第81話:祭壇 その2
温泉と思わしきものを発見したレウルスだったが、最初にやったことはジルバへの報告である。
この『祭壇』が精霊教徒の建てたものならば、精霊教徒であるジルバに聞くのが一番だと思ったのだ。文献で読んだだけとは言っていたが、何も情報がないレウルスよりも遥かにマシな判断が下せるはずである。
それでなくとも、ジルバはマタロイの各地を旅しただけでなく、他国にも足を踏み入れたことがあるのだ。温泉についても何か知っている可能性があった。
慌てて呼びに来たレウルスにより、火の精霊像への祈りを邪魔された形になったジルバ。しかし彼は嫌な顔一つ見せず、むしろ『温かい水がたくさん溜まっている』と聞くなり表情を引き締め、温泉がある部屋へと駆けつけていた。
「ほう……ふむ、これは……」
ジルバは目を凝らして薄い乳白色の温泉の中を覗き込み、何やら唸っている。温泉は今も自噴しているのか石造りの浴槽から湯が溢れ、床に掘られた溝を伝って部屋の隅に設けられた穴へと向かう。
火龍の縄張りに足を踏み入れた緊張感で臭いに気付かなかったが、溢れ出た温泉の湯は『祭壇』の外に流れていたようだ。
利用されなくなって最低でも数百年以上経っているのだろうが、今もこうして原型を保っている辺り、かなり頑強に浴室を造ったのだと思われる。
「どうですか?」
「湯に手を入れてみましたが、少々熱いだけで問題なく入れるでしょう。元々はこの『祭壇』で生活していた方々の入浴施設だったんでしょうね」
そう言って温泉から引き抜いた手を布で拭くジルバ。その返答にレウルスは内心で歓喜の声を上げる。
(よしっ! この世界で初めての風呂だ!)
元日本人としては、風呂に入れるというのはそれだけで重要なことだろう。
レウルスが知る限り、“この世界”では湯を張った風呂というのは非常に貴重かつ贅沢なものである。ラヴァル廃棄街にある風呂屋はサウナ風呂でしかなく、蒸気で満たされた小さな部屋で汗を流し、そのあとに水で体を洗う程度のものだ。
それでも贅沢な部類で、入浴料は一回当たり大銅貨3枚で30ユラ。日本円で考えると3000円近い金額である。
それ以外では水に浸した布で体を拭くか、川で水浴びするぐらいが精々だった。ラヴァルやマダロといった城塞都市の中では話も違うのかもしれないが、レウルスの予測ではラヴァル廃棄街と大差はないだろうと思っている。
「このような場で水の塊を見つけたと聞いたので覚悟をしましたが……いや、ただのお湯で良かった」
しかし、温泉に感動しているレウルスを他所に、ジルバが何やら物騒なことを口にする。
「覚悟? 温泉……っと、お湯に何かあるんですか?」
レウルスが知らないだけでも、もしかするとこの世界の人間は温かいお湯に入ったら死んでしまうのだろうか。そんな馬鹿なことを考えたが、ジルバは眉を寄せて渋い顔をしている。
「レウルスさんが魔力を感じ取らなかったというので安心はしていましたが、スライムがいる可能性もあるので」
「スライム……ですか?」
スライム――それはレウルスとしても聞き覚えのある言葉だった。
平成の日本でテレビゲームをしたことがあるならば、一度は聞いたことがあるはずである。特に、とある国民的RPGではそのタイトルに反してゲームの“顔”とも言える存在だろう。
(滅茶苦茶弱くて序盤の経験値稼ぎの相手だったような……いや、ゲームによって違うんだっけ? あと、外国のスライムは違うって話を聞いたような……)
額に手を当てて記憶を探るが、ジルバが覚悟を決めるほど強力な相手だっただろうか、と疑問に思う。
「『国喰らい』……そうあだ名される魔物ですよ」
「……え?」
青くて丸くて一部が角っぽい、大きな口がチャーミングな存在ではないのか。レウルスが軽く混乱していると、ジルバは温泉をじっと見つめながら話を続ける。
「魔物の中でも特に個体差が大きい存在でしてね。生まれたてならば……まあ、中級中位といったところでしょうか。属性魔法がないと倒しにくい相手ですが、属性魔法が使えるなら苦戦することなく倒せるでしょう――生まれたてならば」
生まれたてならば、属性魔法さえあれば容易く倒せる。そう強調するジルバにレウルスの中のスライム像が崩れ始める。
「スライムは獲物を食らってその体を成長させていきます。かつてはスライムの討伐に失敗して滅んだ国もあったそうで……ついたあだ名が『国喰らい』です」
「……そんなに強いんですか?」
「強いというよりも厄介なんです。獲物に飛びついて体に取り込むのですが、この時点でまず助かりません。スライムの体内で溶かされ、すぐに栄養にされます」
ジルバの口調は真剣そのもので、冗談を言っている気配はない。
「体内の『核』を破壊できれば殺せますが、生半可な武器では刃が通りません。多少斬り込めても刃が溶けます。そのため属性魔法で遠距離から仕留めるのが有効で……できれば風魔法か雷魔法が使えると良いですね」
「……個体差が大きいって言いましたけど、中級中位からどれぐらいまで成長するんです?」
話を聞く限り、非常に厄介そうな魔物だ。興味というよりは身の安全のためにレウルスが尋ねると、ジルバは困ったように笑う。
「私が聞いた話では、上級上位まで成長したことがあるそうです」
その返答に、レウルスはおかしくもないのに口の端が吊り上がるのを感じた。
――笑うしかない返答だったのだ。
「先ほど国が滅んだと言いましたが……我々が住むカルデヴァ大陸の南西にあるパラディア中央大陸、その中央付近には巨大な砂漠があるそうです。一説では、スライムに滅ぼされた国がそこにあったそうですが……」
「国が滅んで、木や山もなくなって、砂漠になったと?」
さすがに話を盛り過ぎだろうと思ったレウルスだが、ジルバは無言で頷いた。
「ワシもおばあ様に聞いたことがあるぞ……『国喰らい』のスライム。そうか、あれはパラディア中央大陸の話だったんじゃな……」
それまで話を聞いていたエリザもジルバの話を肯定するように頷く。エリザの祖母は高名な魔法使いだったらしいが、相手が強力な魔物ということもあってそういった話にも詳しかったのだろう。
(スライムって一体……)
そう思うしかないレウルスである。前世の知識はほとんど役に立たないと思っていたが、この情報を知らずにスライムに挑んでいたら死んでいただろう。
「ただし、その発生数は非常に少ないらしいです。十年に一度発見されるかされないかという頻度らしく、私も実物を見たことはないですね」
「……そんな魔物なのに、“ここ”にいるかもしれないと思ったんですか?」
「ええ……スライムは魔力が濃い場所に生まれやすいという話もありましてね。火の精霊様を祀った『祭壇』なら、それもあり得るかと思いまして……」
そう言われて温泉に視線を向けるレウルスだったが、先ほどまで入りたいと思っていた気分が消え失せていることに気付いた。
いないとは思うが、乳白色の湯の中にスライムが潜んでいるかもしれない、などと考えると恐怖が先に立つ。
「希少すぎて私も忘れていましたが、“水溜まりがあったらおかしい場所”に水溜まりがあったら注意してください。レウルスさんの場合は魔力を感じ取れるので、気付かないことはないと思いますが……」
そう締めくくるジルバに、レウルスは無言で頷くのだった。
『祭壇』を見つけたその日の晩。
レウルス達は『祭壇』の中で一晩を明かすことを決定していた。『祭壇』は火龍の縄張りの中にあるため、魔物の襲撃もそれほど心配することはない。
『祭壇』自体が破壊されていないため火龍が襲ってくることもないだろう――とは、ジルバの弁である。
「……結局、温泉の魔力には逆らえないんだよなぁ」
森の中で過ごすよりも安全と聞き、レウルスは温泉に入る決意を固めていた。
日が暮れると『祭壇』の中は真っ暗になるため、壁のあちらこちらにある照明台にジルバが持ち込んだ蝋燭を置き、最低限度ではあるが明かりを確保してある。
レウルスは自分で作った松明片手に浴室へ赴くと、ジルバから譲ってもらった蝋燭に火を移して明かりを確保した。魔物の油脂を材料にして作られた蝋燭らしいが、浴室内を仄かに照らすだけならば十分な光量である。
「で、エリザはどうするんだ?」
蝋燭を照明台に設置したレウルスは、背後に向かって声をかけた。すると、暗がりからエリザが顔を覗かせる。
「この、温泉? とやらは本当に入っても問題ないんじゃな?」
「ないって。ちょっと熱いけど、汚れを落とすにはちょうどいいだろ」
周囲を壁に囲まれて屋根もあり、常に温泉が湧き出て循環していたからか、湯船もそれほど汚れていない。ただし、壁には通気用の穴が開けられているため、完全に密室というわけではなかった。
(……あれ? でも温泉の臭いか何かって有毒じゃなかったっけ……あ、多少の毒なら問題ないか)
臭いで鼻が麻痺しそうだが、レウルスには毒への耐性がある。少量で即死するような猛毒でも死なず、その上でエリザの魔力による『強化』もあるため問題はなかった。
エリザもレウルスとの『契約』によって毒に耐性があるため、有毒ガスなどの影響はない。
「何か問題があっても俺は入るぞ……“生まれて”初めての風呂だ。何があっても入るぞ……」
「お主は時折妙なところで頑固さを発揮するのう……まあ、そこもまた……」
ごにょごにょと言葉を濁すエリザ。レウルスは全ての言葉を聞き逃さなかったが、終盤の言葉は実際に声に出てはいなかったため理解できなかった。
「というわけで、早速」
レウルスは大剣を壁に立てかけ、革鎧などを外す。一応の用心として短剣だけは鞘に納めたままで近くに置くが、それが済めばあとは服を脱ぐだけだ。
「躊躇なさすぎじゃろう!? えっ、ほ、本当に入る……の?」
勢い良く服を脱いでいくレウルスをチラチラと見つつ、エリザが尋ねる。途中で“素”が出ているのは、それだけ驚いているということか。
「だから入るって言ってるだろ? エリザはどうする? 蝋燭が勿体ないし、一緒に入るか?」
元々、今晩は森の中で一晩明かす可能性があったため、最低限ではあるが汗を拭くための布なども持ち込んでいた。さすがに着替えなどはないが、温泉を目の前にして退けるわけもない。
レウルスはさっさと服を脱ぐと、手で掬ってかけ湯をしてから布で体の汚れを落とし、温度を確かめてから温泉に入る。
浴室はそれなりに広く、湯船も四メートル四方の広さがあった。深さは三十センチ程度だが、レウルスとしてはお湯に全身浸かれるのならば文句などない。
「ふぅ……良い湯だ」
少々熱いが、慣れればそれもまた気持ちが良い。温泉から上がった後は水分を補給する必要があるだろうが、今は温泉の気持ち良さを堪能したいレウルスだった。
「う……うううぅぅぅ……」
のんびりとお湯に浸かるレウルスを見てどう思ったのか、エリザが唸るように声を漏らす。そして周囲を見回して室内の暗さ、温泉の乳白色を確認すると、服を脱ぎ始めた。
レウルスと比べて装備が少ないエリザだったが、服を脱ぎ終わるまでにかかった時間はレウルスよりも遥かに長い。その間、レウルスは緩んだ顔で天井を見上げていた。
(あー……やっぱり風呂はいいなぁ……無事にラヴァル廃棄街に戻れたら報酬で家に風呂釜を設置しようかなぁ……でも、そのためには家を改築しないと置く場所がないんだよなぁ……)
水もタダではなく、お湯を沸かすための薪もタダではない。それでも金をかけるだけの価値はあるだろう。
マダロ廃棄街の料理店で食べた“コメ”が大外れだっただけに、風呂だけでも充実させたかった。
「あつっ!? なんじゃこれ! お主よくこんな風呂に入れるなっ!?」
「慣れれば大丈夫だって……あー、良い湯だ……」
レウルスと違い、いきなり湯船に浸かろうとしたエリザが驚きの声を上げる。
今は夏ということもあり、余計に熱く感じるのだろう。エリザにかけ湯をするよう言うと、エリザは恐る恐るといった様子で体にお湯をかけ始める。
エリザはしばらくかけ湯をしてから体を慣らすと、ゆっくりとした動きで湯船に足を入れた。そして肩までお湯に浸かると、ほっと息を吐く。
「熱い……でも、気持ちいい……」
「だろ? 無事“家”に帰れたら今回の報酬で風呂を造るか……」
緩んだ顔で天井を見上げていたレウルスだったが、視線を落としてみると思ったよりも近い場所にエリザがいた。お湯に浸かる前は恥ずかしがっていたが、一度浸かってみると浴室の暗さもあって警戒心がなくなったらしい。
「うむ……そうじゃな。ワシらの家に帰らんとなぁ……」
「まだ十日ぐらいしか経ってないのに、滅茶苦茶長く留守にしてる気がする……」
それもこれも、当初の予定と違って依頼内容に大きな差異があったのが問題だろう。
放置して帰れば大量の人死にが出る――それ自体は仕方のないことと割り切れただろうが、家のローンが払えないのは大問題だ。
無論、今ではマダロ廃棄街の面々とも多少なり友誼を交わしたため、彼らが死ぬのは寝覚めが悪い。命を救ってくれたジルバへの恩返しのためにも、放置して逃げ帰るわけにはいかない。
「早く帰って、ドミニクさんの料理が食べたいのう……」
「塩スープが食いてえ。あとはテキトーに、何でも食べるわ……」
温泉に浸かりつつ、エリザと他愛ない言葉を交わす。火龍の縄張りの中だというのに、この時ばかりは非常に穏やかな時間が流れていくのだった。
その日の晩、レウルスは夢を見た。
――火のように熱く、燃えるような夢を、見ることとなった。
火山付近に行かれる際、硫黄の臭い(硫化水素)にはお気を付けください。
可燃性ですし濃度によっては即死しますので。