第二十四話 生まれ来る希望
ヴィンセントの腕の中で、ノインがくすりと笑う。
「ついこの間は、生きている意味がわからないと嘆いていたのに」
「愛するひとがいれば、何が何でも、そのひとの幸せのために力を尽くす気になれます」
本当は、こんな散らかった仮の執務室ではなく、もっとそれなりの雰囲気のある場所で伝えようと思っていた。
でももう、いま、言わずにはいられなかった。
「愛しています、ノイン」
軽く唇を結び、見ようによっては怒ったような顔をしたノインの頬が、さっと朱に染まる。服越しなのに、抱き締めている体が熱くなったのが伝わってきた気がして、つられてヴィンセントの体もじわりと温まってきた。
「どうか怖がらないで。僕と、この国と、世界中の人々のために、僕のそばにいてください」
すると、目元まで赤くして、ノインが睨み上げてくる。けれどヴィンセントからは絶妙な上目遣いの顔が見えて、なおさら可愛らしいだけだ。
「愛の告白に、無粋な口実をつけるなんて」
抗議はもっともだと思ったが、ノインの珍しい反応に、つい、顔が笑ってしまった。
「ノインはロマンチストですよね」
「古今東西の愛の云々を知っているの。わたしには、縁がないものと思っていたけど」
「あなたの理想なら、叶えて差し上げたかったです……」
幸せのために力を尽くしたいと言ったそばからこれで、ため息がこぼれた。そんなヴィンセントを見て、ノインは心底嬉しそうな、無邪気な笑みをみせた。
「理想ね……その通りになるのが、一番嬉しいことと思ってた。でもそうじゃないって、いま、知ったわ」
ノインの瞳にはまだ涙の名残があって、それがきらきら光る。
今のノインは、ヴィンセントの前で、立場も能力もなく、ただひとりの少女だった。
「どんな物語より……」
ノインはそこで口をつぐみ、ヴィンセントの腕に顔を伏せた。
彼女の顔が見たい。
力ずくは気が進まず、どうやってこちらを見てもらおうかと思案していたところで、不意にノックの音が部屋に響いた。ノインが軽く飛び上がり、ぱっとヴィンセントから離れる。同じく物音に驚いていたヴィンセントは、あっさり彼女に逃げられてしまった。
「殿下?」
神官長の声だ。ヴィンセントは動揺したまま扉に向かい、鍵をかけていたことを忘れてドアノブを引いて開け損ね、慌てて解錠した。
扉の外に直立で待っていた神官長は、ヴィンセントの様子を見て、生真面目な顔の片眉を上げた。部屋に入ってきてノインを見つけた彼は、真面目くさった顔のまま言う。
「お邪魔でしたかな」
「いいえ」
ノインがいつもの落ち着いた調子で答える。けれど、その声がほんの少しうわずっていたことに、ヴィンセントは気がついた。だが残念ながら、今はノインを構えない。
「神官長、どうなさいましたか」
「あなたの今後について」
神官長の目が、ヴィンセントの姿をじっくりと眺める。つられてヴィンセントも、自分の体を見下ろした。
今のヴィンセントは、長い間馴染んでいた神官服ではなく、着慣れないスラックスにシャツとベストを身につけている。ジャケットは早々に邪魔になって椅子の背もたれにかけられたままだ。
王都の仕立屋から急遽サイズの近い既製服を取り寄せたのだが、そうしてまで神官服を着ていないのには理由がある。
服装の違いは、今のヴィンセントの立場を示していた。
「殿下もご存じの通り、わが国では、王権と神殿は分立しております」
「はい。予言そのものが、王権によってねじ曲げられることのないように……」
ヴィンセントがうなずくと、神官長が重々しく「そうです」とうべなう。
「殿下は、いまだ神殿に籍がございます。これを抹消する手続きをせねばならないと考えているところです」
「……そう、ですね……」
頭のではわかっていたことなのに、ヴィンセントは衝撃を受けて立ち尽くした。心臓が、どくんと大きく跳ねる。
ノインが案じるようにそばに来てくれるのを、今ばかりは彼女に頼りなく思われたくないと、ぐっと手を握り込んで背すじを伸ばした。
「殿下には、神殿に戻るおつもりはないのでしょう?」
「……はい」
神官でいては、ノインとの約束を果たせない。彼女に誓った時点で、ヴィンセントは、自分がこの先、歩むことになる道を決めていた。
国境線が変わり、裏切った貴族から爵位を剥奪し、領地を定めなおし、魔女狩りで乱れた人心を回復させる。『楽園』と呼ばれた平穏は、もうない。
これからこの国は、大きく変わってゆく。そのために今は、大臣や貴族たちをまとめ上げる人間が必要だ。それも、今の貴族たちの誰とも結びつきの薄い、まっさらなところから始められる人物が。
「僕は、この国や人々を、安寧に導く者であるよう、務めてゆきます」
斜め後ろにいるノインの存在を強く意識しながら、神官長へ向かってそう答えると、彼は何か、肩の荷が下りたかのように顔を緩めた。
「新たな国が生まれますな。怠惰な平和を享受していた今までとは違う、希望に満ちた国が」
そうであればいい、とヴィンセントも思う。
ここしばらく、政務にたずさわり、己が動かしている物事の重さに、眠れないほど苦しく感じたこともあった。それをこの先も背負ってゆくのだと思うと、不安と重圧で、息が詰まりそうになる。
どれほど難しいことが待ち受けているだろう。想像して、恐れないなんて不可能だった。
どこにも正解はない。答えと呼べる何かがあるとするなら、それはヴィンセントが導き、作り出すものだ。
その答えが、人々にとって――ノインにとって、幸せで、希望あるものだといい。
ヴィンセントがひとり思いをあらたにしている前で、神官長は改めてヴィンセントを眺めて、「ほう」と息をついた。
「予言は、正しかったようですな」
ヴィンセントは思わず上を仰ぎ見た。執務室の天井が見えるだけだったが、その先にある空に、まだ星の予兆があるのか、気になってしかたがない。
「滅びの予兆は、もう消えましたぞ」
「滅びずに済んだ、ということでしょうか」
おそらく違うのだろうと感じながら、ヴィンセントは問うた。神官長も、ゆるやかに首を横に振った。
「『楽園』は滅びた。その先に今、あなたの国が生まれようとしていることを、喜ばしく思います」
それから神官長は、ヴィンセントの目を見て釘を刺すように言った。
「あなたの星読みの力、これからはいっそう慎重にお使いなさい。なまじご自身で星を読めるだけに、惑わされることもありましょう」
ヴィンセントは思わずノインを振り返った。ノインの薄灰色の瞳は、ヴィンセントの心境を見透かしたかのように、泰然とヴィンセントの視線を受け止めた。
ノインだけではない。ヴィンセント自身もまた、濫用すべきでない力を持っていたのだ。
「……心します」
神官長に向き直り、うなずく。不安に思わないわけではなかったが、ノインの目を見て、大丈夫なのだと思えた。彼女はヴィンセントの心情を察し、弱点を支えてくれようとしている。
ヴィンセントのなかには、ノインに頼ることを情けないと感じる気持ちはなかった。
自分ひとりに、たいした力のないことはよくわかっている。強がって独り善がりに間違うよりも、ノインと支え合ってゆきたいと思う。
神官長は、正式にヴィンセントの除籍の手続きを進めると言って退出した。じわじわと重責が身に迫り、息をつくことができないヴィンセントの腕を、ノインが軽く叩く。
ヴィンセントは力なく笑って、それでも肩を竦めてみせた。
「請け合ったはいいものの、これから猛勉強です」
「付き合うわ」
ノインはヴィンセントを励ましてくれるが、彼女だって、決して気楽ではないはずなのだ。過去についての知識はあっても、未来をつくってゆくのは、誰だって初めてなのだから。
「あなたが誇れる国にします。遠い未来であなたの『記録』を見る人が、過去にこんなに素晴らしい国があったのだと、勇気づけられるように」
「また大きく出るわね」
「僕が理想を持てないなら、実現もしませんから」
ノインがふっと唇を緩めて笑う。
「あなたのつくる国のこと、しっかり記録していくわ。よいことも、悪いことも、すべて」
「そうしてください。今の人々のためだけでなく、未来の糧になれたら、より嬉しいと思います」
ノインはふと、とても優しい微笑みをみせた。それは、彼女がその役割を意識するときにうかべるものとは違う、親しげで、どこかあどけないものだった。




