第8話:冒険者組合
夢を見ていた。
今となっては遠い、セピア色に染まるどころか虫食いが目立つ、平成の日本で生きていた頃の夢を。
鉄筋コンクリート造りのマンションの一室。床には家の近くにあったディスカウントストアで買った薄い絨毯を敷き、壁際には折り畳み式のベッド。部屋の隅にはテレビが置かれ、部屋の中央には小さな炬燵が陣取っている。
あとは衣装箪笥とスーツラックが置かれた懐かしの部屋だ。そんな懐かしさを覚える部屋の中で、レウルスはベッドに背を預けて座り込んでいた。
会社に出ていないということは休日なのだろう。見下ろした己の姿は長年着古したジャージ姿とラフなものであり、偶の休暇ということでくつろいでいるようだった。
『――――』
そこでレウルスは誰かに声をかけられる。その声に惹かれて顔を上げてみれば、そこにはお盆を両手で持つ一人の女性――らしき人がいた。
顔が霞みがかったように薄れているため確信は持てないが、服装や体付きから判断すると女性で間違いないはずである。その女性はしきりに、どこか楽しそうな様子で声をかけると、炬燵の上にお盆を置いた。
お盆の上には料理――らしきものが載っている。記憶が薄れているからか、これまた霞みがかっているのだ。それでも料理なのだろう、とレウルスは判断する。
『――――』
再び声をかけてくる女性。お盆を置いたあとは配膳を始めたらしく、レウルスの前にもいくつかの皿が置かれた。
夢の中だからか、レウルスの体が勝手に動き出す。僅かに震える手で箸を握ると、途切れ途切れの視界の中で料理を食べ始めた。女性はそんなレウルスを嬉しそうに見ているらしく、何度も何度も言葉を投げかけてくる。
『――――?』
『――――』
『――――!』
何かを聞かれ、何かを答え、何かに喜ぶ。
女性は料理に手をつけず、箸を進めるレウルスのことをじっと見つめているようだった。レウルスはその視線に促されるようにして箸を動かし、口と皿の間を何度も往復させる。
食事を進めるにつれて女性の雰囲気が華やぎ、嬉しそうな気配が強まっていく。夢の中のレウルスは機械的に料理を片付けていく己の行動に首を傾げたが、女性が笑っているのだからそれで良いと思えた。
ニコニコと笑う女性は前世で付き合っていた彼女――だった気がする。
もう少し関係を深め、同棲していた――ような気もする。
あるいは既に結婚をしていた――そこまでは進んでいなかった気がした。
そこまで考えた時、レウルスの視界が暗転した。そして僅かな間を置いて再び現れた風景は、先ほどまでいた部屋である。ただし、先ほどと比べてあちらこちらに小物が増えており、生活感が増しているように思われた。
『――――!!』
『――――』
そんな部屋の中で、怒号に近い声が響く。先程まで柔和に微笑み、料理を振る舞ってくれていた女性が険しい声色で何かを糾弾しているようだ。レウルスはそんな女性の声に疲れたように、感情が抜け落ちた顔で答えている。
『――――!』
最後に何か言い放ち、女性は足音も荒く部屋から出て行ってしまった。その背中を見ていたレウルスは深々とため息を吐き、相変わらず疲れた様子で座り込む。
それは、一つのカップルの破局の瞬間だ。女性の私物が増え、コタツの上に置かれた鏡が物悲しく電灯の光を反射している。
その光景を見ていたレウルスは、茫洋とした思考の中で呟く。
――なんで別れたんだっけ?
そんな疑問を抱くレウルスを、幽鬼のようにやせ細ったかつての己が鏡越しに見詰めていた。
コンコン、という控えめなノックの音でレウルスは目を覚ました。瞼を上げてみれば、小さな通風孔から朝日が差し込んでいるのが確認できる。
「レウルスさん? 朝ですよ?」
「ああ、はい、起きた、今起きた」
聞こえてきたのはコロナの声だ。そのやり取りで“現実”に引き戻されたレウルスは欠伸を噛み殺し、一晩の寝床となったベッドもどきから起き上がる。
レウルスが眠っていた場所は、ドミニクの料理店の中にある物置だ。三畳もない狭苦しさを感じる場所だったが、木箱を並べて藁を盛って寝転がり、布を一枚羽織るだけで眠りの世界に旅立ったレウルスだった。
角兎との死闘で知らず知らずの内に疲弊していたのだろう。昨日はコロナから手当てを受け、食事を食べた後は物置に案内されるなりそのまま眠ってしまったのである。
角兎との戦いもそうだが、長年積み重なった疲労は中々抜け切らないらしい。寝ようと思えば即座に寝ることができ、十二時間以上も眠り続けていたのだから。
「おはようございます、レウルスさん」
「おはよう、コロナちゃん」
軽く身支度をしてから物置の扉を開けると、水が入った木の桶を抱えたコロナがおさげを揺らしながら微笑んで挨拶をしてくる。レウルスも挨拶を返すと、コロナは木の桶を差し出した。
「良ければどうぞ。顔を洗うとすっきりしますよ?」
水が入っているといっても、ほんの僅かである。しかし顔を洗うだけならば十分に足りる量であり、至れり尽くせりだと思いながらレウルスは木の桶を受け取った。
「やや、これは申し訳ない。それじゃあありがたく……」
木の桶を受け取ると、レウルスは店の裏口から外に出る。そして顔を水で洗うと、木の桶と一緒に渡された布で顔を拭いた。
(……昨日までの生活とは雲泥の差だな)
木の桶に僅かに残った水。その水に反射して薄っすらと自分の顔が映っているが、痩せてはいても目に生気がある。二日連続でまともな食事と睡眠を摂ることができたからか、角兎との戦いが嘘だったように体の調子が良かった。
己の左肩に触れてみると、傷が浅かったのかコロナの手当てが良かったのか、既に傷の痛みを感じない。貼られていた湿布を外してみるとカサブタで覆われ、傷も治りつつあるようだった。
レウルスはここ十五年で見慣れた己の顔を指でなぞってみる。しっかりと鏡で見たことがあるわけではないが、水に映る顔は前世の自分と似ても似つかない。
余計な脂肪が一切ついていない、幽鬼さながらという点で変わりがないのが笑えなかったが。
苦笑を一つ零してレウルスは料理店へと戻る。今日はドミニクが何かしら用があるらしく、その準備をするのだ。
簡素ながらもシェナ村にいた頃とは比べ物にならない朝食を胃に収め、食器の片づけを手伝ってからドミニクに視線を向ける。
「それでドミニクさん、俺は一体何をすれば……」
「……ついてこい。コロナ、しばらく店を任せる」
ドミニクはレウルスの言葉に小さく頷くと、料理店の開店準備をコロナに任せた。本格的な料理を任せるには至らないが、野菜の下処理などは十分に任せられる腕を持つのである。コロナはそんなドミニクの言葉に微笑むと、レウルスに視線を向けた。
「任せてお父さん。レウルスさんも、いってらっしゃい」
「あー、えーっと……いってきます」
それがこの世界で初めて口にした、『いってきます』の一言だった。
ドミニクに連れられ、レウルスはラヴァル廃棄街の中央通りを歩いていく。日が昇って住民たちも出歩いており、ドミニクを見るなり声がかけられた。
「こんにちはおやっさん! 仕入れですか?」
「ドミニクの旦那ぁ! 今日は夜行きますからね! 美味い料理を楽しみにしてますよ!」
声をかけてくるのは一人や二人ではない。ドミニクの顔を見たほとんどの者が気さくに声をかけ、ドミニクは『ああ』や『おう』と短く答えている。
「ドミニクさん、顔が広いんですね」
「……この町で長く生きてればこうなる」
何の含みもなく純粋な驚きから尋ねたレウルスだったが、ドミニクは何故か視線を逸らしてしまった。長く生きていればというが、ドミニクは四十歳にもなっていないだろう。
(いや、元の世界とは違うんだし、四十歳は十分長生きの範疇なのか……)
レウルスが前世で生きた日本では、平均寿命が八十歳近くまで延びていた。食糧事情や医療技術、衛生観念で劣るこの世界の者達と比べるのは間違っている。
「そんなもんですか」
「そんなもんだ」
短いやり取りを交わすに留め、レウルスはドミニクが歩く先へ視線を向けた。
ラヴァル廃棄街の中をきちんと歩くのは初めてだが、廃棄街と名前がついている割に活気があるように思える。住宅もそうだが、何かしらの商品を取り扱っている店もちらほら見かけることができた。
「……ここだ」
そうやって歩くことしばし。ドミニクが足を止めたためレウルスも同じように足を止める。ドミニクの料理店から徒歩十分程度だが、どうやら目的地に着いたらしい。
「ここ……ですか」
ドミニクが足を止めたのは、周囲の建物と比べて一際大きな建物の前である。ドミニクの料理店もラヴァル廃棄街の中では大きい建物だったが、眼前の建物はその倍近い大きさがあった。
外から見た限り、石と木で頑丈に造られた二階建ての建物としか思えない。正面には両開きの扉が設置され、扉越しに僅かとはいえ人の声が聞こえてくる。窓がガラス製ではなく木の板で作られているため、音が漏れやすいのだろう。
――気のせいでなければ、金属や硬質な物が擦れ合う音も聞こえる。
野太い笑い声や金属の擦過音に構わず、ドミニクは扉を開けて進んでいく。レウルスはここまで来て引き返すわけにもいかないと覚悟を決め、その後ろに続いた。
入口を潜って最初に感じたのは、複数の視線。建物の中は25メートルプールを少しばかり大きくした程度の広さがあり、木製の椅子やテーブルがいくつも並んでいる。
それらの椅子に行儀悪く腰かけている男女が十人近くいたが、その内の数人から視線が向けられていた。最初にドミニクを見やり、続いて後ろに続くレウルスにまで視線が注がれたのである。
「ドミニクさんじゃないですか。こっちに来るなんて珍しいですね」
「コロナの嬢ちゃんは元気ですかい?」
そんな声をかけてくる者達が身に付けているのは、革鎧や部分的な金属鎧、剣や槍や斧といった金属製の武器だ。これらの擦れる音がレウルスの耳にも届いていたようだが、武装した上で暴力に慣れた気配が漂う彼ら、あるいは彼女らからの視線は居心地が悪い。
ここでもドミニクの顔は知られているらしく、年齢性別を問わず声をかけられている。ドミニクはそれらの声に簡単に答えると、レウルスに視線を向けてから建物の奥へと進み始めた。
椅子やテーブルがある場所を病院の待合所とでも例えるならば、ドミニクが向かったのは受付だろう。頑丈そうな木で作られたカウンターが二つ並んでおり、その内の一つへと歩を進めていく。
受付には一人の女性が座っており、近づいてくるドミニクとレウルスに対して等分に視線を注いでいた。
その女性の年齢は外見だけで判断するならば二十代半ばといったところだろう。少しばかり癖のある紫色の髪を腰まで伸ばし、髪とよく似た紫色の瞳がドミニクへと向けられている。
服装はこの世界に生まれて初めて見る黒のワンピースだが、胸元が大きく開いている上に太もも部分にはスリットが入っている。襟周りにはフリルのような装飾が施されており、“遊び”が随所に見受けられた。
(ううむ……なんか妙にエロい女性だな)
服装もそうだが、スタイルも目を惹く。大きく開いた胸元から見えるのは巨大としか形容できない双丘であり、腰回りも中々に肉感的だ。
それでいてウエストは細く、顔立ちも年齢相応の落ち着きと平均を遥かに超えるであろう美貌、さらには蠱惑的な魅力が混ざり合った不思議な雰囲気の美女である。自身が吸うのかそれともただの手慰みか、煙管をクルクルと指先で回しているのが印象的だった。
前世においてテレビなどで多くの美人を見てきたレウルスから見ても、非常に印象が強い美女である。ただし、ただの美女と評するには何かが引っかかった。世慣れた風情もそうだが、それ以上に“女性”としての色香が漂っているように思えたのである。
切れ長の目はどこか眠たげに細められ、右目の下に見える泣きぼくろが女性の印象を複雑にぼかす。非常に目が惹かれる美人ではあるのだが、レウルスからすれば一歩引いてしまいたくなる美貌だった。
「久しぶりだな、ナタリア」
「ええ、一別以来ね。貴方がここまで来るのは珍しい……もっと来てちょうだいな。寂しい限りだわ」
「はっ、言ってろ」
そんな女性――ナタリアにドミニクが声をかける。ドミニクもナタリアも互いに顔見知りかそれ以上の関係らしく、かける声にも応える声にも遠慮が感じられない。
「そちらの坊やは?」
ナタリアの視線がドミニクから外れ、レウルスへと向けられた。流し見るように横目を向けられたが、所作の一つ一つに華が感じられる。
「名前はレウルス。トニーと俺の“推薦”だ」
ドミニクの話を聞いていたのだろう。先程までドミニクに挨拶をしていた者達から僅かにざわめくような声が聞こえた。
「まあ……それはそれは」
ナタリアは回していた煙管を止め、少しだけ見開いた目をレウルスへ向ける。
「その坊や、腕は立つのかしら?」
「さて、な……ただ、石でイーペルを殴り殺して持ってきた。少なくとも肝は据わってるだろうよ。それに……」
「それに?」
イーペルというのは例の角兎のことだろうか。そんな疑問から首を傾げるレウルスだったが、そんなレウルスを他所にドミニクとナタリアの話は進んでいく。
「恩と義理を知っている。それだけ知っていればこの町じゃあ上等だろう」
「あら……それは素敵なことね」
獣のように獰猛に笑うドミニクと、艶然と頷くナタリア。
「ちょっ、ドミニクさん? 話が見えないんですが……」
さすがに事態を放置できず、レウルスは説明を求めるためにドミニクの隣に並んだ。ついでに周囲の視線が痛いのだ。半分ぐらいは視線を引き受けてほしかった。
だが、そんなレウルスを他所に、ナタリアは笑みを浮かべて言う。
「――『冒険者組合』へようこそ。歓迎するわよ、坊や?」