出来事でも異なる印象になる。そういうこと、経験にない?」
光の玉を足下に、ふたたび歩き始める。ヴィンセントが付いてくるのを足音で確かめ、先ほどよりはやや急ぎぎみに木々をかきわけて進んだ。
「ノインの言うことはわかります」
小さな声だったが、小枝を踏む足音が響いて聞こえるほど静まりかえった夜の森では、十分な声量だ。
「だとしたらノインは、誰とも知れない、いつ訪れるかわからない機会のために、たったひとりで旅をしているのですか?」
「やたら壮大な言い回しだけれど、まあ、そうね」
うなずいて、やけに悲愴な声のヴィンセントへ、笑みを含む調子で返す。
「悪くないわよ。心動かされるものごとに、たくさん出会ったわ」
「幸せな結婚式、豊かな実りを祝う祭、冬を越えた歓び。……村や、街の人々なら彼らの人生ですが、通りすがりの旅人は、その幸福な気持ちを少し分けてもらうだけです」
ヴィンセントが挙げたのは、これまで彼が出会ってきた人々との記憶なのだろう。旅の途上で巡りあったなら、幸運な出来事のはずが、ヴィンセントは幸せそうではなかった。
「すべて他人の人生で、どの幸福も、僕自身のものにはならないのです。ノインもそうでしょう。それを寂しいと思うのは、僕の独り善がりでしょうか」
「確かに独り善がりだけれど、思い遣りって、そういう独り善がりから生まれるんだと思うわ」
ヴィンセントのような高貴な青年が、なぜ、寂しさを感じてまで旅をしているのか、つい尋ねそうになる。見聞を広めるためと本人は言うが、供も護衛もつけずにいるのには、何か理由がありそうだ。
深入りしないほうがいい。
ノインは、踏み出しかけた足をそろりと引っ込めるような心地で、自分を戒めた。
「わたしを思ってくれるのは嬉しいと思う。でも、哀れまれたら困るわね」
「あなたを哀れむ資格など、僕にはありません」
ヴィンセントは、やけに重くつぶやいた。彼の表情が気になり、思わず立ち止まって振り返るノインに、ヴィンセントがぶつかる。
「あっ! ごめんなさい、ヴィンセント」
ヴィンセントは、たたらを踏んだノインを彼の胸で受け止め、支えてくれた。
「いいえ。怪我はありませんか」
「無事よ。気を取られると危ないわね」
ノインは、連れがいるという、いつもと違う状況に、自分が慣れていないのを感じた。暗い森だろうと、足下の悪い山道だろうと、ひとりだったら気を散らすものもなく、危なげなく行けるのだ。
「ひとりで立てますか?」
「ええ」
ひとりのほうが気楽だ。それは間違いないのだけれど、今、ノインを支えてくれていたヴィンセントの体の温かさを感じて、ついほっと息をついてしまう。
転びそうになったときに支えてくれる人など、ノインは五年前に失ったきりだった。
ふたたび歩き出しながら、胸元の水晶板を服の上から探り、心を落ち着ける。
ヴィンセントの体温を、ノインは慕わしく思った。そのように動いた自分の感情を、無かったことにはできない。
でも、忘れてはいけないことがある。
水晶板から引き出さずとも、鮮やかによみがえる炎の記憶。ノインの家族を奪った忌まわしい夜。
ヴィンセントが何の目的で、ノインとともにいようとするのかは、見極める必要がある。そのために、ノインは冷静さを保たなければならない。
ヴィンセントは間違いなく、あの日、ノインたちに向けて火を放った側の人間なのだ。
彼の言葉遣いや振る舞い、王族の血に特有の色素の薄さから、身分を推測するのは難しくなかった。
ノインはこの国や、王族に復讐しようとは思っていない。憎しみに目を曇らせてはならない。物事はノインを通って、記録として残される。ノインが不純物になってはいけない。
ヴィンセントを憎みはしない。彼自身は非道な人間でもないように思える。
けれどそうだとしたって、彼に心を許すのは、家族への裏切りのような気がした。
さざ波立つ心を、ゆっくりと息を吐いて鎮める。
記録を濁らせるようなことがあってはいけないのだ。憎しみも、怒りも、愛情も、優しさも、それが邪魔になるなら、捨ててしまえる。
ノインだけが生き残ってしまった。
だからこそノインは、父母の遺志を継ぎ、役目を果たさねばならないと、強く心に決めているのだった。