第九話 ウェルニッケ領域
これはラブコメ
『地獄』という言葉を聞いて、これから先、真っ先に思い浮かべるのはきっとこの光景だろう。
すれ違った人が殺された。助けてくれといった人が殺された。何もしていない人が殺された。
泣き叫ぶ人、祈る人、死んでいるヒトをすり抜け、向かうのは幼馴染の家。
昼間のはずなのに、俺の好きな色は隠され、黒い雲が覆う。
あちこちで火の手が上がり、サイレンやら警報やらの音が鳴り響く。
息も絶え絶えにたどり着いた幼馴染の家は、真っ白な壁は、影が蠢き、その白さを飲み込もうとしていた。
「××!」
その光景に、思わず彼女の名前を叫ぶ。もちろんそれに返事なんてない。
幸いにも、まだ扉は機能を果たしている。
ダメ元で扉を引くと、案外あっさりと俺を受け入れてくれた。
影に殺されるかと一瞬緊張が走ったが、それは杞憂に終わった。
どうも俺は攻撃の対象になっていないのかもしれない。そうじゃなかったら、俺の運動神経じゃ無傷でここまでたどり着かない。
学校からずっと履いていた上履きを脱ぎ捨てて、昨日お邪魔したばかりの彼女の部屋へと向かう。
二階へと上がる階段を駆け上がってから愕然とする。
床のおおよそ八割が影に覆われていただけでなく、その影はどう見ても彼女の部屋から溢れていた。
「無事か!?」
「…………や……と……?」
か細い声が、俺の問いかけに応える。
その声を聞いてほっとしたのもつかの間。
「来ない、で……!」
それは、おおよそ記憶にある中で初めての彼女からの拒絶だった。
初めての反応に、一瞬思考が停止する。
彼女は何度も「来ないで」と口にするが、やがてその声に嗚咽が混ざったことに気づくのは、思考を停止した頭でも簡単だった。
嗚呼、うん。
こんなに拒絶されても、やっぱり俺は泣いている彼女をほっておくことはできないらしい。
「入るよ」
返事を待たずに、唯一残っている扉のドアノブに手をかけ、そのまま開く。
その瞬間、ダムから放水されるように、触手のような影があふれ出てきた。
しかし、それらが俺を串刺しにしたり、引き裂いたりすることは無く、そのまま濁流のように階段を流れ落ちていった。
一瞬あっけにとられながらも、部屋の中に足を踏み入れると、そこに広がっていたのは、闇だった。
可愛いぬいぐるみも、夢いっぱいのクローゼットも、俺の好きな色のカーテンも、何もかもが闇に飲まれ、その中心で幼馴染がうずくまって震えている姿があった。
「や……と…?」
扉が開いた音に反応したのか、うずくまっていた彼女が顔を上げる。
長い髪の隙間から見える瞳は闇を宿し、星空のような輝きはとっくに失われていた。
「うん、俺だよ」
さらに部屋の中へと足を踏み入れ、彼女との距離を詰める。
暗闇に目が慣れて気付いたことは、黒い影のようなものが彼女を中心に渦巻いているということだ。
信じたくないけれど、多分これがあの惨劇の――地獄の原因なんだと、無駄に冷静な頭で分析する。
「だめ、来ないで……。見ないで……」
いやいやと首を振って拒絶する彼女。
それでも俺はこの子をほっておけなかった。
その頬に伝う涙をぬぐってあげたくて。
泣かなくていいのだと、抱きしめたくて。
何が起きてこうなったのかなんてどうでもよかった。
ただ、幼馴染が泣いている。その状況をどうにかしたくて手を伸ばす。
「大丈夫。俺はここにいる。ずっと××のそばにいる。俺は、××だけの味方だから」
白い頬に手を伸ばして雫をぬぐいとる。
少しだけ彼女の瞳が見開かれる。
幼子をあやすように、空色の髪を撫でながら言葉を続ける。
其処に策略も心理的効果も何もない。
ただ。
ただ、彼女の泣き顔なんかより、笑っている顔を見たくて必死に。
「約束したでしょ。俺はずっと一緒にいるって。俺が今まで約束破ったことある?」
「…………無い……」
「うん。だから、怖いことなんて何もないし、俺は××がそばにいてくれればなんだって良いから」
だから。こんなところで一人で泣かないでほしい。
それはきっと、とても寂しいことだから。
彼女は、寂しがりやだから。
きっと、こんなのは耐えられないだろうから。
「だから」
「……一緒に、いて、くれる…?」
俺の言葉の続きを、腕の中の彼女が紡ぐ。
彼女の言葉を肯定するように頷くと、ようやく彼女が笑った気がした。
「本当に、本当? ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろん。言ったでしょ。『俺のお嫁さんにする』って」
まっすぐ彼女の目を見てあの日の約束を口にする。
俺と彼女の、いちばん最初の約束。
どんなにたくさんの約束を積み重ねようと、俺がどれだけ年を重ねようと変わることのない、一番大事な約束。
それは、こんな非常事態を前にしたところで変わることは無い。
俺の返答に、幼馴染は果たしてどんな顔をしたのか。
多分、笑ってくれているんだと思う。そうだとしたら満足だ。
彼女の笑顔があるなら、海の中だろうと草なの中だろうと、どこだって良い。
ふと、意識が遠のく。
最初に視界がシャットアウトされ、次に彼女の声が聞こえなくなる。
それでも、腕の中の幼馴染のぬくもりだけは、いつまでも残っていた。