第84話:火龍 その1
「…………」
“その生き物”を見た時、レウルスにできたことは絶句することだけだった。
山際から顔を覗かせた太陽によって照らされるヴェオス火山。その麓にして火の精霊の『祭壇』が築かれた平地にて、レウルスは火龍と思わしき生き物と遭遇していた。
頭上を舞うは、優に30メートルを超えるであろう巨体。炎のように真っ赤な鱗で覆われたその体は、トカゲを赤くして巨大化させ、体格に見合った翼をつけたような見た目である。
ただし、トカゲなどとは比べ物にならない。魔力を隠しているのか接近に気付けなかったレウルスだが、頭上の生き物が火龍でないならばどんな生き物が火龍に該当するというのか。
ドラゴンと聞けば多くの人間が想像するような、トカゲを巨大化させたその姿。それを実際に目の当たりにしたレウルスは、思考する余裕すら消え失せた。
巨大な胴体につながっている前脚と後ろ脚はこれまた巨大で、丸太どころか巨木がぶら下がっているようなものだ。
特に、大人二人で抱きかかえることができるかどうかという太さの前脚は、鱗だけでなく頑強な爪も生えている。笑えない話だったが、火龍の手だけでレウルスの体と同じぐらいの大きさがあった。
(これが……上級……)
魔力は感じない――が、威圧感が凄まじい。
中級上位に分類される翼竜も大きかったが、目の前の火龍は桁が違う。まるで小さな山が空を飛んでいるようなものであり、人間など容易く踏み潰されるだろう。
レウルスがこれまで命懸けで倒してきた魔物と比べても、生き物として“ステージ”が違うのだ。
キマイラとて、一撃で叩き潰されるだろう。レウルスが倒したヒクイドリが持つ戦闘経験も、この火龍の前では何の役にも立たないに違いない。
その威風溢れる姿を見ただけで、それが理解できた。一度も刃を交えずとも、目の前の存在が天災に等しいのだと理解できた。
「レウルスさん? っ!?」
レウルスの後を追って『祭壇』から出てきたジルバも、火龍に気付いて息を飲む。火龍は地上から50メートルほどの位置で巨大な翼を羽ばたかせ、睥睨するようにして見下ろしてくるのだ。その迫力は尋常ではない。
「不覚、ですね……まさかここまで接近されるまで気付かないとは……」
「俺も魔力を感じ取れなくて……逃げられますかね?」
エリザを抱きかかえて走るとしても、この場から逃げ切ることは可能か。結果は予想できたが一応尋ねるレウルスに対し、ジルバは首を振ることすらせずに否定する。
「無理でしょう……二手に別れて逃げても、上級の火炎魔法を撃たれればそれで終わりです」
「ジルバさんの『無効化』は?」
「黒焦げが生焼けになるぐらいの違いしかないでしょうね……」
今までサラのことで対立していたことなど忘れたように、レウルスとジルバは作戦を検討し合う。
そうこうしている内に、火龍はその巨大な口を開いた。
『人間よ……火の精霊はどこだ?』
(おいおい……普通に喋れるのかよ)
上級の魔物は高い知性があると聞いていたが、ごく自然と語りかけてきた火龍にレウルスは戦慄する。
長い年月生きてきたということは、それだけ“経験”を積んでいるということだ。レウルス達が立てる作戦など、易々と見破ることだろう。
「ちょっとレウルス? 早くわたしをここから……げっ」
「なっ……か、火龍!?」
レウルスとジルバの様子がおかしいことに気付いたのか、エリザとサラが近寄ってくる。そして火龍の姿に気付いたエリザは驚愕を、サラは心底から嫌そうな表情を浮かべた。
火龍はレウルス達を気に留めず、その視線をサラへと移す。
『無事顕現できたようだな。めでたきことだ……まずは言祝ぐとしよう』
「……ありがと」
火龍とサラは知り合いなのか、言葉を交わし合う。ただしサラは不機嫌そうで、不満顔を崩さなかった。
『力の程は……ふむ、思ったよりも悪くない。周囲の魔力を根こそぎ吸い上げたか』
「その辺は全然わかんないわ。でもまあ、アンタがそう言うのならそうなんでしょうね」
『周辺の魔物が相手ならば不足はなかろうよ。まだまだ吹けば消えるような火種に過ぎんがな』
「全然弱いじゃないの!」
思ったよりも気安い仲なのか、サラが噛みつくように吠えても火龍が怒り出すことはなかった。
(これはチャンス……か?)
火龍がサラと話している間にこの場から離脱するべきだろう。火龍もサラ以外には興味がなさそうで、今ならば逃げられそうだ。ついてくると言っていたが、『熱量解放』を使って全力で駆ければサラも追いつくことはできないと思われた。
そう考えたレウルスはエリザにアイコンタクトを送る。それと同時に少しずつ、ゆっくりと体勢を変えて駆け出しやすいよう前傾姿勢を取る。
できるならば、ジルバにも逃げてほしい。そうは思うがサラがこの場に残ればジルバはどうするか。
一応ジルバにも視線を向けるレウルスだったが、ジルバはレウルスの行動を咎めはしなかった。火龍の姿を見て、仕方がないと言わんばかりにため息を吐くばかりである。
火龍がサラに危害を加える様子がないというのも、ジルバの決断を後押ししているのだろう。もしも火龍がサラを害するつもりならば、この場に残って徹底抗戦の構えを見せたはずだ。
(安全に逃げ出すことだけを考えるなら、サラを盾にして……いや、下手すりゃ火龍が怒るか)
サラが一方的に結んできた『契約』については、最早どうしようもない。今はこの場から脱することだけが重要なのだ。
そう思い、レウルスは『熱量解放』を発動する。
『――動くな』
「っ!?」
その直前で、火龍が声をかけてきた。それと同時に隠していたと思わしき魔力が解放され、周囲を圧し潰すように重厚な魔力が降り注ぐ。
(……や、べぇ……これは……本気で、やばい……)
火龍の魔力を感じ取ったレウルスは、悪寒がどうこういうよりも先に感覚が消え去った。正確に言えば魔力を感じ取る“機能”が麻痺したらしく、駆け出そうとした足が凍り付いたように動かなくなる。
一体どれほどの魔力を持てばこうなるのか、レウルスにはわからない。キマイラやヒクイドリが数十体同時に襲ってくれば釣り合うのかと疑問に思うほど、火龍の魔力は膨大だった。
『この一帯は余すことなく我の庭よ。人間よ、もう一度だけ言おう……逃げるな。逃げれば殺す』
「っ……殺されるのは、お断りだな」
恐怖が限界を振り切ったのか、一周回って冷静になる。レウルスは一度だけ深呼吸をすると、頭上の火龍へと視線を向けた。
「勝手に縄張りに入ったことは謝罪します。こちらにはあなたと敵対する意思はありません」
そもそも、“敵”になれるのかすらもわからない。逃げることすら不可能な圧倒的強者を前にしたレウルスは、対話によってこの場から脱することができないかと模索する。
「俺は冒険者のレウルスです。中級の魔物が増えてこの近くの町……マダロ廃棄街が襲われているため、その解決を依頼されました」
『“それ”は知っている。人間よ、お前が我の庭で魔物を狩っているのは見ていた』
その返答に、レウルスは思わず沈黙した。どうやら時折感じていた視線は火龍によるものだったらしい。
どれほど遠くから見ていたのかはわからないが、莫大な魔力を持ちながらも数十メートルの距離で魔力を感じ取れないほど巧みに隠せるのだ。
敵意もなく観察するような視線だけ感じ取れたのは、火龍にとってレウルスなど敵に値しないということなのだろう。それ故に、ただ見ていたのだ。
「お初にお目にかかります。私は精霊教徒のジルバと申します。不躾に貴殿の領域に足を踏み入れたこと、謝罪いたします」
このまま話していると火龍からどんな言葉が飛び出してくるかわからず、ジルバが会話に割って入った。右手を胸に当てながら恭しく一礼すると、火龍の気配が僅かに変わる。
『ほう……この山で精霊教徒を見たのは一体いつ以来か。わざわざ我の庭を抜けてきたのだ。『祭壇』へ参りにきたのか?』
「いえ、私もレウルスさんと同じ用件でして。この『祭壇』を見つけることができたのは、ただの偶然でございます。しかしながら、叶うならば今後も折を見て祈りを捧げにきたいと思いますが……」
にこやかに笑顔を浮かべて答えるジルバだが、その頬には一筋の冷や汗が伝っていた。いくらジルバといえど、火龍の放つ魔力に緊張を強いられているのだ。
『約定により、我もその『祭壇』には手を出さん。我の方が“新参者”故にな。我の庭を抜けてこれるのならば、止めはすまい』
(……なんだ? 意外と話せるタイプ……か?)
最初に逃げようと思ったレウルスだったが、感覚が麻痺するほどに強烈な威圧感を除けば話が通じないわけではないようだ。
レウルスは抱きかかえようとしていたエリザの背中を軽く叩く。一人だけ名乗らずにいては、火龍の不興を買うかもしれないのだ。
「わ、わたしはエリザ……です。レウルスと一緒に、魔物退治に来ました……」
火龍を前にしては、普段の口調で話すわけにもいかないのだろう。エリザは体の震えを必死に堪えつつ、目に涙を浮かべながら自己紹介をした。
『む? 精霊……では、ないな。かといって人間というわけでもない……仄かに香る血の匂いから察するに吸血種か。珍しいことだ』
エリザの自己紹介を聞くと、何か思うところがあるのか火龍の声色が少しだけ柔らかくなる。
自己紹介と縄張りに足を踏み入れた謝罪をして、あとはサヨナラというわけにはいかないだろうか。レウルスが頭の片隅でそんなことを考えていると、話から追い出されたサラが不満そうな声を上げた。
「ちょっとちょっと! なによその態度! わたしにはあんなに冷たかったのに、なんでコイツにはそんなに腰が低いわけ!? 気に入らないんですけど!?」
――頼むから黙ってろ!
そんな思いを乗せてレウルスがサラを睨むと、サラは途端に涙目になる。
「な、なによぅ……こ、怖くなんてないんだからねっ!? わたしはもうアレよ、すごく、すっごーく強いんだからね!?」
そう言ってファイティングポーズを取るサラだが、レウルスとしては口を閉ざして回れ右をして、『祭壇』に戻ってそのまま空気中に溶けてくれとしか思えなかった。
周辺の魔力を集めたと思いきや実体化したのである。逆に魔力を拡散すればそのまま消えるのではないだろうか。
火龍はサラの言葉を聞くと、興味を持ったようにレウルスに視線を向ける。それと同時に威圧感も減り、声色にも好意的な響きが宿った。
『なるほど、魔力のつながりが感じられるな……レウルスと言ったか。お前がその精霊と『契約』を結んだのだな』
「いえ、一方的に結ばされただけです。俺は何も話を聞いてませんし、『契約』を結ぶことは承諾していません。今すぐ解除してほしいです」
間違っても同意して『契約』を結んだわけではない。その点に関してはきっちりと否定するレウルスだった。
「なんでそこまで嫌がるのよ! わたしは火の精霊よ!? すごいのよ? 強いのよ? 『契約』結んでいたらすっごくお得なのよ?」
「そんな下手糞な煽り文句に騙されると思ってんのか……グレイゴ教徒に狙われるから嫌だって言ってんだよ!」
街頭のキャッチセールスでももう少しまともな煽り文句を使うだろう。断固として拒否の姿勢を示すレウルスに対し、サラは涙を浮かべながら唇を尖らせる。
「敵ならわたしが倒してあげるわよ! アンタはわたしをこの山から連れ出してくれればそれでいいの! あとは美味しいものを食べさせてくれたり、魔力を分けてくれたり、甘やかしてくれればそれだけでいいから!」
「寝言は寝て言え」
「うがああああぁぁっ! いいから連れて行ってよ! お願いよ! なんでもするからあああああぁぁっ!」
レウルスが冷たく言い放つと、サラは泣きながら両手を振り回して突撃してくる。レウルスはそんなサラの頭を左手だけで押さえ込み、ため息を吐いた。
「火龍さん……火龍様? あなたからも『契約』を解除するよう言ってくれませんか? 一方的に結ばれたからか、俺の意思だけじゃどうにもならないみたいなんです」
こうなったらサラと面識があると思わしき火龍に頼るしかない。そう思ってレウルスが頼み込むと、火龍は数秒沈黙してから言葉を発した。
『火の精霊と『契約』していれば、人間の社会の中でも相当に評価されよう。そこのジルバと言ったか……精霊教を信奉する者からも崇められ、不自由のない生活を送れるはずだが?』
「え? 嫌だよそんなの、気持ち悪い」
火龍の話を聞いたレウルスは、敬語を放り捨てて素で答えてしまった。
『気持ち悪い……だと?』
(しまった……)
思ったよりも話が通じるからか、本心が出てしまった。レウルスはどう言い繕うか迷ったが、ため息を吐いてから肩を竦める。
「危険も多いですけど、今の冒険者暮らしが気に入っているんです。そこに火の精霊だなんだって話が加わったら、面倒しか招かないでしょうよ」
冒険者として過ごし、ローンを組んだが家を建てることもできたのだ。今更豪勢な生活を送るというのもピンとこない。
『だが、そこの吸血種とも『契約』を結んでいるのだろう? 厄介事が降りかかるぞ?』
どうやってエリザとの間に『契約』が結ばれていると見抜いたのか、と疑問に思うレウルスである。おそらくは魔力のつながりを感じ取ったのだろうが、その点だけでも火龍が魔力の扱いに長けていることが察せられた。
「こいつは俺の“家族”ですから。厄介事だろうがなんだろうが、まとめて背負いますよ」
『火の精霊はそうではないと?』
「出会って一時間も経ってない相手を身内だと思うのは無理です。一方的に『契約』を結ばれたんで、なおさら無理です」
ここで本音を隠しても見抜かれそうだ。そう判断したレウルスが素直に答えると、火龍はサラに視線を向ける。
『だそうだぞ、火の精霊よ。『契約』を解除して他の相手を探すべきだろう』
「いやよっ! わたしはレウルスがいいのっ!」
そう言って抱き着いてこようとするサラを、体捌きだけで避けるレウルス。サラはそのまま石に躓き、地面へと転ぶ。
「ふぎゃっ!? な、なんで避けるのよ!」
「むしろなんで抱き着こうとしたんだ?」
心底不思議そうに尋ねるレウルス。何故避けられないと思ったのか、それがわからなかった。
『……ふむ、私利私欲にて『祭壇』に近づいたわけではないか』
そんなレウルスとサラのやり取りを見ていた火龍が、何事かを呟いた。それはあまりにも小さい呟きだったためレウルスは聞き逃す。
『火の精霊よ。どうしてもその人間が良いのだな?』
「ええ! こんなへんてこな魔力の持ち主、逃したら二度と会えないわ! わたしはレウルスについていくの!」
『そうか……他の者と『契約』を結び直すつもりは?』
「ないわっ!」
断言するサラだが、レウルスは急激に嫌な予感が膨らむのを感じた。それが何故かと疑問に思っていると、それまで頭上にいた火龍が地面へと降り立つ。
『では仕方がない……火の精霊が『契約』を解除しないというなら、契約者を“どうにかする”ほかあるまいよ』
「……は?」
それまで火龍とサラのやり取りを聞いていたレウルスは、火龍の言葉が理解できなかった。
『妙な魔力を持っていることは我も認めよう。だが、我は人間と火の精霊を比べるならば、火の精霊を優先する』
そう言いつつ、火龍の魔力が高まり始める。火龍の中でどんな帰結があったのかわからないが、レウルスは肌が震えるほどの威圧感を感じ取った。
『必要以上に人の世界に干渉するのは御法度だが、今回は貴様らの方から我の庭に足を踏み入れたのだ。殺しても“文句”は言われんだろう』
地面に降り立った火龍は、首をもたげてレウルスを睥睨する。
『我は火龍ヴァーニル。人間よ、精霊の契約者足る“価値”を示すが良い』
あまりにも唐突かつ理不尽に、火龍――ヴァーニルとの戦いの幕が上がった。
Q.対話は可能?
A.気のせいだったようです。
どうも、作者の池崎数也です。
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それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。