第二十七話 未来
「陛下、お時間です」
扉の外から声をかけられ、ヴィンセントが名残惜しそうにノインを放した。これから王としてお披露目されるというひとの、甘えたまなざしが愛しくて、ノインは思わずくすりと笑う。
「ノイン、また、あとで」
「ええ。頑張ってきてね。今日のこと全部、ちゃんと『記録』するから」
ノインが胸元に触れて言うと、ヴィンセントはちらとそこに視線を落としたあと、美しく微笑んでうなずいた。
「ご期待に応えましょう」
侍従をともなって出て行くヴィンセントを見送ったあと、ノインも急いで別の扉から部屋を出て階段を駆け下り、戴冠式のおこなわれる広間へと飛び込んだ。
正式な身分は何も持たないノインだが、大臣たちのはからいで、戴冠式への参列を許されている。そのために着慣れないドレスを身につけて、少しばかりうっとうしい。王都に来たとき、路銀ではとても足りないと目を剥いた衣装を自分が身につけていると思うと、不思議な気分でもある。
ヴィンセントはノインのドレス姿を見ても、たいした反応はしなかった。でも女性慣れしていないのと、彼にとっては中身が重要らしいというのがなんとなく伝わっていて、ノインはそれはそれでまんざらでもなかった。
「ノイン殿、殿下……失礼、陛下はどのようなご様子でしたか」
ノインが入ってきたことに気づいた大臣のひとりが、小声で尋ねてくる。緊張しているのではないかとか、そういう心配をしているのだ。先ほどまでのヴィンセントとのやり取りを思い浮かべたノインは、気恥ずかしくなってしまうのを押し殺して平静を装った。
「ええと、けっこう平気そうでした」
「ほう?」
ノインから見れば祖父ほどの歳の大臣が、意味ありげに目を細める。
「守りたいものがあれば、腹も据わるというものですな」
「……」
言われていることはよくわかって、ノインは熱くなる頬を手の甲でおさえながら目をそらした。
そのとき、ざわめいていた広間がしんと静まり、そらした視線を上げる。広間の奥の、壇上に、神官長が現れていた。
神官長が王冠を与えるのは、星を読み、未来を予言する者からの、信頼のあかしだ。
王が、よき未来を導くよう。
広間の入り口で国王の入場が宣言され、大扉が開け放たれる。
集った貴族や神官たちの視線を一身に集めながら、ヴィンセントは美しい姿勢でゆっくりと、神官長の待つ最奥まで歩んでゆく。
壇の下までたどり着くと、彼は一度足を止めて神官長へ軽く一礼したあと、三段の階段を滑るように上った。
もの静かな身のこなしの優雅さは、王族としてというより、神官としての生い立ちを思わせる。
本来ならここで、ヴィンセントが間違いなく王であるかを、この場にいる人々へ問いかける儀式がある。だが先王や貴族たちとの確執を懸念して、その手続きは省かれることになっていた。
それは、ヴィンセントの今後が必ずしも安泰ではないことを示しているが、少なくともノインの周りの大臣たちの空気は、憂いよりも清々しくあった。
神官長が王冠を手に取り、ヴィンセントの正面に立つ。
少し目を伏せた、静謐な表情のヴィンセントの横顔は、その場の人々が息を潜めて見守るほど神秘的な美しさを見せていた。彼は軽く身を屈めて神官長から王冠を戴き、ひと呼吸置いて、しなやかに背を伸ばした。
「国王の栄光が、永遠に続きますよう」
神官長の祈りとともに、列席したみなが深くこうべを垂れる。
その頭上に、ヴィンセントの声が響いた。
「みなには、私への忠誠を求めない」
彼が続きを口にするまでの一瞬の静寂は、耳が痛いほどだった。
「その忠義は、この国と、国民に捧げてほしい」
ノインはこっそりと、ほんの少しだけ頭を上げ、ヴィンセントを盗み見た。彼は神聖さのあまり、陶磁の人形のように硬質で、無表情に近い顔をしていた。だが、その目がすっとノインを見たかと思えば、視線があったことをノインが気まずく思う暇もなく、匂い立つような微笑をうかべた。
慌ててもとのように頭を下げ、ヴィンセントの視線を逃れたものの、今のを誰かに見られたのではないかと思うと、急に体が熱くなってくる。
みなの王が、ひとりの人間に戻ってしまう瞬間は、ノインの心臓によくない。
でもそんな『ひとりの人間』だから、ノインはそばにいようと思ったのだ。
(あなたがいつでも、笑える場所であるように)
出会ったときから、国や人々を思って憂い顔が多かったヴィンセント。今も硬い顔をして、王であろうとしている。
それがノインを相手には笑ってくれるというのなら、ノインは彼のための居場所でありたいと思う。
王冠を戴いたヴィンセントが、入ってきたときより重々しい足取りで、広間を退場してゆく。
その背中を見送りながら、彼が王都のパレードを終えて王城に帰ってきたあとは、きっと疲れ切っている彼を、存分にねぎらってあげよう、と決めた。
その前に、ノインもまだ、国王を迎える王都の熱狂を『記録』しなければならない。戴冠式が終わり、順番に従って広間を退出したノインは、大急ぎでドレスを着替えた。貴族のお姫さまが着るようなドレスから、町娘のちょっとしたおしゃれ着へと装いを変え、王城を飛び出す。
パレードの沿道にはすでに人々が詰めかけて隙間もない。前もよく見えない中、ひときわ歓声が大きくなるのを聞いて、ノインは人々の後ろから飛び跳ねて、やってくる隊列を見ようとした。王都の様子を『記録』するだけなら人々の後ろ頭を見ているだけでもよかったけれど、たとえ遠目にひと目だけでも、街の熱狂の中からヴィンセントを見てみたかった。
色々な姿の彼をこの目で見て、それは『記録』とは別の、ノインの思い出になるものだ。
何度か飛び跳ねているうち、タイミングよく、馬車の窓から手を振るヴィンセントが一瞬だけ見えた。
「ねえ、王さまやけにこっち見てなかった!?」
「そうかも? 目が合った気がする!」
「それは気のせいでしょ」
ノインのそばで、若い娘たちがはしゃいだ声を上げる。少し気になって耳をそばだてていると、彼女たちはいっそう興奮したように、早口に言った。
「王さま、すっごく綺麗な人だったね!」
「ね、びっくりした! 早く肖像画売り出されないかなあ」
「絵じゃもの足りないって!」
そのあと、『記録』のために街を回っているあいだに、似たような言葉を何度も聞いた。
嬉しいような、複雑なような。
微妙にすっきりしない気持ちを持て余したまま王城に帰ったノインは、その後しばらくして帰城したヴィンセントが、ずいぶん上機嫌なことに少し首をかしげた。
人々に歓迎されて喜ぶのは理解できるけれど、それにしては、ノインを見てやたらにこにこしていたのだ。
不可解に思いながら、ヴィンセントが着替えや湯浴みを終えるのを待っていたノインは、そのあと私室へ戻ってきたヴィンセントが告げた理由に、今までになく恥ずかしい思いをする羽目になった。
「一生懸命飛び跳ねて僕を見ようとしてくれるノイン、とても可愛かったです」
「見てたの!?」
はい、と、ヴィンセントが満面の笑みでうなずく。
ノインの近くにいた娘たちが、王さまがやけにこっちを見ていた、というのは、間違いではなかったのだ。
今までの人生で、飛び跳ねるほどはしゃいだのは初めてであり、それを見られて微笑ましげにされるのは、いっそう羞恥をかき立てた。
「あんなに人がいたのに、よくわかったわね……」
「パレードを街で見ると言っていたから、僕もノインを探していたのです」
ヴィンセントはノインを見つけられたことがことさら嬉しいようだった。しかし、それにしても普段の彼よりやたらと高揚していて、その違和感に、ノインはじっくりヴィンセントを観察した。
そして、かすかに手が震えているのに気づく。
「ヴィンセント」
ノインは、ソファに座る彼の右側に腰かけ、彼の右手を両手で包むように握った。軽く撫でたり、柔く揉んだりして、彼の緊張をほどくようにする。
興奮しすぎているのだ。だが、張りつめた精神は、いつふつりと切れるか知れない。
「戴冠式、とても立派だったわ。それにパレードも、街の人たち、とっても喜んでた」
「ノインも、喜んでくれましたか」
「見ていたならわかるでしょう。……わたしね、今までずっと、そういうことも、外側から見ていただけだったの」
楽しげな祭りも、何かの祝い事も、旅のあいだに遭遇したことは何度もあった。そのときのノインは、記録者として、静かな心持ちで眺めていた。
「初めて、儀式のちゃんとした参列者として出席して、街で周りの人たちと一緒にはしゃいで、すごく……胸がいっぱいになったわ」
ノインはそのときの興奮を思い起こしながらも、それを噛みしめるように、静かに話した。ヴィンセントは黙って聞いていた。
ノインの手の中で、少しずつヴィンセントの強ばりが解けてゆく。
「わたしに、こんな日が来るなんて。そういうことを、あなたと出会ってから、何度も思うの」
されるがままだったヴィンセントの手が、そろりとノインの手を握り返してきた。そこに視線を落としていたノインが顔を上げると、行きすぎた上機嫌さは鳴りをひそめ、優美で、見守るようなヴィンセントの表情が目に入った。
「それってとっても幸せなことだわ。たぶんね」
「たぶん?」
「あなたと出会わないわたしにも、それなりの幸せはあったかもしれないもの。でも、それはもうわからないことだから」
「僕も、同じようなことを思います」
ヴィンセントはもの思うように少し遠い目をして、ひとつ瞬きを挟み、ふたたびノインに焦点を合わせた。
「星を読むことで、未来に何が起こるのかを予知してきたはずなのに、自分がこんなことになるのは、少しも知りませんでした」
「星は、滅びの先は示していなかったものね」
「そうです。星は予兆を示しますが、それは未来を決めるものではありません。あなたが以前言った通りです。国がどう滅ぶか、その先にどうなるか、決めたのは僕たち人間でした」
でも、結局のところ、それは結果論ではないだろうか。
そもそも、星が滅びの予兆を示さなければ、国が乱れて、滅びに導かれることはなかったかもしれない。
ノインがそれを言うと、ヴィンセントは緩く首を横に振った。
「ブレン子爵や、ほかの貴族が不満を溜めていたように、『楽園』にはすでに、ほころびがあったのです。たとえ予兆が出なくとも、いずれ破綻していたでしょう」
「国はそれに気づけなかった。事が起こって、ヴィンセント、あなたが力を尽くした。そして今日にたどり着いた」
ノインが言ったことに、ヴィンセントは軽く顎を引いてうなずいた。
「星は国を助けてくれますが、それが何を示しても、未来は僕たちの手に委ねられている。僕は、それを幸福に思います。ノインがそばにいてくれる今このときを、僕が自分で手に入れたのだと思えるから」
静かな口調に滲む彼の自信や誇り。出会ったころの彼と、ずいぶん雰囲気が変わったと思う。でも相変わらずその瞳は澄んでいて、まっすぐな心を表すようで、彼の素直な喜びがノインの心にするりと入り込んでくる。
『記録』から、為政者のぶつかる困難をいくつも知っているノインは、彼の純粋さが少し心配でもある。けれどどうか、失われないでほしい。
「今日までのこと、おめでとう、ヴィンセント。そして」
願いを込めながら、ノインはヴィンセントを見上げ、しっかりと彼の手を握った。
「あなたの未来が、幸せに満ちていますように」
「僕が幸せなら、あなたも幸せだということですよ」
「……は」
ぽかんと息をこぼして固まるノインを、ヴィンセントは蕩けるような目をして見つめてくる。
「僕がひとりで幸せになれると思いますか? あなたに生きていてほしいと思われていなければ、生き延びられない人間なのに」
「それ、自分で言うの?」
呆れを表したつもりが、自分の声が甘く響いたのに、ノインは気づかざるをえなかった。
「いつでも忘れないでください。あなたがいないと、僕は生きていけない。僕を生かした責任を、ちゃんと取ってくださいね」
「ほんと、とんでもない小鳥を拾ったものだわ」
「今さらでしょう」
ヴィンセントの声が、こらえきれないように笑っている。軽口のような、でも間違いなく本心の乗った言葉だった。
そんなことを彼が言えるようになったのだと、不思議な感慨がわき起こる。同時に、言われたノインは怯みもした。
ノインの心境を見透かして、ヴィンセントが優しくノインの髪に手を差し込み、頭を撫でながら淡い金髪を指で梳く。
「この世が『もしも』で後戻りのできる世界でなくて、よかったと思います。ノインが今どんなに何を考えても、もしもは無いのですから」
「後悔しているわけじゃないのよ」
「わかっていますよ。でもこの先は、僕とともに幸せになるしかないのだと、思っていただきたくて」
未来に何があるか、わかりはしないのに。
小さく、ほとんど音になりきらないほどの声音でこぼした弱音を、ヴィンセントが拾って、ノインの耳元に唇を寄せる。
「だから、僕たちで手に入れるんですよ」
秘め事のようなささやきでも、その声音は明るく晴れていた。




