第82話:祭壇 その3
ヴェオス火山の麓、火龍の縄張りに建つ火の精霊の『祭壇』。
火龍の縄張りの中ということもあり、他の魔物も寄り付かないその場所でレウルスは眠りについていた。
もちろん、眠るといっても用心は欠かせない。床に寝そべることはなく、火の精霊を模したと思わしき石像の傍で、石造りの柱に背を預けて眠るのだ。
装備を着込み、大剣はすぐに振るえるよう抜き身のままで床に置いてある。右手は大剣の柄に添えたままであり、仮に魔物が襲ってきても即座に迎撃できるだろう。
『祭壇』の中で焚火をするのはジルバに止められたため、蝋燭で明かりを確保している。いくら魔物が寄ってこないといっても油断はできず、今はジルバが起きて蝋燭が消えないよう火の番をしていた。
当然ではあるが、熟睡などできるはずもない。この場で熟睡している者がいるとすれば、レウルスの太ももを枕にして眠るエリザぐらいである。
いくらレウルスが図太くとも、防備が整った場所以外で完全に眠ることはできない。柱に背中を預けているため多少は楽だが、硬い石の床の上に座った状態で熟睡することなどできはしないのだ。
――故に、“それ”は夢か現か幻か。
『……ねえ……ねえってば』
浅い眠りについていたレウルスの脳裏に届く、何者かの声。その声を認識した瞬間、レウルスは飛び起きて問答無用で大剣を叩きつけようとする――が、意識に反して体は全く動いていなかった。
体は眠っているというのに、意識だけ目が覚めたような感覚。周囲を見回しても視界は真っ暗で、ジルバが用意したはずの蝋燭の明かりも見えない。
ただ、何も見えないというのに妙に気温が高く感じられた。夏場とはいえ石造りの『祭壇』の中は涼しく、日が落ちてそれは顕著だというのに、まるで火で炙られているように熱い。
『……なんだこれ』
思わず心中で呟くが、その声はしっかりと自分の耳に届いた。
夢にしては明瞭で、現実にしてはあやふやで、幻にしては実感がある。意識だけ浮遊しているような、曖昧模糊な状態だった。
『もしかして俺……死んだ?』
一度死んだことがあるからか、レウルスが最初に思い至った結論は己の死である。さすがに死んだ直後のことは覚えていないが、あまりにも曖昧な状態で自分が死んだのかと思ったのだ。
『あの温泉がまずかったのか? 毒ガスで死んだ? というか、俺が死ぬぐらい危険な毒ならエリザも……』
毒への耐性があるが、もしかするとその耐性を超えるほどの毒性があったのかもしれない。咄嗟にそんなことを考えるレウルスだったが、その考えを遮るように声が響いた。
『ちょっと! こっちを見なさいよ!』
『ん?』
せっかく建てた新築の家が、ローンが、と落ち込んでいると、何者かの声が飛んでくる。真っ暗な視界の中で一体誰だと思うレウルスだったが、気が付けば眼前に赤い光が存在していた。
『やっと気付いたわね……』
ふよふよと、人魂のように浮遊する赤い光。それを見たレウルスは無言で大剣を探すが、夢の中だからか大剣は見つからなかった。それならばと腰の裏に吊るしている短剣を抜こうとするものの、右手は空を切るばかりである。
『……どちらさんで?』
こうして声をかけてきた以上、敵意はないのだろう。そうは思うものの、突然の事態に警戒は隠せない。
『この五日間、ずっと見てたし、ずーっと声をかけてたのに、なんで無視するのよ!』
直接脳に届いているような、遮りようのない声だった。目の前の赤い光は不満を表すように激しく明滅しており、それに合わせて周囲の気温が上がったように感じられる。
『……いきなりストーキング行為を暴露されても困るんだが』
『すとぉきんぐ? 何かわからないけど馬鹿にされた気がするわね!』
夢の中だからか、心中で思ったこともそのまま言葉になってしまう。そして、レウルスの言葉を聞いた赤い光は怒りを表すように輝きを増す。
『あちっ! なんだコイツ……』
赤い光が輝くなり、周囲の気温が急激に上がって思わず声を上げるレウルス。
よくわからないが、ここ五日間ほどずっと見ていて、なおかつ声もかけていたらしい。それを聞いたレウルスは数秒悩んでから尋ねる。
『あー……たまに視線を感じたけど、アレはお前だったのか……』
『そうよ! ずっと声をかけてたのに、やっとこっちに反応したわね!』
『いや待て、ずっと? それは……』
何かおかしくないか、と尋ねようとしたレウルスだったが、それよりも先に赤い光が激しく明滅した。
『それよりもほら、することがあるでしょう? 早くしてよ!』
『すること?』
急かされる必要があるほど、するべきことがあっただろうか。そう考えてレウルスの思考に浮かんだのは、一つの懸念事項である。
『ローンは無利子無催促のある時払いだぞ? それに、今の依頼が達成できたら完済できるだろ……』
『何の話っ!? 違うわよっ、勿体ぶらないで! こっちは数えきれないぐらい長い間、ずーっと待ってたんだから!』
プンプン、という擬音が似合いそうな口調だった。それと同時に赤い光が何度も瞬くが、レウルスとしては『コイツは何を言っているんだろう?』という困惑しか出てこない。
『あなた、名前は?』
『レウルスだ』
黙っていたいが、思考と直結しているのか即座に返答してしまう。赤い光はレウルスの名前を聞いて輝きを増したかと思うと、その形を蝋燭に灯したような“小さな火”に変えた。
『良い名前ね。うん、どうやってるのか全然わからないけど、その片っ端から魔力を混ぜ込んだような魔力の渦も良いわ!』
『そりゃどうも……喜んでいいのかわかんねぇけど』
ふよふよと浮遊し、レウルスの周囲を飛び回る小さな火種。息を吹きかければ消えてしまいそうな大きさだが、不思議と“力”を感じる火種だった。
ついでに言えば、周囲の気温も上がっている。裸で砂漠にでも投げ出されたような、全身を焦がす熱があった。
『それなら次はあなたの番よ!』
『……何が?』
火種の発言が理解できず、心底からの疑問を込めてレウルスは尋ねる。目の前の火種は一体何を求めているのか。きちんと会話のキャッチボールをしてほしかった。
『あなたの名前を聞いたんだから、やることは一つでしょう!?』
『んん? ああ……そっちの名前は?』
『…………』
名前を聞いたのだから、同じように聞けということなのだろう。そう判断して尋ねるレウルスだったが、火種は沈黙して炎を揺らし、不満そうな雰囲気を発する。
どうやら、レウルスの質問は的を外したらしい。
『……名前、なんだと思う?』
そう言いつつ、自己主張するように火種が少しだけ大きくなる。それを見たレウルスは夢の中で首を傾げた。
『なんだ、クイズか? 火……火……火ねぇ』
何がしたいのかわからないが、答えなければ解放されないようだ。
相手が何者なのかわからないものの、ただの夢ということもなさそうである。あまりにも突然すぎる邂逅だったためレウルスは素直に、思ったことを口にした。
『サラマンダーのサラちゃん?』
多摩川に現れた某アザラシのような、安直な名前を口走る。さすがに人魂やファイヤーといった名前ではないだろうと、一応は配慮した形だった。
『サラ……』
『お、正解か?』
正解したからといって賞金も賞品もないだろうが、この夢から覚めるならばそれでいいとレウルスは思う。あまりにも気温が高すぎて、汗すら即座に蒸発しそうなのだ。
火種は炎を何度も明滅させると、感慨深そうに呟く。
『なるほど……それが“わたし”の名前なのね』
『……ん?』
また何かおかしなことを言い出したぞ。そんな言葉をぶつけようとしたレウルスだったが、火種が続けた言葉を聞いて絶句する。
『――『契約』は成されたわ』
その言葉と同時に、小さな火だった“何か”が急激に燃え上がる。周囲の暗闇を飲み込み、レウルスの意識すらも飲み込むように縦横無尽に炎が駆け巡る。
『なん……だ……?』
骨どころか、魂まで焼き尽くすような熱量。熱いという言葉を吐く暇もなく、レウルスの意識が燃えて消え――。
『レウルスッ!』
それを妨げるように、エリザの声が響いた。
「っ!?」
意識が“焼失”する――その直前にレウルスは目を覚ました。
レウルスは自身の状況を確認し、体が自由に動くことに気付く。それと同時に、全身から大量の汗が流れていることにも気づいた。
「レウルスッ!」
「……エリザ?」
そして、何故か目の前にエリザの顔があった。目に涙を浮かべ、抱き着くようにしてレウルスの名を呼んでいる。
「良かった、目を覚ましましたか……」
近くにはジルバの姿もあり、レウルスを心配そうに見ていた。そんな二人の様子にレウルスは首を傾げる。
「えっと……一体何が……」
「それはこちらが聞きたいところですが……そうも言ってはいられないようです」
そう言ってジルバはレウルスから視線を外し、体ごと向き直って『祭壇』の中央を睨む。そんなジルバに釣られて視線を向けてみると、火の精霊像の頭上に小さな火が出現していた。
それは最初こそ蝋燭に点いた火のように小さかったが、渦を巻きながら徐々に大きさを増していく。それと同時に周囲に熱を放ち始め――レウルスは顔をしかめた。
(これは……魔力、か?)
炎が大きくなるにつれて、魔力も高まりを見せていく。それも周囲から、空気でも吸い込むようにして魔力を集めているのだ。
轟々と音を立てながら巨大化していく炎。その勢いは増す一方で、『祭壇』の中を明るく照らしながら気温を上昇させていく。
「……今なら斬れるな」
レウルスは泣きながら抱き着いているエリザを優しく引き離しつつ、床に置いていた大剣を握って立ち上がる。一体何が出てくるのかわからないが、『熱量解放』を使えば多少距離があっても魔法ごと叩き切れるのだ。
「待ってください! あれは……まさか……」
だが、そんなレウルスをジルバが止める。レウルスと炎の間に立ち、信じ難いものを見たように目を見開いていた。
そうこうしている内に、巨大化していた炎が一気に小さくなる。まるで繭のように炎が丸くなったかと思うと、数秒してから弾けた。
「――ふふっ」
次いで響く、少女のような声。その声に気を引かれたレウルスが見たのは、火の精霊像に降り立つ一人の少女の姿。
長い真紅の髪をなびかせ、炎を纏って降り立つその姿はさながら火の妖精か。髪の色と同じ真紅の瞳を輝かせ、可愛らしくも勝ち気な顔立ちは少女の性格を表しているようだった。
身長はエリザと変わらない程度であり、炎を纏っていて詳しくは窺い知れないが体格も似たようなものである。
(……いや、似すぎじゃないか?)
よくよく見れば、顔立ちもエリザに似ている気がした。髪と瞳の色、目つきなどが違うため別人だとわかるが、全体的な“パーツ”はエリザに似ている。双子とまでは言わないが、姉妹と言われれば納得できそうなぐらいだ。
少女は火の精霊像の頭上に降り立つと、レウルスをじっと見る。何かを期待するように、じっと見つめる。
「…………」
少女の視線を受けたレウルスは、無言で大剣を構えた。一体何なのか理解できないが、少女からは強い魔力と“熱”が放たれている。仮に身に纏っている炎で攻撃してくるならば、炎ごと斬り伏せようと思った。
「おお……まさか……まさか!」
そんなレウルスと少女の間に立っていたジルバは、全身を震わせながら歓喜の声を漏らす。レウルスが大剣を構えたことに気付かないほど少女に注目しているらしく、体と同様に声も震えていた。
「貴女様は……火の精霊様では!?」
ピクリ、と少女の眉が動く。そしてジルバに視線を向けるが、少女の顔付きはどこか嫌そうに歪んでいた。
「火の……精霊……」
レウルスが優しく引き離したエリザは、少女を見て困惑したように呟く。ジルバの発言もそうだが、少女が自分に似ていると感じたのだろう。
「あのねぇ……」
ジルバとエリザの言葉を聞き、少女が声を漏らす。それは最初に零した笑い声ではなく、不快さを滲ませた声だった。
「わたしには名前があるのっ! “火の精霊”なんて名前じゃない、レウルスがつけてくれた名前がね!」
胸を張ってそう叫ぶ少女。それを聞いたエリザとジルバが振り返るが、レウルスは無言のままである。無言のまま、大剣を構えていた。
「わたしはサラ! レウルスと『契約』を結んだ火の精霊、サラよ!」
そう言うなり少女――サラは火の精霊像から飛び降りる。そしてレウルスの眼前に立つと、微笑みながら手を伸ばす。
「これでわたしも自分の意思で、自分の足でこの山を出ていけるわ! さあ、一緒に旅に出るわよレウルス! お供しなさい!」
「――断る」
冷たく返答したレウルスに、サラの笑顔は凍り付くのだった。