第6話:恩返し その2
3話分更新していますのでご注意ください。
「…………アァ?」
呆然と、あるいは怪訝そうに、レウルスは己の手を見下ろしながら声を漏らした。
手の中にあったのは、先ほど自分が躓いた石だ。何度も殴りつけた衝撃で割れ、鈍く尖った先端には赤い液体がこびり付いている。
――はて、これはなんだろうか?
胡乱な思考でそんなことを考えるが、足元に転がる“角兎の死体”を見て納得の息を吐き出した。
角兎は頭蓋を叩き割られ、ピクリとも動かない。どう見ても死んでおり、これで動くならば魔物ではなくゾンビか何かだろう。確認のために爪先で軽く蹴ってみるが、角兎が何かしらの反応を返すことはなかった。
おぼろげな記憶を掘り返して思い出すのは、ほんの一分ほど前の出来事。
どう足掻いても角兎の突撃を回避できないと思っていたレウルスだったが、その予想に反してレウルスの体は鋭利な角を完全に回避しきっていた。
スローモーションに見えた視界の中で、ゆっくりと迫る角兎を上回る速度で体を逸らして角先を回避。レウルスが回避できるとは思っていなかったのだろう角兎は、そのまま木の幹に己の角を突き刺してしまった。
深々と、すぐには引き抜けないほどに角をめり込ませた角兎を尻目に、レウルスは己が躓いた石を拾い上げる。そして木の幹から角を引き抜こうともがく角兎の脳天目掛け、石を振り下ろしたのだ。
何度も何度も、完全に角兎が動かなくなるまで、何度も。
その結果が頭から血を流して沈黙する角兎の姿であり、レウルスは血が滴る石を地面に落として大きくため息を吐く。
正直なところ、何が起きたのか自分でも理解できない。しかしながら目の前に転がる角兎の死体と手に残る生々しい感触がレウルスに現実だと訴えかけ、思わずその場に座り込みたくなった。
「……戻るか」
だが、この場に留まるのは得策ではない。頭の片隅に残っていた冷静な部分がそう判断を下し、今は休むよりもこの場から離れることを優先した。
角兎から逃げ回っただけでも大騒ぎだったのだ。その上で血を流す角兎の死体が傍にあるとなれば、他の魔物が寄ってきてもおかしくはない。
(“コレ”はどうする……持って帰るか?)
踵を返そうとしたレウルスだったが、角兎の死体の存在がその足を止める。魔物とはいえ血が通う動物だ。食べようと思えば食べられるはずである。その巨体から計算すれば、さぞ食いでがあるだろう。
命がけで仕留めた“獲物”を放置して逃げるというのも、心情的には辛いものがあった。そのためレウルスは周囲の様子を確認すると、近くに別の魔物がいないかを探る。
ただし、角兎の時はあまり役に立たなかった己の勘だ。慰め程度にしかならず、レウルスは勘ではなく己の目と耳で異常がないかを探る。
魔物が近づいてきている気配はない。しかし相手は野生の獣並に気配を殺しそうな存在だ。それでもレウルスは近くに魔物がいないと判断し、息絶えた角兎の両足を握って背負った。
薪を回収し、ラヴァル廃棄街に戻るべきだろう。これ以上薪を集められるような精神状態ではなく、今はこの場から逃げる方が先決だ。食料の確保という点では、野草を探すよりも恵まれた結果というのも撤退の判断を後押しする。
「ああ、クソ……腹ぁ減ったなぁ……」
命の危機を乗り越えた影響か、急に空腹を訴える体が何故か酷く不快だった。
「……生きてたのかお前」
ラヴァル廃棄街に戻るなり、入口付近で周囲を見張っていた男性の第一声である。角兎を背負い、なおかつ蔓で束ねた薪を持ち帰ったレウルスに対して驚いたような顔を向けた。
林からの帰り道、角兎の重さに嫌気が差して何度投げ出そうかと思ったが、他の魔物が寄ってくるかもしれないという恐怖感と“食料”を捨てたくない一心で必死に走ってきたのだ。歓迎しろとまでは言わないが、いきなり死人扱いされるのはレウルスとしても予想外である。
「……死んでるように見えるか?」
空腹と疲労、さらには魔物が追ってくるかもしれない緊張感から解放されたレウルスは、敬語を使う余裕もなく不機嫌そうに尋ねた。
「ハッ、死体は見慣れてても歩き回る死人は見たことねえな」
実は角兎に貫かれて死んでいるのではないか、という不安は意味のないものだったらしい。男性は蔓で縛った薪一組と角兎を交互に見やり、続いて角兎の頭部に視線を固定しながら口を開く。
「なんだよ、お前魔法が使えたのか?」
「え? そうなのか?」
驚きを含んだ疑問の声に対し、レウルスは首を傾げて疑問を返す。魔法というメルヘンチックな響きがあるものなど、使えた試しがないのだが。
「……ならどうやってコイツを仕留めたんだ?」
「どうって……石で頭を殴って?」
「石だあっ!?」
身振り手振りで石を振り下ろす動作を繰り返すレウルスだったが、本人としても半信半疑だ。しかし事実として角兎の死体が存在する以上、自分の手で仕留めたことに間違いはないのだろう。
「ところで、コレって食べられる生き物だよな? 食用じゃなくても食べるけど」
「あ、ああ。この辺りじゃ普通に食肉扱いだ……食うって生でか」
後半は小声で呟く男性だったが、己の立場を思い出したのか表情を改める。
「お前コイツを捌けるか?」
「いや、無理っす」
強制的に畑を耕し続けたことはあるが、前世を含めても生き物を捌いた経験などない。そのため首を横に振ったレウルスに対し、男性は眉を寄せてしばらくの間沈黙した。
「……ドミニクの旦那のところに持っていくんだったな?」
「そりゃもちろん。他にアテもないしなぁ……」
「そうか……ふぅむ……」
男性はレウルスと角兎を交互に見ると、懐に手を突っ込んで何かを漁り始めた。
「お前、その薪と肉を届けたら何をする気だ?」
そして世間話でもするように話を振ってくる。初対面の時と比べて雰囲気が軽くなっているのは、顔見知り程度には覚えられたからだろうか。
「できれば飯を食わせてもらって、その辺の軒先で寝て、朝が来たら……また森に行くしかないんだよなぁ。命を救ってもらった恩は“この程度”じゃ返せそうにもないし」
今回は命がけになってしまったが、次からはもっと安全に薪を拾おうと思う。レウルスとしても角兎と遭遇したのは予定外であり、さすがに再び戦うのは避けたかった。
「一回の食事と一晩の寝床だったか……この肉を持ち込めばそれだけで返せるぞ? むしろ余るぐらいだ」
男性は口元に笑みを浮かべながら、それでいて目だけは真剣に聞いてくる。レウルスはその雰囲気に若干気圧されたが、角兎だけで恩が返せると聞いて頭を振った。
「コレも命がけで獲ってきたし、命を救われた分の対価になるかもしれない。でも、な……」
明確な答えがあったわけではないが、レウルスとしては腑に落ちないものがある。
ドミニクからすれば、店の裏手で行き倒れていたレウルスを気まぐれで助けたのだろう。コロナが助けようと思わなければそのまま放置していた可能性もある。
命を救われた食事も、拳大のパンが二つに塩スープ、ついでに水が一杯と前世の食事と比べれば質素なものだ。目の前の男性の言う通り、角兎を丸々一匹持ち込めば十分に対価になるだろう。
税金でいくらか取られるのだろうが、それを差し引いても昨晩の食事代にはなるはずである。
――それでも、命を救われた恩の対価としては到底釣り合わない。
平成の日本で友人に一食奢られ、一晩泊めてもらったのならば同等の対価を渡すだけで十分だろう。親しい友人ならば互いに頼り頼られ、格式ばった返礼をすることこそ無礼になることもある。
だが、コロナやドミニクは友人ではない。顔を合わせたこともなければ言葉を交わしたこともない、赤の他人だった。
そんな赤の他人に、レウルスは命を救われたのだ。
「あー……やっぱり足りねえわ。それだけで恩を返したなんて口が裂けても言えねえ」
コロナやドミニクからすれば、捨て犬に気まぐれでエサを与えたようなものかもしれない。しかし、その捨て犬はその気まぐれで命を救われたのだ。
この世界に生まれて初めて食べたまともな料理は涙が出るほど美味く、眠る際に貸し与えられた布はその薄さに反してこの上ないほど暖かかった。
角兎は己の迂闊さで命を賭ける羽目になり、“勝手に”仕留めただけである。レウルスは今までの人生で己のプライドなど鼻を拭くちり紙にすらならないと思っていたが、角兎を差し出したからといって恩を返したと納得できるほど腐ったつもりもない。
コロナやドミニクは恩返しなど望んでいない――期待すらしていないだろうが、助けられたレウルスからすれば別の話だ。薪を集め、角兎を仕留めてきた程度では到底足りない。この程度では、まったく足りない。
レウルスにとって、この世界は最低最悪だ。両親が死んだばかりの幼児に野良作業を命じ、成人まで生き延びたと思えば即座に売り払ったシェナ村の上層部など、前世で連日サービス残業を命じてきた上司よりも遥かに劣る。
そんな状況で初めて与えられたまともな食事は、本当に美味しかった。つい先ほど命のやり取りを経験して精神が荒んでいたレウルスにとっても、命がけで仕留めた角兎が十分な対価にならないと即断するほどに重い恩だった。
奴隷として売り払われ、獅子の魔物から命からがら逃げ延びた己の環境。身分も金もなく、この世界においてはおそらく最底辺に位置するであろう。そんなレウルスの命など風が吹けば飛ぶほどに軽いものかもしれない。
だが、だからといって恩を返さなくて良い理由にはならないのだ。どんなに軽くて安い命だろうと、今のレウルスにとってそれ以上のものは――それ以外のものはないのだから。
「なんて言ったらいいのかねぇ……今の俺には自分の命以外に大事なものがないんだよな。で、ドミニクさん達には命を救われた。この兎を渡してその恩を返せたと思っちまったら、俺の命も“その程度”ってことになる」
いざ言葉にしようとすると、案外難しいものだとレウルスは苦笑する。
最低最悪だと思える世界で、羽毛のように軽く扱われた己の命を救われた恩。ドミニクもコロナも気まぐれで助けたのかもしれないが、その気まぐれはレウルスにとってどうしようもなく嬉しく、この世界で触れた初めての“温かさ”だった。
他者に理解ができるかわからない。あるいは自己満足なのかもしれない。この恩を踏み倒しても文句を言う者はいないだろうが、他でもないレウルスが自分自身を許せない。
「まあ、アレだ。一宿一飯の恩も返せない恥知らずにゃなりたくないって話さ」
結局はその一言に尽きる。親切にされたら感謝するという、元日本人として当たり前の感性がそうさせたのかもしれない。この世界では何の役にも立たない感傷だが、それさえも捨て去ってしまえば自分が自分でなくなってしまいそうだ。
「……そうかい」
レウルスの言葉をどう思ったのか、男性は静かに頷いた。
当面の目標ではあるが、ドミニクとコロナに恩を返そうとレウルスは思う。それは何の目的もなく生きるより、余程建設的な生き方だろう。こんな世の中だからこそ、恩や義理というものを忘れることは畜生にも劣る。
そんな決意を抱くレウルスに対し、懐から手を抜いた男性が何かを差し出した。
「“合格”だ。これをドミニクの旦那に渡しな」
「……これは?」
差し出されたのは、手の平に収まる大きさの長方形の金属板だった。表面には何かしらの文字が刻まれているが、字を読めないレウルスには何が書かれているかわからない。
「門番のトニーからって言えばわかる。あと、薪と肉はこのまま持っていきな。ドミニクの旦那に渡せば処理してくれるさ」
金属板に関しては何も答えず、これからに関して指示を出す男性。レウルスは目を白黒させるが、男性は追い払うようにして手を振る。
「それじゃあな、小僧。次は“お仲間”として会えることを祈っとくぜ」
そう言って男性――トニーは笑うのだった。