妖精王女 後編
飛竜一騎を供に従え、ポータラカ王宮を飛び立ったフィーネ。
聖餅を頼りに何日も食いつなぎ、当てもなく高貴の白を探し求める旅が始まった。
時に野生山羊や羚羊、山脈熊をスレンとともに狩り、その肉を焼いて聖餅と共に口に押し込む日々が続く。
使える調味料はたまたま立ち寄った岩塩鉱床で手に入れた塩だけという何とも野性的なものだが、生来の逞しさか妹分を思う一心かフィーネは味に文句を付けることは無かった。
「スレンは大雑把過ぎるの。口に出来るお肉が全部丸焦げとか…」
『グルゥ』
とはいえ口に入る物がジャリジャリとした黒焦げばかりである日は流石にボヤキも混じる。
そんなフィーネの愚痴に知るか、とばかりに喉を低く鳴らすスレンだった。
他愛もない一幕を挟みながらも、日々は瞬く間に過ぎていき…。
「……見つからない」
結論から言えば高貴の白を探す空の旅は成果を得られずに終わった。
王宮から飛び立った当初は、唯一の手掛かりである《精霊の山》へと竜首を向け、《精霊の山》に近い他の山脈に点在する断崖絶壁を知る限り飛び回り続けた。だが、見つからない。
一通り目星をつけていた山脈を虱潰しに飛び回り終えると、後は竜骨山脈を徐々に南下しながら目を皿のようにして山肌を注視する当てのない日々が続く。
どれ程の山脈を行き過ぎようと、どれほど眺めても精霊が群れ集うという白の花弁を見出だすことは出来なかった。
これは無理もないことだ。そも高貴の白は精霊が集う特別な霊地にしか咲かないからこそ霊草と呼ばれているのだ。
頼りの《精霊》に霊草の所在を訪ねても、予想はしていたが大した情報は得られなかった。
彼らは概ねフィーネに対して友好的だが、それ以上に気紛れで無邪気であり実際的な情報を聞き出すのが難しいのだった。
何時、何処で、誰が、何故、何を、どうやって…。こうした事柄を訪ねても大抵まともな答えが返ってくることは無い。疑問の意が返ってくるならまだマシで、大体の場合はそんなことよりも、と自分達の意志を押し付けてくることの方がはるかに多いのだ。
頼りの聖餅は目に見えて減っていき、焦りと疲労がフィーネを蝕んでいた。食糧獲得のための狩りに使う時間が減り、探索に充てる時間を増やす。その分得られる食糧が減り、空腹に襲われたスレンの苛立ちが日増しに激しくなっていく。
日々溜め込まれていく心身の負担を何とか宥めながら探索を続けるが、フィーネの気力もスレンの空腹も限界を迎えつつあった。
「ごめん、もう少し。もう少しだから…!」
『グル…』
短く唸り声を上げて少女の声に応えを返す。だがその内心は応えほど従順ではなかった。
限界だ、と飛竜は冷静に思考した。己も、少女も。
一刻も早く空腹を満たす獲物を獲らなければならなかった。何よりも休息が必要だった。
現に背に乗せた少女は言葉こそ力が籠っているが、目に見えて疲労が激しい。
飛竜の背に乗るだけでも姿勢制御に体力を使う。ましてや何日も成果の上がらない無為な探索が続くとなれば気力も擦り切れるだろう。
今も少女は背の騎乗鞍にしがみつくように身体を預けている。体力はとっくに使い果たし、残った気力で何とか今の状態を維持しているだけだ。
『…………』
ここが引き際だろう、と沈黙の内にスレンは決断した。これ以上の無理は己にとっても、騎手の少女にとってもロクなことにならない。スレンにとって背の少女は逆らい難い強力な主人だったが、生き物である以上限界はあったし、主人のこともそれなりに気に入っていた。
最強の主人、その第一の翼を務めるのも悪くは無い。スレンはそう思っていた。
このまま無理と無茶を続けた果てに弱った少女の頸木を砕く機会が得られるかもしれないが、最早そのつもりは無い。
ここまで思考を進め、ならばどうするのかという自問に、無理やりにでも狩りに移るほかないと自答を返す。
近くにいる手頃な獲物ならば何でもいい。
そう考えて眼下を見渡したスレンの視界に、山肌を駆ける山羊とそれに乗るちいさなオマケがたまたま目に入った。
そしてオマケの外見が闇エルフと多少似ていようと、スレンにとっては知ったことではなかった。
◇
山間に嘆きと慚愧に満ちた声が響く。
「ごめんなさい…! 本当にごめんなさい!」
謝罪を繰り返すのは、乗騎の蛮行が起こした眼前の結果に顔を青ざめさせたフィーネだ。
気力が擦り切れ果てて意識を失い、ただ鞍にしがみつくばかりとなったフィーネ。その揺蕩う意識を覚醒させたのはスレンが手繰る火精の爆裂の衝撃だった。
尤も意識が鮮明になったのはギリギリもいいところ、生き汚く逃げ回る小賢しい獲物に業を煮やしたスレンがその巨躯で直接獲物を手にかけようとした寸前だったが。
スレンが狙う獲物が、自身と同じ年頃の子どもであることに気づいた瞬間に血の気が引く音が聞こえた。咄嗟にスレンに強烈な風圧で無理やり金縛りをかけ、致命の一線だけは辛うじて離れた。
だがそれは即死を免れたというだけでしかない。飛竜の爪に引っ掛けられた矮躯は望まぬ空中飛行を強制され、おもちゃのように大地に叩きつけられた。
グチャ、ともビチャ、とも聞こえる生々しい血肉を打ち付けるおぞましい音が少女の耳に届く。
「あ、ああァ…」
地に墜ちたスレンから勢いよく飛び降り、少年の元へ駆け寄ったフィーネは元から青白かった顔色をさらに青ざめさせた。
誰がどう見ても少年は致命傷だ。
少年の頭蓋骨は割れて鮮血が溢れ、手足の骨は壊れた人形のように無茶苦茶な方向に捻じれている。
「《精霊》にお願いすれば…! ダメ、これだけ壊れた人をどうにかするなんて…」
如何に世界の理を司る《精霊》と言えども限界はある。少年の負傷は生命への干渉を得意とする水精でも癒しがたいほどの重傷だ。
自分は無力だ、とこの世で最も万能に近い少女へこれ以上なく現実が叩きつけられる。
例え両界の神子であろうと、過ぎ去った時を巻き戻すことも、零れ落ちた命を掬いあげることも出来はしない。
普通なら。
「どう、すれば…! どうしよう!?」
焦る。
「あ…!」
そこで少女は一つの考えを思いついた。思いついてしまった。
「この人と、私が《血盟》を結べば…!」
闇エルフが血盟獣と呼ぶ特別な騎獣が存在する。
その特別性は騎獣個体ではなく、騎獣と乗り手の関係性にこそ由来する。
互いの血を媒介にした邪法ギリギリの血の契約、文字通りの《血盟》。
その《血盟》を騎獣と結ぶことで、騎手と騎獣の間に特別な結びつきが生まれるのだ。
《血盟》を結ぶ恩恵は大きい。
騎獣との意思疎通はまさに一心同体と呼べる領域にまで昇華され、遠く離れていても互いの存在を感じ取り、危機に陥った時に視覚や聴覚を共有することもあるという。
加えて殊更に相性が良い組み合わせでは互いの種族が持つ特性の片鱗を得る事例も報告されている。
《天樹の国》建国期の大王ケサルとその飛竜《荒々しきキャン》はそれぞれ飛竜が持つ力強き膂力と天を翔ける特別な感覚を、人類種が持つ智慧と巫術を手繰る技を互いに《血盟》を通じて得たという。
この特別な結びつきを以て自身の特異性を少年と共有できれば…少年が精霊の加護を得られれば、あるいは少年の命を救うことが叶うかもしれない。
『ガギャアァァァッ!』
だがその思い付きに否と反抗するように、スレンは咆哮した。賢き魔獣が示す反対の意には相応の理由があった。
《血盟》によって得られるのは恩恵だけではない。
互いの相性が悪ければ精神に悪影響が出ることはざらにある。更に契約者と死別した時には強烈な喪失感に襲われ残った片割れも後を追うように自殺する例すら報告されている。
そして一度結んだ契約を解くのは極めて難しい。契約を結び年月を重ねるほど結びつきは強まり、解除は困難さを増していく。
加えて言えば過去の契約者たちは常に一対一で《血盟》を結んでいる。一人の術者が二騎以上契約を結んで例は無い。
フィーネは既に飛竜と《血盟》を契約している。それはつまりこれからフィーネが為そうしているのは前人未到の領域であり、何があっても全くおかしくないと言うことだ。
『ガアアッ!』
止めろ、とスレンは吼える。
否、と少女は首を振った。
「ダメだよ、スレン。悪いことをしたら償わなくちゃ」
例えそれが見ず知らずの少年を助けるために命を投げ捨てるが如き無謀だとしても。
だってフィーネは「良い子」なのだから。
「―――――――」
フゥ、と覚悟を決めるように息を吐き出す。
少女は躊躇いを捨て、思い切りよく自らの手首を懐剣で切り裂き、溢れ出す鮮血を倒れ伏す少年へ振りかけた。
◇
とても素敵な再会だったと、飛竜の背に乗って《天樹の国》への帰路に就く少女は思う。
願わくば最初の出会いがもっと穏やかなものであれば誰はばかることなく喜べたという事実がただ一つの悔いだろうか。
「ジュチくん、元気だったね。本当に良かった…」
『ガアァ』
「アハ、もう私は気にしてないよ。ジュチくんも許すって言ってくれたもん」
《血盟》の施術に血を使いすぎたことによる貧血と栄養失調が重なり、この数日は近くの岩宿を寝床に安静に過ごし、スレンが狩る獲物を口にしてひたすら体力回復に努めていた。
そしてようやく少年の元へ向かうだけの体調を取り戻したのが丁度今日。《血盟》が伝える少年の存在感を頼りにスレンを飛ばし、すやすやと眠りこける彼を見た時の安堵感は言葉にならなかった。
「《血盟》も歪な形だけど安定しているみたいだし。スレンもジュチくんのことが気に入ったみたいだね?」
『グル、グオオォ…!』
不服そうに咆哮するスレンへ向けてからかうようにクスクスと笑みをこぼす。
《血盟》の施術はフィーネも予想していなかった形に、しかし予想よりも上首尾に終わった。
掟ゆえに少年へその事実を告げることは出来なかったが、既にジュチはフィーネの《血盟獣》と成っている。そして両界の神子と飛竜、二つの種族が持つ特性が少年の中に息づいていることもフィーネは気付いていた。
それゆえの《精霊》の加護、そして飛竜の持つ生命力の恩恵によって辛うじてジュチの命を拾うことが出来たのだった。
そしてジュチの方からフィーネへほぼ一方的に流れてくるモノの存在もまた。それはあやふやな思考であったり、記憶であったり、時にジュチの五感だったりした。闇エルフと騎馬の民という差異だけではない、とても異質なソレ。子供とは思えないほどに大人びた思考の断片、王女として一流の教育を受けたフィーネすら知らない知識の欠片。
まるで住んでいる世界が違うかのような異質さ。私と同じ異端。
再会した当初から何となくジュチに感じていた親近感の源がソレだった。
とはいえ少女の中で少年を特別な位置に置くことになったのはそれだけが理由ではない。
(お母様が言った通り、素敵な出会いをこの旅で得られました)
母の天眼はこの縁を見通していたのだろうか、とぼんやりと考える。
つい先ほどまで話していた元気で、皮肉屋で、そそっかしくて、でもとっても気持ちのいい男の子のことを思い起こす。
アウラを案じるフィーネに共感を示してくれた。
お詫びに来たと言うフィーネに、飛竜に乗ってみたいと言って驚かされた。
飛竜に対して畏れを見せながらも真っ向から向き合っていた。
なにより何を言えばと言葉に悩む少女を救い、同時にどうしようもなくその胸を貫いたのは少年の何気ない言葉だった。
「あんまり気にするなよ。もう友達だろ」
この時無邪気に笑う少年の言葉が与えた少女の驚きはどれほどのものだったろう。
フィーネは妹分を、乗騎をお友達と呼ぶ。それは少女にとって胸を張って自慢できる事実で、きっとアウラとスレンも同じように思ってくれていると信じている。
だがアウラからは身分ゆえに、スレンからは種族が違うゆえに、フィーネを友達であると呼んだことは無い。
だから初めてだったのだ。
裏表なく、何でもないことのように、異物である自分を友達だと呼んでくれる人に出会えたのは。
「フフ…アハハハハハハッ!」
クスクスと密やかに、やがて堪え切れないように大声を上げてフィーネは笑った。無邪気な笑い声はスレンが起こす羽撃きに紛れて風に散っていく。
「お友達だって」
嬉しそうに、心底から幸福そうに。それでいて少しだけ危険な気配を滲ませて、そう少女は呟く。
「私のお友達。私だけのお友達。ふふ、ジュチくん。私のジュチくん」
歌うように少女は少年の名を舌で転がした。そこに込められた思いは酷く熱く、胸を疼かせる。
一般的な意味でのお友達に向ける感情としてはいささか以上に執着心の強いものだったが、少女自身は気付かず乗騎たるスレンはそこまで人類種の心の機微に通じていない。
「帰ったらお父様達からも叱られるだろうから、しばらくは会えないかな。アウラの病気も何とかしなきゃならないし…」
強すぎる喜びに胸を焼かれながらも、同時に大好きな妹分を案じることも忘れない。フィーネも闇エルフの例に洩れず、深過ぎる愛の持ち主なのだ。
「でもそれが終わったら、きっと、ずっと…私と一緒にいてくれるはず。だって私のお友達なんだもん」
お友達と一緒にいる、というのはフィーネにとって当たり前のことだ。ましてや少女にとって特別な、大事で愛しいお友達であれば最早疑問に思うことすら無い。
フィーネと《血盟》を結んだ間柄であるジュチを《天樹の国》としてもそのままには出来ないという事情も少女の中で大義名分として後押ししていた。彼がフィーネに専属で仕える従者となることを受け入れてくれれば公私に渡ってずっと一緒にいられるのだ。
「何時か、きっと、また…」
彼と約束したのだ。再会すると。また会おうと。
「だから、絶対に…」
もう一度会おうね、という言葉は向かい風に散らされ、消えていくのだった。
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