『返り血を浴びた夜には』②
路地裏からひょっこりと顔を出した少女は、城下町をはしる大通りを見渡す。
今は、大衆が寝静まる時刻である。
だが、それを加味しても静寂の度合いが大きい。
辺りを照らすはずの街灯は魔石の供給が不足しているのか点滅を繰り返しており、昼夜問わず繁盛するような店も今や静穏の仲間入りを果たしている。
「今日も変わらず、静か……」
彼女はそうこぼし、都市中央にそびえる壮大な宮殿を背に歩き出した。
「夜に歩くならいくらかマシ、か」
これを見て平和というのならば、それは余りにも早計というものだ。
――誰が通っても良いように、道には整備が行き届く。
――景観を損ねる廃屋など、国の中心にあるはずがない。
それこそが、本来この国の姿であるはずだった。
だが、現状はそれらすべてが違っていた。
絶望的なまでに寂れ切っているのが、ここアドレア公国の現状なのである。
今日まで六十四年という短い歴史を紡いできたこの国は、現在は隣国となるヘイングリル王国の南西部を統治していた公爵が正式に独立したことで建国された。
そして建国された当時は魔術の需要が高く、戦争をするにしても生活をするにしても、人は魔術に頼り切っていた。
魔術士が魔術を使用する為に消費される魔力を体外に排出し、それを結晶化させることで生成される魔石。
それは生産効率にやや不安を抱えていたものの、様々な産業が重宝する動力として、魔術の実用化が成されて以降人々の生活に深く浸透していった。
魔術という分野はまさしく、世界の主役であったのだ。
だが主役とは、いつか時代の波に流されるもの。
公国が興り半世紀もの月日が流れようとしたその時期から、科学技術を用いた革新的な発明が、立て続けに世の中に誕生することとなる。
蒸気機関の誕生が現実味を帯び、それが実用化に伴って様々な形で人前に露出するようになると、即座に祭りごとのような賑わいを開発国とその周辺国家が見せた。
蒸気機関車は人や物の流れを高速化させ、蒸気船も天候に構わず安定した供給を確約するに足る働きを示した。
その技術は瞬く間に世界中に広まり、開発国が随一の大国にまで上り詰めた頃にはすっかり、産業の主要な動力は魔石から蒸気機関へと鞍替えされていたのだ。
そのことをアドレア公国は、他のどの国よりも重く受け止める必要があった。
魔石の大量生産は莫大な利益を獲得し景気の良い国家を運営する為だけではなく、周辺国家を魅了する品質の良さから国間の良い交渉材料にもなっていたからだ。
その為それらを根幹から脅かす技術の登場は、なにより公国が今後の方針を変え、どれだけ全盛期に近い状態を維持できるかの舵取りを強いられたということになる。
だが、以前の公国の立場にすがりきりだった前任の公王は、家臣らの打開案を軒並み却下した。
そればかりか、政策に異議を唱えた家臣を反逆罪として投獄し、更には無差別な弾圧によって大衆を大いに苦しませた。
それが、今日まで陰惨な歴史を積み上げてきた恐怖政治の始まりだった。
かつての栄光の見る影もない、惨憺たるアドレア公国はそうして生まれたのだ。
顔を僅かに陰らせる少女の体は次第に、暗がりの夜道に溶け込んでいった。
アドレア公国の西端に位置するモナフ地区は、国内において随一の治安の良さを誇る。
この国がまだへイングリル王国の公爵領であった時代。
公爵と国王の関係が良好であったその時に、王都に継ぐ第二の駐屯地の建設地としてこの地区は飛躍的な発展を遂げた。
魔術分野における機密情報を取り扱う他、特に優秀な騎士や高名な魔術士が駐在していたこともあり、国境に接しながらも盛況に賑わっていたのだ。
アドレア公国として独立した現在でもその名残があり、モナフ地区が運営する騎士・魔術士の養成所は北端、南端、東端を管理する地区のどこよりも人気がある。
それゆえ、王都の混沌とした波紋が国内全域に拡大していく状況であっても、未だ安泰と言えるまでに持ちこたえていた。
そして、当然だがそんなところには、国家に背く存在が潜むことは無い。
それが、一般的な常識であるはずだ。
しかし。
度々、世の中には奇妙なことが起こるのもまた一つの常識であり――
「――そろそろ到着ね」
手を後ろに組んで呑気に歩く茶髪の少女は、そう独り言ちつつ僅かに口元を緩める。
先の命のやり取りを経たことは一端、頭の隅に追いやって。
モナフ地区のノトーゴ街。比較的明りに富んだ街道を進むなか、精神の淵に潜んでいた不安が払拭される気分をただ楽しんでいた彼女の足が止まった。
同時に目前に立ち塞がるのは、錆びた金属の重厚な両扉。
原型を辛うじて保っている廃教会が、そこに鎮座していた。
無遠慮に伸びるヤシュボの蔦の絡まり具合から、どれほど長い間放置されていて、この国がどれだけ宗教に対する関心を失いつつあるのかが分かる。
「ハンナ・リングル。任務より帰還」
少女は自らの帰還を告げるため、紛れもない本名を名乗った。
待つこと暫く。
「……帰ったか」
無造作な髪の少年が、僅かに開けた扉の奥から顔を覗かせた。
しかしただ不機嫌なだけなのか、それとも喜びから来る照れを誤魔化すためなのか、幼さの残る容貌には不釣り合いな仏頂面が浮かんでいる。
「ただいまウル。あなた、折角わたしが無事に帰って来れたというのに、その顔は何?」
「う、うっせぇ……!」
ウルと言われた少年は、松明の火をまた別の松明に移しながら、より一層ふてぶてしい様子になる。
「中で母ちゃんたちが待ってるぞ。俺は先に行ってるからな」
「一緒にお話ししながら向かおうよ」
「いくかよ恥ずかし――じゃなくて、先に皆に報せた方がいいだろ!」
「そうかな」
「そうなんだよっ……んじゃ、待ってるぜ」
ハンナの物知り顔にひとしきり「がるる」と子供の猛獣らしき威嚇をしたウル。そして彼はそれだけを言い残し、乱暴な動作でハンナに松明を手渡すと、踵を返してその輪郭を小さくしていった。
「せっかく一人ぼっちじゃなくなったと思ったのに……」
彼女は拗ねたよう唇を尖らせたが、先ほどと変わらずにウルが消えた方向に進む。するとすぐに、この廃屋が完全に取り壊されることなく、屋内という空間を維持できている理由が目前に現れた。
足元には、正方形の空間。
此処こそが《革命派》拠点の入り口である。それは深さの程度を思い知らせるように、暗闇が支配していた。
「よいしょ」
迷いなくそこへ入り込んだハンナは、小さな掛け声とともに入口の蓋を占める。壁伝いに、一歩ずつゆっくりと階段を下りていった。
次第に彼女の瞳へ、バチバチと燃える松明のそれとは違う、暖かな光が届く。それは今この国の中で、彼女が最も尊いと思える空間から漏れるものだった。
「帰って来れたんだ……」
今になって自分が無事でいることを実感し出しつつ、力無い足取りでその空間へと足を踏み入れたハンナ。
「おお! ハンナが帰って来たぞー!」
そんな彼女を出迎えたのは、仲間たちが奏でる喚声だった。
「お帰りーーーーーーーーーー!」
「わー! はんなだー! 本当に帰って来たー!」
それと共にハンナの胸に飛び込んで来る二人の幼女。
「おい! 本当にってなんだよ! お前たちに嘘ついたことないよな! 兄ちゃんは!?」
遅れてウルが二人の妹たちに必死の形相で問いかけた。
が、誰よりも尊敬する存在と久しぶりに会えたのだから、その悲痛な叫びが彼女たちの耳に届くはずがない。
幼い二人を華奢な体で抱き上げるや否や、ハンナは腕の中の幼女たちから猛烈な口付けをお見舞いされる。
「ただいま。ニア、ロア……!」
彼女も二人に控えめな口付けを返した。
そして、その光景をむず痒そうに見届けるウルの様子に、もちろんハンナは目ざとく気付く。
「……ウルもして欲しいの?」
「え~お兄ちゃんはだめだよ~」
「変態だー」
彼女に注がれるウルの視線を遮断するように、腕を広げ抗議の声を上げる赤毛と茶毛の幼女たち。
「お前らなぁ……」
対して腹の虫が喉元まで達したウルだが妹たちの前だからか、怒を必死に堪えようとするのだった。
それを見て流石に気の毒に思ったハンナは、非難を続ける二人の気を反らそうとする。
「ねえ、ヨルムさんたちは――」
と、そこに。
「――おかえり。ハンナ」
聞くだけで安心できる優し気な声がかかった。
そちらへ向いてみるとそこには、朗らかな笑みを湛えるやや背丈の低い女性が。
「ノルンさん……! ただいま」
機動性を重視したような革製の防具に、その上からエプロンと厚手の手袋といった異色の姿。
軽金属の鎧で身を包んでいる周囲の者たちの中で、それは明らかな異質に思えた。
「あ、おかーさんだ!」
「いつのまに!」
ハンナの付近で駆け回っていたニアとロアも、ノルンの姿を認めるや否やすぐに彼女の元に駆け寄った。
そして小動物のように鼻を鳴らす。
「くんくん。いい匂い!」
「もしかして、さっき作ってたのはクッキー!?」
「ええそうよ。しかもハンナの大好きなキカの実入りよ!」
「やったあ! 甘くて酸っぱくて、大好き!」
「わたしもー! よかったねーはんな!」
顔を輝かせるニアとロアを、慈愛に満ちた表情で見守るノルン。彼女はゆっくりと、疲労を色濃く顔に表すハンナへ向いた。
そして「眠そうね」と苦笑を溢すと、
「いろいろと話さなければならないことがあるけれど……まずは労わせてね?」
と、僅かに眉を寄せる。
ハンナは筆舌に尽くし難い予感を覚えながらも、大人しくこくりと頷いた。