彼氏スイッチ
私は二人がけのソファにもたれかかり、スマートフォンに表示された『あ』のボタンをタップした。隣の座っていた雅くんが身体ごとこちらへと向き直り、私の目をじっと見つめてつぶやいた。
「愛してるよ、美保」
「私も……愛してる」
火照った両頬に手を当てながら、私は雅くんの真剣な表情を覗き込んだ。セクシーな長いまつげの奥から、茶色く澄んだ瞳が一直線に私の目を射抜いていた。私は雅くんと見つめ合ったまま、『い』と『う』のボタンをタップする。雅くんは両腕で私の身体を抱き寄せ、私の右肩に顔を埋める。そして、吐息のような甘い言葉で私の右耳にそっと囁く。
「一生、離さない。そして……。生まれ変わっても絶対にお前を探しに行く」
頭が一瞬真っ白になった後、稲妻のような喜びと快感が身体全体を走っていく。それでも、私は唇を噛み締め、そっと雅くんの身体を押しのけた。
「でも、私じゃ雅くんにふさわしくないよ。私ってブサイクだし、性格も良くないし。雅くんの幼馴染の絵梨花ちゃんに敵わないもん」
「絵梨花……?」
絵梨花という言葉に雅くんが一瞬反応した。左の眉がぴくりと上がり、焦点の合わない虚ろな目が右左へと泳ぎ始める。私が手元のスマートフォンへと視線を戻し、『え』のボタンをタップすると、瞬時に雅くんの顔に生気が蘇る。雅くんは私の両肩を強く掴み、強引に私の唇を奪う。荒々しくも、優しい口づけだった。
「絵梨花なんか糞みたいな女だよ。あんな女なんかより、美保の方がずっといい女だ」
「言い過ぎだよ、雅くん。でも……嬉しい」
一瞬だけ絵梨花の苦しみに満ちた表情が思い浮かぶ。駄目だと思っていても、私の頬が自然に緩んでしまう。愛される喜びとは別の満足感が心を満たしていくのを感じた。かすかな耳鳴りが聞こえ、視界にうっすらと白い靄がかかる。まるで陽光が差し込む海の中に潜っているかのようだった。
雅くんがもう一度私に口づけをする。上唇を端の方から啄み、ゆっくりと雅くんの舌が私の口の中へと入っていく。二人の熱い吐息が重なりあった口の隙間から漏れる。絡み合う舌がいやらしい音を立てる。雅くんの唇が私の唇を離れ、首筋を伝い、鎖骨へと降りていった。
私は興奮状態のまま手探りでスマートフォンへと手を伸ばし、『お』のボタンがある場所をタップした。雅くんは私から身体を離し、私の顔をもう一度見つめた。雅くんの澄んだ茶色い瞳には、服がはだけ、胸元が露わになった私が映っていた。
「お前が欲しい。お前がいないと俺は駄目なんだ」
雅くんが壊れるほどに強い力で私を抱きしめ、そのまま私を押し倒す。私は『か』のボタンをタップする。
「可愛い……。可愛いよ……美保」
私の指が『き』のボタンへと伸びる。
「きっと、お前のことを見捨ててきた男たちは、みんな見る目がない馬鹿ばっかりだったんだろうな。お前はこんなに可愛いのに……」
雅くんは私の耳をなめながら、ブラウスの中へと手を入れた。熱気を帯びた私の身体の上を雅くんの固くてごつごつとした手が這っていく。背中からうなじへ、そしてゆっくりと下半身へ。私は『く』のボタンを押し、スマートフォンを操作していた右手を雅くんの腰へ回した。
「狂っちまいそうだよ……お前のことが好きすぎて……」
雅くんの手が私の太ももをなぞっていく。麻薬のような快感と充実感が、砂漠に降る雨のように私の身体を染み込んでいく。私の口から嬌声が溢れる。もう何も考えられない。私は急かすように雅くんの手を掴み、ぎゅっと握りしめる。しかし、その時。雅くんの腕が彫刻のように固まって動かなくなった。
「……どうしたの?」
私は身体を起こし、雅くんの顔を覗き込む。雅くんの額には幾筋もの皺が浮かび、口元はだらしなく開いていた。瞳孔が開きった目で私を見つめていたが、焦点は合っていない。強烈な孤独感が私の背中を捕まえる。雅くんを失う恐怖で涙がこみ上げてくる。過去の恥辱が脳裏にフラッシュバックする。私はそれを振り切ろうと、雅くんの顔を自分の胸に抱き寄せる。雅くんの口から溢れたよだれが、胸元にたれ、ひんやりと冷たい感触がした。
「今の私には雅くんしかいないの。……だから、お願い」
私はソファの下へと落ちていたスマートフォンを拾い上げ、『け』のボタンを押す。しかし、雅くんの反応がない。もうニ、三度ボタンを押してようやく雅くんは決められたセリフをつぶやいた。
「結婚しよう……」
私は雅くんの頭にそっと口づけをする。雅くんの髪は汗でほんのりと湿っていた。続きをしよう。私は雅くんの耳元で囁き、スマートフォンを握りしめる。そして、『こ』のボタンを押そうとしたその時、雅くんの右手がゆっくりと私の腕を掴んだ。雅くんが顔を上げ、私の顔を覗き込む。顔を震わせながら、手を震わせながら、雅くんはかすれるような声で私につぶやいた。
「殺してくれ」




