第十五話 交わる心、分かたれた道
「あの日……隊を率いていた将校は、ブレン子爵の子息でした。部下も、彼の手の者であったと思います」
ノインが小さくうなずく。そして、冷静な表情の中に、ヴィンセントの心を気にかけるような気配も滲ませ、静かに言った。
「この国は、長い間『楽園』だった。それは幸福なことだけれど、貴族の勢力は膠着状態で、ブレン子爵のように恵まれない土地でも、新たな領地を得る機会もなかった」
「それでも、満足に暮らせていたはずです」
「ヴィンセントには野心というものがわからないのね」
あなたらしい、とノインが微かに笑う。
「ブレン子爵はたぶん、自分たちが支援を受ける立場で、つまりは立場が下なのを、不満に思っていたのよ。そこに滅びの予言。好機だったでしょうね。功績を上げれば、出世が期待できる」
その結果が、ヴィンセントを利用しての村の襲撃だ。
真実の記録を役目とし、国の思い通りにはならない流浪の一族。生贄にはちょうどよかったのだろう。
「でも、わたしたちの一族を滅ぼしても、星の予兆は消えなかった。さらに『魔女』を取り逃がすという失態で、魔女狩りのきっかけとなり、国を混乱に陥れる原因を作ってしまった」
「……だから次の一手が、隣国との取引……」
「この数年の魔女狩り、それに予兆への不安で、この国は弱っているわ。少なくとも、政治は乱れている。内部からの手引きがあれば、付け入る隙はある」
ノインは息をついて、改めてヴィンセントを見上げた。
「こういうこと、わたしには単なる事実……いえ、まだ憶測ね。記録をする者としては、ただの興味の対象でしかない。でもヴィンセント、あなたには、必要な情報かもしれない」
「あなたの立場からすると、僕にそれを気づかせることは、国の歴史を歪めることと……避けたかったのではありませんか」
「そうね。いつもなら干渉しないわ。だけど、あなただから」
ノインはそっと、ヴィンセントへともたれかかってきた。その体を受け止めて、緩く腕に抱く。
「これは、わたしとあなたのあいだのこと。わたしは国ではなく、あなたに教えただけ。この推測をどうするかには、関知しない」
役目のために生きていたはずのノインが、ヴィンセントのために、屁理屈でそれを曲げてくれた。それも、彼女からすれば助ける義理もないこの国なのに、ヴィンセントが救いたいと言ったから。
「ノイン……」
「お礼なんて言わないでね」
「はい」
建前でも、ノインの行為をこの国のためにしないよう、ノインはヴィンセントの感謝を封じた。
「感謝も、謝罪もいらないの。わたしが、わたしの気持ちに従っただけなのだから。それだけのことなの」
ノインははっきりと宣言した。それは、彼女の心がヴィンセントのもとにあることを、明確に告げる言葉でもあった。
そして、別れの予感も含む。
ヴィンセントは、得た情報を国のために使う。そこに、ノインはいないだろう。
「感謝します、ノイン」
「ちょっと」
声を上げかけたノインの唇に、ひとさし指の先を当てて黙らせる。
「あなたと出会えたこと。ともに過ごせたこと。そして、僕を想ってくださったこと」
「……それは、わたしだって……」
「何もない僕に、あなたが意味を与えてくれました。あなたが、僕を僕にした。この先の僕のなかには、必ずノインがいます」
ヴィンセントの肩に頬を乗せたノインが、首をかたむけてヴィンセントを見上げる。互いの顔がぼやけて見えるほど近くにあって、それ以上は近づかない。
近づけなかった。
熱と寂寥に潤む瞳で見つめ合って、そこが、ふたりの限界だった。
夜が更けてゆく。
翌朝、街を出る手前の道の端に寄り、ノインとヴィンセントは向かい合って立ち止まった。
「ヴィンセントは、これからどこへ行くの?」
「王都へ。そろそろ戻らなければならない頃合いでしたから。ノインは?」
「さあ。適当に、あちこちへ行くわ」
ヴィンセントが心配そうにノインを見下ろし、手を伸ばして、けれどノインの体に触れる直前で止まる。
「魔女狩りはまだ続いています。どうか気をつけて」
ノインはうなずき、背の高いヴィンセントを見上げた。天気のいい日で、彼の背後の青空が眩しかった。
ヴィンセントのほうこそ、危険なはずだ。
でもノインは、それを言えない。彼が王都で何をするつもりか、知らないふりをしている。
「ノイン……」
「ねえ、ヴィンセント」
無事を祈る言葉の代わりに、願いを込めて、ノインはヴィンセントを見つめた。
「未来は、つねに過去から生まれてくるわ」
「……ノイン?」
唐突なノインの言葉に首をかしげるヴィンセントを置いて、続けた。
「あなたは過去の生き方を後悔していたけれど、その過去がなければ、わたしはあなたに、こんな気持ちを抱かなかった。そうしたら、わたしはあなたに何も教えなかった」
ヴィンセントが、ノインを見下ろしている。その月色の瞳は澄みきって、ノインの言葉を受け止めていた。
「忘れないで。過去のあなたがいたから、今のあなたとわたしがいるの。あなたの過去は、決して無意味なんかじゃない」
ヴィンセントが静かに目を閉じた。ふたたび開かれたとき、そこにはさやかな光があって、彼は柔らかく微笑んでいた。
「わたしの知る『記録』で、似たような悲惨な出来事は、何度も繰り返されていたわ。だけど過去とまったく同じことは、決して起こらない」
ノインは、ヴィンセントに伸ばしかけた手を下ろし、ぎゅっとこぶしを握る。
「小さくても何かが違う、その差異が、過去とは異なる未来を切り開くの。きっと、あなたの未来を……」
ノインがヴィンセントと再会してから、彼にあげられたものは、きっと本当は、ヴィンセントが想っているほど大げさなものじゃない。
それでも、たったの数日は、確かな分岐だ。
「ノイン……」
ヴィンセントが口を開いたのを首を振って遮って、ノインは半身を引いた。彼の表情が切なく歪む。
だが、少しの沈黙のあとヴィンセントは、笑ってノインにうなずいた。
「あなたの旅の、安全を祈ります」
「ありがとう。ヴィンセントも」
きびすを返すヴィンセントを、少しのあいだ見送る。彼は振り返らなかった。
王都へ行くなら、乗り合い馬車が出ているだろう。行き交う人々でごった返す人波に、彼のアッシュグレイの後頭部が紛れてゆく。
それが完全に見えなくなる前に、ノインは長めの瞬きをし、目を開けてすぐに歩き出した。
さし当たっての目的地はない。東側へはしばらく近づかないほうがいいだろうから、行くとすれば南か。西へ行くなら、うっかりヴィンセントに追いつかないよう、王都以外のどこかの街へ。海へ行くのもいいかもしれない。
ヴィンセントとは、明確な別れの言葉も、再会を予期する言葉も、何も交わさなかった。
口づけのひとつも。
どれもが、未練や、願かけになってしまうかもしれないのを恐れた。
何も起こらなければいい。
何も起こらないわけがない。
でもノインは、何も知らないふりをしているのだ。知らないのだから、何かが起こるかどうかなど、案じるのはおかしい。
いつかまた、互いの道が交わる未来があれば。
彼の無事を祈りそうになる心を振り払い、この先のどこかでの三度目の邂逅を、そっと願った。




