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『返り血を浴びた夜には』④

 まるで生活感のない整頓された一室。


 というよりは単純に物が少ない、無機質な空間と表現した方が適切だろうか。


「ただいま」


 数日ぶりにこの自室へと戻ったハンナは、誰もいない空間へと、そう言葉をやる。

 次に衣服のボタンを上からいくつか外し、ズボンに巻き付けていたベルトを思い切ったように取った。

 さらにそろえる余裕など無いからと靴をだらしなく脱ぎ散らかし、手袋をその辺に雑に投げ捨てる。


「……すりゃっ」


 そして身軽になった彼女は遂に、愛しきベッドとの再会を果たしたのだった。

 清潔だが少し皺が目立ってきた枕を抱擁する。


「疲れたぁぁぁ」


 枕に押し付けられた口から、脳内を支配している感情を大にして溢した。

 そのだらしのない表情は冷静沈着、温柔敦厚といった言葉が当てはまるような彼女にとって、あまりにも似つかわしくない。

 だが張り詰めた環境下での任務で、体力も精神も限界まで摩耗しているのだ。

 振る舞いに気を付ける余裕など最早なかった。

 ハンナを蝕む疲労から来る睡魔も、それはもう恐ろしいほど凶悪である。


「ふわぁ」


 人生史上、最長のあくびを一つ。あとはぐっすりと眠るだけ。


「……」


 けれど、やっぱり。


「眠れない……」


 別に、彼女が不眠症に悩まされているわけではない。だが人を手にかけた日は、なかなかどうして眠りに着くのに手古摺ってしまうのだ。

 罪悪感ではないはず。不安でもないし、ましてや哀惜の念を抱くことなど許されはしないはずだ。

 ――では何か。

 今までに何度もこんな思考を繰り返してきた彼女は、今日ようやく答えを導き出すに至った。


「疑念、かな」


 あの暗殺は正しかったか。

 あの判断は正しかったか。

 あの行動は本当に、未来を勝ち取る為に必要だったのか。

 次々に脳内を過る疑問の数々。だが、数秒もすればそれらはすぐに落ち着いた。

 結局、それは考えても仕方がないことなのだと自らに言い聞かせた結果だ。

 彼女はぐるっと体を転がし、仰向けになる。

 露になった控えめな胸元と、綺麗なへそ。

 ずれたズボンから覗く、艶やかな鼠径部。

 容貌も相まって彫刻的な輝きを放つその光景を意図せずして演出してしまったハンナは腕で目元を覆った。


 泣くわけではない。


こんなことで泣いてしまうほどの脆い心は、あいにく持ち合わせてはいない。ただ、辛さという感情が一気に押し寄せるようにして胸を締め付ける感覚。それが瞼をどうしようもなく痺れさせるのだ。


「……そうだ」


 その体勢を維持すること数分。

 彼女は思い出したように上半身を起こすと、枕元付近にある小物置きへと振り返った。

 そこには一枚の写真。

 捨てられて暫くした新聞紙のように汚れたそれは、分厚い写真立てによって手厚く守られていた。

 彼女はそれを、割れ物を扱うように慎重に手に取り、赤子の肌を撫でるようにそうする。

 幼少の頃のハンナと、その両脇にいる二人の人物。

 控えめな笑顔を浮かべるやや派手な服装の母。豪快に破顔する気さくそうな父。

 紛れもない、彼女の両親だ。

 それは二人が死んだ今も変わることは無いし、ハンナの記憶の中で生き続けている。

 幼いながらもそう考えて自分を奮い立たせてきた彼女は、逞しく成長した今だってそう信じていた。


「お母さん、お父さん……」


 彼女はか細い声を絞り出す。


「あと少しで終わるから。あと少しで、お母さんとお父さんが愛した国が戻ってくるはずだから……」


 かつての国の栄光を取り戻す為、政府の者たちを殺すべく奔走する日々。それがようやく幕を閉じることを信じて、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。

 写真立てを抱き、再び横になる。


「そしたら、そしたらっ……」


 言い終わらないまま、十秒と立たない内に彼女は、深海に沈むような感覚を覚えながら意識を手放した。

 眦に浮かぶ一粒の雫が彼女の乾いた頬を伝う。

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