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滅びの魔女と楽園の神官  作者: 崎浦和希
第一章 王国滅亡編
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第十二話 いまこのひとときだけに

「僕のことを、忘れたくないと思ってくださったのですか」


 美しいかんばせに浮かぶ純真な喜びを見て、ノインは気恥ずかしくほろりと微笑した。


「大げさな言い方ね。そうよ」

「大げさではないのです。僕のことを、邪魔に思う人はいくらもいても、忘れたくないと言ってくれたひとは、ノインだけです」

「……そう」


 何と言えばいいのかわからなかった。同情も慰めも違うように思って、かといって、素っ気ない言葉で無下にしたくなかった。


「わたしたちの『記録』は、誰かのためのものではないの。私情や権力に歪められないために、誰かのためであってはならない。けれどわたしのしたことが、あなたにとって意義あることなら、わたしも嬉しいと思う」


 水晶板を服の下に仕舞う。ヴィンセントの視線がそれを追って、嬉しげに細められる。

 彼に水晶板を見せるのは、彼を試す行為でもあった。

 ヴィンセントは奪うことを思いつきさえしなかったように、ノインの胸元を、安らいだまなざしで見つめている。

 公権力に近いだろう、高貴な生まれ。だが、権力のための力を求めるそぶりはなく、滅亡の危機に瀕した国を救う力がないことを嘆く。


「記録しなくても、あなたのこと、忘れないわ」


 ノインはページの少なくなった冊子を撫でた。旅暮らしでいては、荷物を重くできず、日記を書いて残すのは難しい。そのために水晶板を使った記録は便利だが、一族のほかの人間も見ることができるものだから、母石に送りたくない情報もある。

 そういうものは、ノインが自身の記憶に、大切に仕舞っておく。


「誰かが、僕のことを憶えていてくれる。そう思うだけで、自分の存在が確かになるような気がします」


 ヴィンセントの言葉の端々に、彼の境遇があまり良くはなかったらしいことが覗く。

 その生い立ちが気にならないわけではなかったものの、まだ、深くかかわりを持つことへのためらいのほうがまさった。


「僕も、ノインのことを忘れませんよ」


 ヴィンセントが美しく微笑む。


「あなたがどこへ行っても、僕はあなたを憶えています」


 言われて初めて、ヴィンセントが喜んだ理由がわかった。

 父母の役目を引き継いで、それが自分の使命だと思って、ひとりで旅を続けてきた。ノインの拠り所は、失った家族という、過去にしかなかった。そこへ、ヴィンセントが現れた。

 彼がノインを憶えていてくれるかぎり、ノインがこの世界にいたあかしになる。

 それはノイン自身にまつわる『記録』だ。


「そうね」


 ノインは光の玉を自分から少し遠ざけ、ほころぶ顔を見えないようにしてから、そっと胸元に手を当てた。母石には送られない、ノインのこと。


「嬉しいわ」


 ヴィンセントはノインの空いた手を取った。手のひらをすくうように捧げ持ち、指先に、そっと口づける。


「何?」

「親愛の気持ちと、約束のあかしです。これなら、失礼にならないかと思ったのですが……不快でしたか?」

「不快ではないわ。ただ、わたしはそういうの、慣れないだけで」

「僕も、自分から誰かに触れたいと思ったのは、初めてです」


 ヴィンセントは、まだノインの手を放さない。たからもののようにノインの手を手中におさめ、柔く握って、その奥から月色の瞳が見つめてくる。

 美しいその眼に、魅入られたように見つめ返していると、彼の瞳は睫毛の影をうけて陰った。ヴィンセントが目を伏せ、小さな嘆息をこぼした。


「国の滅亡も、何もかも関係なく、ノインに会いたかった」


 悲しくつぶやくヴィンセントに、ノインはささやく。


「会えなかったわ」

「わかりませんよ。絶対では、なかったでしょう」

「いいえ。だって、それはもう過去のことだもの。決して変わらない、決まってしまったことよ」


 でもこれから先、ノインとヴィンセントがどうなるかは、まだ決まっていない。

 そう言おうとして、けれど、ノインは口を閉じた。

 自分たちふたりに、どんな未来があるというのか、希望を持つのが怖かった。

 ヴィンセントがどんな境遇にあるか知らないが、ノインと彼は、本来、相容れない立場にいるはずだ。

 敵ではないと言える。でも、彼の味方となりうるかどうか。


 ノインは、この国や、人々を、憎んだりしない。

 父との、最後の約束だった。


 ほんの一滴ほどの雫でさえ、水面を揺らし、波紋が広がるように、人ひとりの抱いた憎しみであっても、それがこの世界に何をもたらしてきたか、ノインは『記録』を見て知っている。

 どれほど純粋な記録を残そうとしても、記録者――ノインという人間を通す以上、必ず濁る。それでも、憎しみだけはいけないと、水晶板をノインに託すとき、父は念を押した。


『どうしても憎んでしまうときは、これを壊して、記録者をやめなさい』


 憎しみで濁った『記録』を作ってしまわないように。


「あなたと、ともにいられたら……」


 ヴィンセントが、月色の瞳を切なげに細める。


「それは、あなたが本当に望んでいることなの? 今、いっときの感情に、惑わされているのではないの」

「わかりません。未来のことは」

「星読みのくせに」

「星は、個人の感情を示したりしませんよ」


 だからこそ、と、ヴィンセントは淡く笑う。


「この感情は、僕のものです」


 このひとを憎むことはできない、とノインは思った。彼がどんな立場でも、濁りのない彼の心を、ノインは憎めない。

 この先の自分たちに何があるか、わからなくても。


「……昔ね、父が言ったの」

「なんでしょう」

「憎しみは、人を孤独にする。けれどもしも許すことができるなら、それだけが、人をその孤独から救う、って」


 唐突なノインの話にも、ヴィンセントは唇を引き結び、真摯なまなざしでこちらを見ていた。

 彼に罪はない。前からそれはわかっていて、けれどノインが本当に孤独から救われたのは、たぶん、今このときだった。

 家族を裏切るような思いを抱きたくない。そう考えていたのに、ヴィンセントの澄んだ心から生まれた想いは、拒む隙もなくノインのなかにするりと入り込んできた。


「わたしがこの国を憎んで、この国の人々を許せなかったら、あなたに、こんな気持ちは抱けなかった」

「ノインは、僕をどう思いますか」


 ノインの憎しみを、ヴィンセントは知っていたのだろうか。

 五年前に一瞬だけ出会ったあのときのことを、彼は憶えていたのか。

 ノインがなぜ憎しみという感情を持ち出したのかと訝る様子はなく、ヴィンセントはノインの手を握ったまま、ただまっすぐに、ノインの心を問うた。

 だからノインも、素直に答えられる。


「わからない。あなたのようなひとと、出会ったことはないから」


 水晶板から母石の記録を探っても、今のノインの感情にぴたりと当てはまる情報は見つからなかった。もっと深く探せば、もしかしたら近しいものがあるのかもしれないが、どのみち他人の感情では、理解できない気がしている。

 ノインは胸元の水晶板ではなく、ヴィンセントに握られている手のほうへと意識を集中させた。

 ずっとこうしていたい。あるいは、もっと近く。

 森で彼にぶつかったとき、感じた体温と同じものがほしい。

 その欲求は、ノインを泣きたいような気持ちにさせた。


「あなたと、ずっと一緒にいることはできないのに……」


 ノインの言葉を聞いていたヴィンセントは、黙ってノインの手を引き寄せた。引かれるままに、体が彼の胸に受け止められる。

 抱きしめられ、与えられたヴィンセントのぬくもりで、ノインの心臓が切なく打った。


「僕は、あなたに何も差し上げられません」


 ヴィンセントがうなだれることで、彼の唇はノインの首すじに当たっていた。彼はわざとそうしているのかもしれない。いま、できる限りで少しでも近づきたい思いは、ノインも同じだった。


「こんなことを思うときが来るなら、もっとちゃんと生きてきたらよかった」


 ヴィンセントの声は、深い後悔で掠れていた。


「そうしたら僕はきっと、あなたを手に入れられるのに」


 とても小さなささやきでも、今ならとりこぼさず聞き取れる。

 手に入れるという傲慢な言い方が、今までのヴィンセントには似つかわしくない。彼が後悔せずにすむ生き方をしていたとして、思い描く姿なら、そういう言い方が似合う立場にいたのだろう。


「いまのあなたじゃなかったら、こんな気持ちにならなかったわ」


 切なくても、案外穏やかな気分だった。抱きしめられているのがとても心地良いからかもしれない。

 ノインは体から力を抜いて、重みをゆったりとヴィンセントに預けながら、彼の背中で両手を絡めた。


「いまのあなたがいいわ」


 今、このときだけに許された触れ合いと感情だと自分を戒めつつも、今だけは何も隠さずにいようと決めた。


「いまのあなたと、こうしていたいの」


 ヴィンセントの肩に頬を乗せて、目を閉じる。深く息を吐くと、ノインが脱力するのに合わせて、ヴィンセントの抱きしめる力が少し強くなった。

 そこから先には、互いに進もうとしないで、だからこそ焦燥に急かされずにすむこのときを、お互いの体温と重さに浸って過ごす。

 存在のぬくもりを魂の深くへとそっと置いてくるような、満たされたひとときだった。

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