第十八話 小鳥の片翼
思わずつぶやいたとき、ふたたび人の気配を感じて、ヴィンセントははっと顔を上げた。
誰かに聞かれてしまったかもしれない。
警戒してじっと息を潜めてみたが、牢はしんとして静かなままだ。
「……?」
不可解さに首をひねって、気のせいだったかと息をついた。
「勝手なことを言うわ」
吐いた息が途切れ、ひゅっと肺に戻ってくる。ヴィンセントは目を見開き、声のしたほう、鉄格子の前の、何もない空間を凝視した。
「無事で、とは言えないのかしら。でも、生きていてよかった……」
その声は、先ほどよりいっそう近くでささやく。
「……ノイン……?」
ヴィンセントが、まだ事態を飲み込みがたい心境のままそっと呼びかけると、かすかに衣擦れの音がした。
「ヴィンセント」
声のするほうへ近寄る。鉄格子の外をそろそろ覗いていたら、不意にシャツの袖を引かれて飛び上がらんばかりに驚いた。
「いっ!?」
「静かに。目くらましの魔法よ。思っていたより簡単に入り込めたわ。警備、大丈夫?」
「……魔法使いは全員逃げ出しているんですよ」
呆れたように小さく笑う声が聞こえ、それから透明な覆いが消えたかのように、ノインの姿が現れた。笑っていた声とは対照的に、その顔はヴィンセントを案じて不安そうにしていた。
「ノイン、顔が見られて嬉しく思います。ですが、あなたが危険では……」
「牢番には眠ってもらったの」
ノインは牢の入り口へちらりと視線をやり、すぐにまたヴィンセントを見上げた。
「何日も、お城の中をあちこち探したのよ、ヴィンセント。まさか牢にいるなんて」
「……昔から、王妃殿下には嫌われていまして」
「嫌われて? 殺されかけているじゃない」
ノインが怒ったように眉をつり上げる。ヴィンセントに対してではなく、王妃への怒りのようだ。
「聞いていたのですか」
「王妃がただ事ではない様子でどこかへ行くのが見えたから、あとをつけたのよ」
そうしたらあなたがいるなんて、とこぼすノインに、ヴィンセントは体が熱くなった。
城内の誰も、ヴィンセントが牢にいようが気にしなかっただろう。王妃がそうしたといって、疑問を持つ人間もいなかったに違いない。
ノインだけだ。
彼女だけがヴィンセントの身を案じ、憤ってくれる。
「体は大丈夫なの?」
「大事ありませんよ」
「でも、痩せたわ」
ノインがヴィンセントを上から下までさっと見て、眉を下げた。ヴィンセントは袖を引いていたノインの手を取り、緩く指を絡める。
「元気ですよ。ノインに会えたから」
ヴィンセントが微笑んでみせたのに、ノインは悲しげにきゅっと唇を引き結んだ。
「そんな顔をしないで」
「……わたし、ここに来るべきかどうか、悩んだの」
懺悔をするようにつぶやく。うつむいてしまった彼女に、ヴィンセントは空いているほうの手を格子越しに伸ばし、そっとその頬に触れた。
ノインが顔を上げる。その薄灰色の瞳が、潤んで揺れているように見えた。地下牢の壁にある蝋燭の加減だろうか。
「会えて嬉しいです。でもノイン、あなたは早く逃げてください。隣国が攻めて来たのでしょう?」
「今日の午前中に、知らせが入ったようよ」
怒られるかと思ったのに、ノインは冷静にそう教えてくれた。彼女を怒らせずに済んだのかと安心しかけたとき、ノインが、頬に触れていたヴィンセントの手を握り、爪を立てた。
「逃げて? そうするくらいなら、ここに来ていないわ」
ノインの爪がヴィンセントの手首に食い込む。痛みが、ヴィンセントにノインの存在を刻むかのようだ。
「わたしが逃げるなら、あなたも一緒に行くのよ」
ノインの瞳が、蝋燭の灯りを受けて強くきらめく。苛烈な金に染まった目は、ヴィンセントを見据えて瞬きさえしない。
そのまなざしをどうしようもなく愛しく思いながら、ヴィンセントは微笑み、けれど首を横に振った。
「だめです。今逃げては、王妃の追っ手がかかります。それに、国の人々を見捨てるような真似は、僕にはできません」
「このままここにいたって、あなたに何ができるの」
図星を突かれ、ヴィンセントは目を伏せた。
「何もできなくても……、多くの国民が犠牲になるのに、僕が逃げ延びるなど……」
ヴィンセントの手首を掴むノインの手に、いっそう力が入った。彼女の細い体のどこに、と思うほど、ヴィンセントの骨を軋ませるような強さだった。
「誰かが死ぬからといって、あなたも死ぬ道理なんてないわ」
その手は燃えるように熱く、声音は冷たく言い放つ。
「あなたが死んだって、何にもならない。誰かが救われるわけじゃない。ただ命を無駄しようとしているのよ、あなた」
ノインの声が震えていることに気づいて、ヴィンセントははっとした。
「あなたは生きられるのに……。死にたいの、ヴィンセント」
「いいえ……。ただ、僕は……」
ヴィンセントが言いよどむと、ノインの、ヴィンセントの手首を掴んでいるのと反対の、ヴィンセントと緩く絡めていたほうの手にも、ぐっと力がこもる。このままでは彼女が指を傷めてしまいそうで心配なのに、振り解こうという気になれなかった。情けない顔をしていると自覚しながらノインを見返す。
「自分の生きている意味が、わからないのです。第一王子として生まれ、しかし王族の責務を果たすでもなく……。今も、国の危機がわかっているのに、何もできない」
意味を見つけられなければ生きる意思を持てない、弱いヴィンセントに、ノインは失望しただろうか。
けれど、ノインの手を傷めそうなほどの力は、わずかも緩むことはなかった。
力を入れすぎて白くなった彼女の指先が心配になって見つめているうちに、ヴィンセントの口元には笑みが浮かんだ。
「……ねえ、ノイン」
今まで生きてきて、こんなにも甘えた気持ちになるのは初めてだった。生まれてすぐ王妃に睨まれ、物心つかないうちに神殿に入れられて、ヴィンセントが甘えられる相手はいなかった。
そして同じくらい、ノインに優しくしたい。彼女が願うならすべてを叶えて、望むとおりにして、満たしてあげたい。
「あなたは、僕に生きていてほしいと、思ってくれますか」
ひたむきにヴィンセントを見上げていたノインの目が、ふっと半眼になった。ヴィンセントの手を締め上げていた力が少し緩む。
「いきなり、ものすごく重いものをふっかけてくるじゃない」
気安い呆れた口調の中に、許容がうかがえた。ノインは下からじとりとヴィンセントを睨み上げ、子どものように唇を尖らせる。
「誰かに、生きる理由になってほしいときが、あるんですよ」
「ふうん。誰かってことは、誰でもいいの」
「ノイン」
こんなときなのに、どうにもくだらないことで拗ねてしまったノインを可愛く思う一方、肝が据わっているものだと感心もする。そっぽを向いた彼女は、ヴィンセントが名を呼ぶと、素直に視線を戻した。
「子どものころ、怪我をした小鳥や、ほかの生き物を見ても、手を出すことは禁じられていたの」
「え?」
「わたしたちは旅暮らしで、命に責任を持てないから」
「……ノイン、僕は小鳥ではありません……」
唐突な話題に、彼女が何を言いたいのか気づいたところで、ヴィンセントは情けなく眉を下げた。情けないのははじめからわかっていたが、そこまでとは思っていなかった。
ノインが頬を緩め、ほころぶように笑う。
「あなたに、もう一度会うと決めたときから、わたし、とうに覚悟はしているのよ」
身軽で、自由だったノイン。その彼女が、ヴィンセントの命を引き受けようとしてくれている。
喜び。それに、彼女を自分に繋いでおく理由ができた安心感。手に入れたい欲望。
今はまだ求められないから、激しく渦巻くような気持ちを、頃合いではないと宥める。
生きる意味がわからないなどと言って、確かにそう思っていたのに、もう未来のことを考えている。ノインの存在ひとつでそうなる自分を笑う。
だが、嫌な感覚ではなかった。
「ありがとう、ノイン」
鉄格子なんて無いかのように、顔を寄せ合って微笑む。強すぎず弱くもない、心地よい力加減で手を握り、ヴィンセントは、こんな場所だというのに、どこよりも安らいだ気持ちになった。




