第六話 知性化
もう少しで第一部が終わります。長い話は書けないんです。
とりあえず走る。今できることはそれしかない。
だから、背後から絶えず聞こえる爆発音や、モノが燃える匂いに気にかけている暇なんてない。
車の通らない車道を横断し、住宅街を走り抜ける。
曲がり角を右に曲がると我が家が見える。
幼馴染の家よりずっとこぢんまりとしている。彼女の家の庭にうちの敷地が全部入ってもおかしくない。
ポケットから鍵を取り出して開錠する。
そのままリリィーの腕を引っ張って家の中に入れ込み、勢いのままドアを閉める。
直後に何かが思いっきりぶつかる音がした気がしないでもない。きのせいだ、きっと。
「とりあえず、乗り切った…か?」
「シャトルランのインターバル程度の休息ですね……」
けほけほとせき込みながらも、リリィーはまだ冗談を言う余裕があるらしい。
一方俺の方は、アドレナリンが切れたのか、足がまるっきり使い物にならなくなってしまっていた。
生まれたての小鹿よりも頼りない足を無理やり動かし、改めて家の中を見る。
先ほどお邪魔した幼馴染の家と比べると、とんでもなく貧相に見えるが、決してうちが狭すぎるわけでない。
そんな、一般家庭の中に人の気配があるわけも無く、やはりこの世界には三人しかいないのだろう。
「これからどうすればいい」
「この世界から出ることが一番です。一番簡単なのは、アレを殺すことかと」
なんでもない風に。ちょっとした忘れ物をしてしまったとでも言うように、さらりとリリィーは言う。
こんなにも、殺すという言葉は、果たして軽いものだったのだろうか。
「それは……ちょっと難しいな」
「えぇ、今回もそういうと思いました」
「今回も?」
「口が滑りました。忘れてください」
俺が怪訝に眉を顰めると、リリィーはスカートの裾をもてあそびながら素っ気なく言う。
これ以上の追究を許さない、とでも言うような素っ気なさに、どこか寂しさを感じつつも、こちらも口を噤むしかなかった。
「さて、そうなると別の方法を探さなくてはいけないんですが……なかなかどうして、骨が折れそうですね」
「心当たりでもあるのか?」
「これっぽっちもさっぱりです。心当たりがあれば、今頃夜斗をここから出してあげられていますから」
それもそうか。と、一人納得する。そもそも、一番手っ取り早い手段を俺が潰してしまっているわけなので、そこはかとなく申し訳ない気持ちもする。
しかし、ノーヒントで脱出しろなんて無理ゲーかクソゲーにもほどがある。
何かヒントになりそうなものは無いかと、記憶を漁っている中でふと、気になることがあった。
「確認したいんだけれど」
「はい、私で答えられることでしたら、スリーサイズ以外はお答えしますよ」
そこは答えなくていい。多分あんまりサイズは無いだろうし。という言葉を飲み込んで、さっそく本題に入る。
「リリィーは、幼馴染と同一人物なんだよな」
「えぇ、その認識で構いません」
「リリィーも自分の名前がわからないんだよな」
「はい」
「……あの子は、自分の名前知っているんだろうか」
「どういうことです?」
今度はリリィーが首を傾げる。
これはまだ憶測でしかないけれど。と前置きをして、口を開く。
「俺も、幼馴染の名前がわからない。なんとなく、俺みたいな名前……というのはわかるけれど。そして、この世界に今いる人間のうち、少なくとも三分の二があの子の名前を憶えていないということは、何かしら手がかりになるんじゃないか…って思ったんだけれど」
俺の考察に、リリィーは少し考えこんだ後、ふむ、と声を漏らした。
「一理ありそうです。夜斗みたいな名前、というひどく曖昧な手がかりは役に立つかはわかりませんが、今はそれに縋るしか無いでしょう」
どちらが言ったのか、一体いつの話なのかまでは覚えていないけれど、空を見て、そんな感想を抱いたことがあった気がする。
意識的に、記憶を紐解いていく。
放課後の、遅い時間。
空がすっかり夜の帳に覆われようとしていた帰り道。
空を見上げた幼馴染は、その空を「俺の時間」と形容した。
そんな空の色を、幼馴染の名前みたいだと言ったら、彼女は「夜斗とおそろいだね」と嬉しそうに笑っていた。
あぁ、そうか。彼女の言葉があったから、何となく夜空色の名前という印象を持っているんだと思う。
「色…かな……」
「はぁ……何故それが夜斗みたいな名前になるんですかね」
「夜空色からだったと思う」
これでやることは二つ。
ひとつは、幼馴染の名前を思い出すこと。
ふたつ目は、この世界から出ること。
出た先のことはわからないけれど、先を見据えるより、目下の問題を片付けることの方が先だ。
ふと見上げた空は、夕日も終わって間もなく俺の時間になろうとしていた。
黒と赤を、濃い青色――瑠璃色がつなぐ時間。
外の世界というものは、もっと俺の好きな色が広がっているんだろうか。
だとしたら、ぜひ、向こうの世界にいるであろう幼馴染と見てみたいものだ。
しかし、そうなると、この世界の幼馴染はどうなるんだろうか。
「…さて、そろそろ動きませんか?」
「そうだな」
と言っても、一体全体何処に行けというんだ。
窓の外は焼け野原。
ついでに、黒い影みたいな何かが触手の如く蠢いている。
四面楚歌、八方塞がりというやつか。
「リリィー、ちょっと提案が」
「自死以外でお願いします」
「まさか。ちょっと試したいだけだよ。家を出たら、俺と反対方向に逃げてみて」
「それでどうするんですか?」
「どっちが標的か、あぶりだそうと思って」
というのは半分嘘。
半ば自覚はある。アレは、十中八九俺を狙っている。
原因なんてわからないし、因果もわからない。
けれど、そう確信できる要素がほしいのもまた事実だった。
あとは、ひどく悲しそうにゆがむリリィーの顔を見たくないというエゴが二割ほど。
「夜斗は昔から素直な子なんですから、下手な嘘は似合いませんよ」
「幼馴染よりはだいぶひねくれていると思うけれど」
というか、彼女が純粋すぎるともいうかもしれない。
まぁ今はどっちでもいい。
「頼む」
ダメ押しでもう一度願い出てみると、リリィーはあきらめたように息を細く吐き出す。
お前はそういうやつだったよな。とでも言いたげな目で笑った彼女は、それでも哀色を隠しきれているとは言い難かった。
「仕方ありませんね。この仮は大きいですよ」
「わかってる」
もう、あんな顔させないために。
幼馴染の名前を、大好きな名前を呼ぶために。
そのための犠牲は、多分犠牲ではないはずだ。
よし、と自分を鼓舞して、改めて玄関の扉を開ける。
小さな庭は、もはや瓦礫か荒野か、はたまた更地かとでも見間違う程度には原型を失っていた。
影のような其れは、俺を補足するや否、なんの迷いも躊躇いも無く突っ込んでくる。
「夜斗、どこ行っていたの? 探したんだよ」
声が響く。
鈴を転がすような、甘い声。
聞きなれた幼馴染の声は、バグと形容するのが手っ取り早いくらいにブレて、重なって、ノイズが混じった音だった。
ちらりとリリィーの方を確認するが、彼女の周りに影が姿を見せることは無い。
執拗に俺だけを狙っている。
まったく。幼馴染以外にモテるような覚えはないんだが。ついでに彼女以外に興味が無い俺に、無機物だか人外だかはなかなか難易度が高い。
ただ、自分から遊びに行きたいと言っておいて、黙って出て行ったのも事実だ。
そのことはちゃんと謝らなきゃいけない。
立ち止まって、影と向き合う。さすがに少し怖くて、うっかり逃げ出したい気持ちが無いわけではない。
でも、それだとダメだと、直感に退路を断たれる。
「ごめん、ちょっと用事を思い出して」
俺の言葉に、返ってくる言葉は無く、代わりに熱い、熱い、抱擁を通り超したナニカを全身で喰らうこととなった。
皮が割け、繊維が断たれ、引き裂かれる。
関節が無理やり反らされ、限界を超えてしまえば簡単にちぎられる。
夜の空に、赤い飛沫が飛び散る。
コンクリートに叩きつけられた肉片は、果たして俺のものなのか別の知らない誰かのものなのか。
うん、次はちゃんと、名前を呼んであげないとな。
最期に視界に映った泣き顔は、リリィーのものか幼馴染のものかわからない程度に視界がぼやけ、そのまま幕を下ろした。