冴えない魔女と妖精のお気に入り(1)
天井の窓から差し込む陽気の中、今日もキングスクロス駅は人でにぎわっていた。朝の移動でごった返す駅構内には、しかし、電車を利用しない人間も見受けられる。
黒のケープや杖を持った彼らは一様に興奮していた。あるものは何か呪文のようなものを叫んでさえいる。
彼らはみな、ある小説のファンらしかった。「魔法使い」の主人公が様々な試練を潜り抜けながら成長する冒険譚を、知らない者は珍しいだろう。この駅はそんな物語の舞台となった場所なのである。
作品の聖地と言えるその場所に興奮するファンは多く、誰も周囲の人間を気にしてなどいなかった。
ファン同士自分のお気に入りのシーンやキャラクターについて語り合う。これから仕事に行く人間の諦めとは真逆の、生き生きとした空気感がそこには漂っていた。
そんな熱気に目もくれず歩みを進める少女が1人。短髪の赤毛に翠の目。薄いそばかすが頬に満天の星空を作っている。丸い眼鏡の形はどこか件の作品の主人公を思わせた。
そんな彼女は魔法使い作品のファンとは違った熱を帯びていた。高い天井、行き交う人々、周囲の景色、自分の周りにあるもの全てを世話しなく見回しながら歩いていくと――――――、
「っうわっ!」
「うぉっ。」
「っすみません…!」
ぶつかった途端、少女のパンパンに詰まったリュックから何かがカラカラと音を立てて床に落ちた。
「ん…?」
「あっ…!」
少女は慌ててそれを取り戻そうとしたが、数センチ届かなかった。
「君もファン?夢中になると周りが見えなくなるから気をつけるんだよ」
「…ありがとうございます」
少女は背丈の割に広い手のひらでその木の枝を受け取った。そうしてぶつかった少女とぶつかられた男はそれぞれの道に分かれた。
ありふれたの風景。当たり前の日常。特に変わったことはないように見える。
だから誰も気づかない。
彼女の眼鏡が、特別なのだということに。
あの枝が、本物の杖だということに。
彼女が、本当の魔法使いだということに。いや、厳密には「魔女」だということに。
「気を取り直して、行きますか」
大きなリュックの背負い直した魔女は、今度は上手に人込みをかき分けながら晴天の下に出た。
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空港は出会いと別れの場所だ。特に夏は多くの別れを見送る。それはここ アイルランドはダブリン空港でも同じだった。卒業式が過ぎ多くの学生が進学を迎える季節。ここには多くの家族が集まっていた。
「サーシャ、辛かったらいつでも帰ってきていいんだよ」
「もう、父さん、そんな心配しないでってば」
サーシャと呼ばれた赤毛の少女は心配そうに見つめる父親に辟易していた。はた目から見ると、きわめてありふれた親子の別れだ。
「あなたには『力』がある。だからいつどんなことに巻き込まれるんじゃないかって心配なの」
「母さんまで。分かってるって。何か見ても関わろうとしない、自分の力で解決できると思うな、でしょ。もう何回聞かされたか」
それでも納得しきれないという顔を見せる母親に、付き合いきれないとばかりにサーシャは背を向けた。するとその背中が温かいものに包まれた。
「こんな口うるさいことばっかり言ってあれだけど、目標に向かって突き進むあなたを本当に誇りに思ってる」
「そうだよ。サーシャは父さん達の自慢だよ。応援してる」
「…ありがとう」
少しかすれた声はサーシャが搭乗予定の便のアナウンスによって運よくかき消された。しかし 赤くなった目元を見て両親は全てを理解していた。
「じゃあ、いってきます」
サーシャは歩き出してから2、3度振り返った。その度に両親は大きく手を振った。保安検査場の前に差し掛かると彼女は全身を2人の方に向けて大きく手を振った。そうしてもう振り返りはしなかった。