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世に騒ぎの種は絶えず


「し、死ぬ…。腕がもげそう…」


 のっけから息も絶え絶えな弱音を漏らすのは、岩窟踏破の挑戦という無謀な真似をしでかした罰を受けているジュチである。

 

「何だい何だい! 飛竜(ドゥーク)から見事に逃げ切って帰ってきたと聞いた割には根性がないねぇ!」


 その姿を見て豪快な大声で揶揄(からか)うのはこれぞ一家のおっかさんと評したくなるような腕が太く恰幅のいいおばさんだった。族長ソルカン・シラの妻、バヤンという名の女傑である。


「別に逃げ切っても……フゥ、いないし…ハァ、根性とか? 古臭いしぃ…!」

「罰を食らって泣き言漏らすおチビがそれだけ言えれば上等さねぇ! それだけ元気ならまだまだいけるね? さあ身体を全部使って力いっぱい掻き混ぜるんだよ!」


 その視線の先には天幕から吊るされたフフールと呼ばれる牛革で作った巨大な酒袋の中身をひたすら攪拌棒(ブルール)でかき混ぜているジュチの姿があった。

 無茶をしたジュチに罰として言い渡されたのが、騎馬民族がこよなく愛する馬乳酒(アイラグ)造りの手伝いだ。とはいえその仕事自体は難しいことは何もない。ただひたすらに時間と手間と体力がかかるという()()である。

 部族ごと、家族ごとに細かいやり方は違うが、馬乳酒は天幕につるした巨大な酒袋(フフール)酒母(スターター)となる古い馬乳酒を少しと搾ったばかりの新鮮な馬乳をなみなみと注ぎ入れ、あとはひたすらかき混ぜることで出来上がる。


「ジュチだ」

「何でうちの天幕にいるの?」

「あ、ジュチが僕らの代わりに馬乳酒仕込んでる」

「やったぜ外で馬乗り回してくる」


 ひたすら続く単純労働をヒィヒィと泣き言を漏らしながらこなすジュチの姿を次々と天幕に入ってきた少年少女達が見つけ、口々に疑問と手前勝手な発言が飛び出した。


「コラ、悪垂れ小僧ども。お前たちにはまた別の仕事が待ってるよ」

「えー。面倒くさい」

「ちぇっ、喜んで損した」

「母さん、ジュチがいるなら僕らは要らないと思うな」

「ジュチに全部押し付けて皆で遊ぼうと思ったのにー」


 族長家の四人兄弟姉妹(きょうだい)が各々勝手なことを騒ぎ、ジュチは口元を引きつらせる。なんというガキどもだ、と年少の子ども達に呆れと腹立ちを込めた視線を送るが、答えるどころか気付いた様子もない。大した面の皮をした子ども達であった。


「……大したお子様どもですねえ、母親として何か言うことないの」

「なぁに、こいつらの尻を叩いて働かせるのはもう慣れたもんさ! そう褒めなくてもいいよ!」

「ちくしょう、皮肉が通じねぇ! お子様どもの方も相変わらずだしさぁ!」


 相変わらずの我が道を行く自由さに馬乳酒をかき混ぜる手を止め、頭を抱えて嘆く。


「こら、勝手に手を止めるんじゃない」

「へーい…」


 すぐさま飛び出した注意の言葉に力ない返事を返し、酒袋をかき混ぜる攪拌棒の柄を握り直した。

 ジュチの弱った声音が示すように、この攪拌作業がまた結構な労働量になるのだ。一回一回を力強くかき混ぜる必要があり、更に一度始めたら一〇~三〇分くらいはそのまま続けることになる。これを朝昼晩の三度に分けて一日に合計一〇回程度繰り返す。一日に延べ三~五時間、回数に換算して三〇〇〇~五〇〇〇回の攪拌作業を毎日継続する必要がある。大体一週間したら完成だ。そこから飲んだ分は新鮮な馬乳を継ぎ足し、攪拌作業だけは飲み続ける限り続けていく。


「なんだとぅ」

「子供って言う奴が子供なんですー!」

「そもそもジュチだって僕らと歳変わらないじゃん」

「馬鹿じゃないの」

「ゲレル、トヤー、ゾリグ、バヤル! お前ら喧嘩売ってるなら買うぞ! 後で!」


 大体の場合母親や子供たちが分担してこれを順繰りにこなしていくのだが、悪戯の罰にこの攪拌作業を集中的に負担させられることも良くあった。

 ジュチに言い渡された罰もこれで、族長家の子供たちとやり取りを交わす間もぶっ通しでもう一時間はかき混ぜ続けている。正直なところかなり疲労がたまってきており、そろそろ腕の感覚が無くなりつつあった。


「ほら! お前らはいつも通りに水汲みに行って来るんだ! ツェレンに声をかけて一緒に行くのを忘れるんじゃないよ!」

『ハーイ!』


 流石母親と言うべきかバヤンの鶴の一声で、なおもジュチとじゃれ合う空気だった子供たちは声を合わせて指示に従った。そのまま子供らしく賑やかに騒ぎながら天幕を出ていく。

 ジュチはその見事な統率力に思わず感心しながらも攪拌の手は緩めない。子供たちの背中を見送ったあと、バヤンはジュチが攪拌する酒袋(フフール)の中身を覗き込む。


「しかし…んー、やけに具合よく仕込みが進んでいるねぇ…。ジュチ、あんたモージに馬乳酒造りを助ける(まじな)いでも習ったのかい?」


 酵母の働きに伴って酒袋の底から浮かび上がってくる泡の勢いや発酵熱の様子から、馬乳酒の発酵がいつも以上に活発に進んでいることを経験則から見抜いたバヤンが訝し気な声を上げる。


「そんなの知らないって。そんな(まじな)いがあったらモージは真っ先に皆に教えて回って、代わりに馬乳酒をせしめるに決まってるよ」


 とはいえそんな心当たりジュチには一切ない。酒袋近くに敷いてある敷物に寝転がった火蜥蜴が『Quuu(キュゥゥ)』と鳴きながら暇そうに尻尾をブラブラと揺らしているのを除けばいつも通りの光景だ。欠伸すらしている呑気なその姿には思わず苛立ちが湧いてくるが、バヤンの前で妙な真似をしてどやされるわけにもいかない。イラっとする心を抑えながら無心になって攪拌棒で掻きまわす作業に没頭する。


「モージならまあ、そうするだろうねえ! 最近は暖かい日が続いているから、そのせいかね?」

「だから知らないって…」


 答える声にも気力がないとありありと分かるジュチの様子にバヤンは一つ笑ってパンと手を叩き、声をかけた。もっと寒く酵母の働きが鈍い季節なら続けさせただろうが、バヤンの見立てでは朝に行う分の攪拌はもう十分だ。


「よし! ひとまず馬乳酒仕込みはここまでだ」

「よっしゃ!」

「それじゃあ次は何をしてもらおうか?」


 マジかよ、と喜色が一転して絶望そのものに反転したジュチの顔を見て呵呵大笑するバヤン。とにかく豪快で気風の良い草原の女であった。


「安心しな、今度は腕を使わない仕事を任せるからね。今朝絞った乳を火にかけていくから、その火の番をするんだ! いいね?」

「これ以上腕がガクガクにならないなら何だってやるよ」

「よおし良く言った! それじゃあ乳が焦げ付いた回数だけ、昼と夕にさっきの仕込みの続きをやらせるとしようかね!」


 舌禍が呼んだ更なる苦境に声にならない悲鳴を漏らす懲りない幼子に、草原の女傑は天に向かって大いに笑うのだった。


 ◇


 ジュチがひいひい言いながら罰を受けている場所から離れた天幕で、モージは族長のソルカン・シラと向かい合って座っていた。


「ソルカン・シラよ。既に話した通りだが―――」

「うむ、馬群が混ざった件だな。おおよそはアゼルから聞いている。部族の皆に顛末を伝え、次の夏営地(ゾスラン)へ赴く用意をするよう促そう」


 モージの対面に腰を下ろすのはひとく厳めし気な風貌の男だ。左目に眼帯を付け、反対側の隻眼に炯炯とした光を宿している。既に老年の域に差し掛かりながら、身に纏う空気に微塵も衰えはない。一度笑えば普段の姿からは想像できないほど愛嬌のある男だが、その稚気ある笑みを見れるのはもっぱら身内だけだった。


「そうするのが良かろう。伝達にはアゼルを使うのが良いと思うが、如何(いかが)?」

「モージの言葉ならば異存は無い。アゼルは大過なく務めるだろう」


 意見が一致し、互いに頷く。


「他の部族はどうかね? どこかが動く気配はあるかい?」

「今のところ戦の気配は耳に届いていない。凍霞狼(ショルガ・ボホイ)の一党は北の縄張りに入った。緋熊族(バーブガイ)は東に進出してから戻ってくる様子はない。羚羊(ゼール)蓮華(リャンホア)らの動きも例年通りの範疇だ」

「となれば他所で起こった戦から逃れて玉突き式にこちらまでやってくることはなさそうかね?」

「さてな。突発的な動きまではどうしても読めぬ。仮にそうなったとしても敢えて矢を向けるつもりはないが、必要ならばやむを得んだろう」

「だね」


 戦を好まない二人だが、長く生きる中で戦というものは意外なほど簡単に、どうしようもない理由で起こることを知っていた。好まないことと厭うことは全く別の話だ。()()()になって躊躇するつもりは両者とも一欠けらも無かった。


「問題はこちらの方か…」


 と、ソルカン・シラの視線の先にはモージが懐から取り出した、血の赤によってまだらに染められた手巾と砂金の粒があった。


「然様。間違いなくこれは()…山の上の王国、黒き妖精族(アールヴ)達が産する織物よ。飛竜に追われたジュチが食われなかったのも、妖精族の()()であったと考えれば説明はつく」

「しかし疑問は残る。何故妖精族が自らの領域を離れ、ここまで遠出してきたのか。そもそもジュチは何故襲われたのだ?」

「さあてね。詫び代わりかは知らぬが砂金の粒が置いてあったことを思えば、存外詰まらない行き違いのような気もするが…。とはいえ奴らに直接話を聞かねば確たることは何も言えん」

「そして妖精族は不用意に縄張りを侵す者に容赦がない。元々さして交流があるわけでもない…。妖精族の言葉を知る者も、今となってはモージ、お主を含めた数人だけだ。であれば、これ以上は追求のしようが無いか」


 昔は細々とだが黒妖精の王国とカザル族の間に交流があったというが、最早その時代を知る者は誰一人生き残っていない。モージが先代の呪術師から習い覚えた妖精族の言葉や風習がその交流の名残を示す残滓だった。


「藪をつついて飛竜を出す必要もなかろう。皆には飛竜の存在だけ告げ、しばらくは気を付けるよう伝えれば良いと私は考えるが、どうかね?」

「余計な好奇心に命を取られる若者は多い。おかしなことを考える輩が出ぬようにするためには致し方ないか」


 かくして部族首脳は結論を出し、ひと段落が付いたと息を吐いた。


雲雀(ボルジモル)との揉め事に、妖精族と飛竜か…。この北辺の片隅にあっても、まこと騒ぎの種は絶えんわ」

呵々々(カカカ)…。それは天神がこの世をお造りになった頃から変わらぬ理さ。何時だろうと、何処だろうと変わるものかね」


 モージの達観した言葉にフンと鼻息を一つ鳴らしながら首に手を当てて軽く骨を鳴らすソルカン・シラ。重なるトラブルにくたびれたと身振りで主張しているが、まだまだその眼には強い光が宿っていた。

 その姿を頼もし気に見遣り、気を取り直して退出の言葉を交わす。


「ではそろそろ私は天幕に戻るよ。ツェツェクの面倒を見なければならないしね。ジュチは置いていく。夕方までは好きに使ってくれ。しばらくはこちらに遣るから、精々キツめの仕事を割り振るといいさ」

「心得ている。そちらへ戻らせる時も人を付けるとしよう。心配は要らん」

「心配なぞするものかね。飛竜も食らうのを避けた悪運の持ち主だよ、アレは」


 族長の気遣いを一笑し、天幕の入り口に下げられた毛氈(フェルト)を手で退かして外へ出ていく。牝馬を探して視線を周囲に向けると、晴天の下で搾った乳を火にかけている愚息ジュチの姿が映る。ひいひい言いながら駆けまわっている少年に、よく働いているじゃないかと苦笑を漏らした。

 騒ぎと揉め事に囲まれながらもカザル族は平穏を謳歌していた。しかしこの時誰も予想出来ない密かな脅威が既にカザル族へと忍び寄っていることに誰も気付いていなかった…。


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