取り引き
ヘンリエッタは社交デビューをしなかった。
すでに婚約者も決まり、ヘンリエッタの役目は後継を作り、神に祈りを捧げ、歌を奉納すること。ヘンリエッタの人生に社交は必要なかった。
ヘンリエッタは悩んでいた。話せなくても生活に支障はない。たった一つの問題を除けば。
毎年コレットに歌の奉納の代役を頼むわけにはいかなかった。すでに2回も頼んでいた。
ヘンリエッタは神託の間に入った瞬間に魔法陣は光るが神の声は聞こえない。
姉よりも優しくお世話になっているコレットの婚約の儀式が来月に控えていた。婚約の儀は神官立ち合いのもとに行う。その時に祝福の歌を捧げられた二人は生涯幸せに過ごせると伝えられていた。神殿で歌を奉納できるのは神官と巫女姫だけであり弟のタロスは音痴のため頼めなかった。人を不幸にしかできないヘンリエッタが唯一できそうな良い事だった。
ヘンリエッタは神託の間に行き、神の声が一番良く聞こえるという魔法陣の真ん中に立ち口をパクパクさせながら空の見える天窓を睨みつけた。
神様、声を返してください。神力はいりません。でも声が出ないと困ります。定期的に歌も奉納するので取引してください。好きな歌を歌ってあげます。
『讃美歌』
ヘンリエッタの耳に男の声が聞こえた。
「歌います。声を、戻った!!」
ヘンリエッタは大きく息を吸い、讃美歌を口ずさむ。気持ちはこめずにただ歌うだけだった。ヘンリエッタには神に一心に祈りを捧げられるほどの信仰心はない。
どんなに願ってもドログの額の傷が治らなかったので信仰心は全て捨てた。
歌声が神殿中に響き渡り、大神官達が神託の間に入ると魔法陣の中心で光に包まれヘンリエッタが歌っていた。
タロスが勢いよくヘンリエッタの腰に抱きついた。
「おかえり、姉上」
「タロスも一緒に」
タロスがヘンリエッタと一緒に歌うと一気に騒音が響き渡る。
大神官達は苦笑しながら姉弟なのに正反対な二人を見ていた。耳さえ塞げば白銀の髪を持つ天使達が微笑み合う美しい光景が広がる。
それからヘンリエッタは聞こえる声に合わせて、歌い出すようになった。自室、広間、神殿、森と様々な場所で歌い、神託の間の意味ってあるのだろうかと思いながら。
声が戻ってもヘンリエッタは全く話さない生活を続ける。神の声が頻繁に聞こえるため、願いを間違った解釈で叶えられても迷惑だった。ヘンリエッタにとって神の叶える願いはマトモで有り難い物は一つもなかった。