最終話
3
遅かったか――。
初め若者は、その老女が既に息を引き取っているのかと思ったほどであった
――医者を――。
まだ微かに息をしていることに気付いた若者はそこで医者を呼ぼうとした。
だめ――。
その時――、老女が小さな目を開けて、微かな――。微かな聞き取りにくい声で言った。
今度は貴方が話してくださる約束ですよ。
私の話ですか?
私の話と言われましても――。特に何もお話するようなことはございません。それより本当に医者を……。そうですか? 何でも良いとおっしゃるのなら、一つ、死んだ祖父の話でもさせていただきましょうか――。
親父に聞いた話ですが、私の祖父は本当にどうしようもない男で。よく言えば仕事一筋。まだマシな言い方をしても、家庭を省みない――と云うヤツだったそうで。けど実のところは、結局自分にしか興味のないような、本当にどうしようもない男だったそうです。
聞こえてますか? 本当にお医者さん呼ばなくて……
分かりました。続けます。
それでもまだ、父が幼い頃には、曲がりなりにも小さな会社などを経営してたらしくてね。まぁ――、特に裕福とまではいかないながらも、それなりの暮らしは出来ていたようです。
しかし英雄艶を好むと言いますか――。まぁもちろん、英雄でも何でもないんですけどね。やはり祖父もご多分に漏れず酷いもんで、外に何人も女を作っていたようです。けれど、昔は本当に気の短い、手の早い人間だったそうですが、孫の私には大層優しい、良い祖父でした。
その祖父がね。3年前に亡くなったんですが――。
亡くなる前に、跡継ぎである私一人だけを枕元に呼べと言い出しまして――。
いや、なに……。私にしてみれば、跡継ぎも何も、別に相続出来るような財産があるわけでもなし、何を大層に――と、思いながらも一応話を聞いてみた訳ですよ。
するとね。わざわざ人を呼んどいて、本人中々口を開かない。業を煮やして私から聞き出したところ、やっと――ぽつりぽつりと喋り始めた。
それがね――。驚いたことに、今にも死にそうな爺さんが、何と一人の女性のことを話し始めたのですよ。そりゃあ、確かに家族の前では話辛いわなぁ……と、――いや、私ももちろん家族なのに変なんですけど――。そう思いながら聞いていますとね、何とウチの爺さん、その女性を探して、訪ねてくれと――。こう言うわけですよ。
探せと言われても、私は探偵でも警察でもない。ところが爺さん、住所は分かる――。と言うんですね。
何だ。住所が分かるのなら、手紙でも何でも自分で書きゃ良いじゃないかと思ったら、何と自分が死んでから会いに行けと言うわけです。
何を言い出すのかと思ったら――。今更爺さんが死んでから、私にどのツラ下げてその人に会いに行けってんだ? とね。
雀の涙ほどの遺産の一部でも渡して欲しいのかって聞いたらね。
なんと爺さんこう言うわけですよ。
ばかもん! そんなんじゃない!
あの人にな――。
あの人に、ただ一言――謝ってきてくれ。私だけ家族に囲まれて旅立つことを許して欲しい――と。
それからあの人はな。私のケチな財産などを欲しがったりはせん。あの人の願いがあるとするなら、それはただ一つ。死ぬまで私のもので在り続けること。ただそれだけだ。
しかしな。強いてもう一つ――。と問われれば……。
きっとあの人はこう言うだろう。
私の手を握ってください――と。何もいりませんから、私が死ぬときには枕元にいて、つまらない男にその生涯を捧げた――。ばかな女の干からびたこの手を――、そっと握っていてください――と、そう願うことだろう。
しかしな。しかしそれは決して叶えてやることの出来ぬ望み。
ここで果てる運命である私の――。それだけが唯一の心残りなのだよ――。
――と。祖父は泣いて申しておりました。
お婆さん――
聞こえてますか?
お婆さん――
医者……
いや……
手を……
手を握らせてもらってもいいですか……
了