エピローグ:その1 危難は去って
――黒龍の襲来。
それは下手すればスペランツァの町だけでなく、大国であるマタロイが滅んでもおかしくないほどの事態である。
パラディア中央大陸において今もその爪痕が残る、国を滅ぼしたと言われる上級上位の魔物『国喰らい』。広大な土地を喰らい尽くし、その暴れぶりは千年近い時を経てなお砂漠として被害が残る伝説の魔物と比べても上位の、最上級に分類されるであろう魔物が好き勝手に暴れていれば甚大な被害は免れなかっただろう。
だが、マタロイという国にとって幸運とも呼べることに、王都近くに突如として現れた黒龍はすぐさま飛び立って姿を消した。仮に王都が襲われていれば被害は免れなかっただろうが、黒龍は目的でもあるように一直線に南下していったのである。
黒龍が優先したのは、カルデヴァ大陸を守護するヴァーニルとサラ達を始めとした複数の精霊達だ。消耗した状態で戦うのは下策と判断してのことだったが、この判断は半分正解であり半分間違いだったと言えるだろう。
仮に、生まれて間もない黒龍が戦闘経験を積んでいればどうなったか。その身体能力や魔力、魔法の才能を更に活かせるだけの経験があれば、どうなっていたか。正面からではなく複雑な搦め手を使えるだけの狡猾さを備えていれば、どうなっていたか。
当然ではあるが“それらの経験”を得ている最中に討たれてしまう危険性もある。それはほんの僅か、気にする必要がないほど極僅かな可能性だったが、偶然強者と遭遇する可能性は否定できない。
そしてその僅かな可能性以上に、黒龍には時間がなかったというのも大きかった。
火龍ヴァーニルはカルデヴァ大陸にて発生する“問題事”を解決する役割がある。人間同士の戦争等には何の手出しもしないが、黒龍や『国喰らい』のように明確な脅威は排除するのだ。
それはつまり、ヴァーニル以外にも『神』や世界の敵となり得るものを排除する者が黒龍の討伐に駆け付ける可能性が大きく、黒龍にとっては戦闘経験を稼ぐことに時間をかけられないということでもあった。
カルデヴァ大陸において脅威になり得るヴァーニルや精霊を真っ先に叩き潰し、他の大陸を守護する者が襲ってくれば撃退する。そうして脅威になり得るものを全て滅ぼせば黒龍にとって勝利と言えた。そこまでいけばあとは黒龍を生態系の頂点とした地獄のような世界に変貌していただろう。
黒龍という存在はそれだけの脅威であり、人的被害もほとんどなく、辺境の男爵家の土地が一部荒れ果てただけで済んだのはまさに僥倖と呼ぶ他なかった。
――その荒れ果てた土地をどうにかしなければいけない当事者達にとっては、僥倖と呼んで良いのかわからなかったが。
「うぅ……これは一体、どうすればいいのであるか……」
黒龍が消滅し、暴れていたレウルスも落ち着きを取り戻した直後。
他の敵や増援がいないことを確認したコルラードは、盛大に荒れ果てた土地を見て頭を抱えていた。
全ての戦いが終わった後、レウルスが意識を失ったため即席で作った担架に乗せ、疲労困憊かつ魔力切れのエリザ達、クリスやティナと共にスペランツァの町へと送っており、この場にいるのはコルラードやドワーフ達、冒険者の中でも比較的腕が立つ者が数名である。
ヴァーニルは体を休めるためにレウルス達に同行しており、激戦にもかかわらず割とピンピンしていたジルバはレウルスの治療を担当していた。そのため後始末を引き受けたコルラードだったが、目の前の光景を見るとどうしても頭と胃が痛む。
アメンドーラ男爵領はスペランツァの町とその周辺、そして街道ぐらいしか整備が進んでいない。木材や石材等の資源を得るための作業所や休憩所が各地に点在しているが、それ以外は山や森や小川しかなかった。
そのため黒龍との戦いで被害を受けたのも、現状では開墾の予定すら立っていない場所となる。
その点だけ見れば幸運だろう。造った物が破壊されることもなく、土地が荒れただけだ。これでスペランツァの町が全壊でもしていれば、元の状態に戻すのにどれだけの時間と資金と資材と労力が必要になったか。
それを思えば、今回の被害は軽微とすら言えた。少なくともコルラードはそう思い、幸運だったのだと自分に言い聞かせる。
辺り一面、自生していたはずの木々が倒壊したり、消滅したり、燃え尽きていたり。メートル単位で地面が陥没したり、盛り上がったり、場所によっては深さが十メートルを超える大きな穴ができていたり。魔法の撃ち合いの余波で場所によっては土が硝子と化していたり――それでも、幸運だとコルラードは自分に言い聞かせた。必死になって、言い聞かせた。
「こいつはまた、なんとも言えねえな……おい、どうすんだコルラードの旦那」
現実から逃避するように遠くを見つめていたコルラードだったが、同行していたドワーフからの呼びかけで我に返る。
「どうするも何も、今の段階ではどうしようもないのである……被害状況を確認して、隊長殿に報告せねば動きようがないのだ……」
コルラードにできるのはそれぐらいしかなかった。被害が少なければ独断で動いても良いが、ここまで被害の規模が大きいとなるとナタリアの判断が必須である。
そのためまずは被害状況の確認を最優先にしつつ、スライムもどきが現れたことで最低限しかできていなかった畑の世話や開拓、スライムもどきが危険だからと止めていた近隣の領からの支援の受け入れ、商人や旅人の受け入れの再開。
それらと並行してレウルス達が戦線離脱している間、スペランツァの町を防衛する戦力を采配しつつ、ナタリアへ報告の使者を出す。ただし、普段は少ない人数で使者を任せられるレウルス達が使い物にならないため、限られた戦力の中から確実にラヴァル廃棄街へ到着できるだけの人員を捻出しなければならない。
コルラードはここ最近は感じることがなかったほど、盛大に胃が痛むのを感じた。やることの多さに眩暈がするほどである。アリスと益体のない雑談でもして癒されたい気分だ。
もう少し被害を抑えることはできなかったのか、という思いもゼロとは言わない。被害状況の調査と報告だけでどれだけの時間と手間と戦力が必要になるか、考えたくもない。
(だが、これは吾輩の仕事である。戦いではロクな手助けもできなかったのだ……これぐらいは引き受けねばな)
死力を尽くして黒龍を倒したレウルス達に文句を言うのは筋違いにもほどがあるだろう。作業者達の避難誘導があったとはいえ、戦うことを任せて後方に下がっていた自分にそんなことを言う権利はない、とコルラードは思った。
「……よし。気合いを入れ直してまずは被害状況の調査から」
「――どうやら間に合わなかったようね」
自分自身に気合いを入れ直したコルラードだったが、不意に背後から声が響く。その声には聞き覚えがあり、コルラードは反射的に背筋を正しながら振り返った。
「た、隊長殿!? 何故ここに!?」
コルラードが振り返った先にいたのは、戦装束に身を包んだナタリアである。煙管を咥えて紫煙を燻らせつつ、不機嫌そうに戦いの痕を眺めていた。
一瞬スライムもどきかどうかを警戒したコルラードだったが、その仕草や雰囲気からすぐさま本物のナタリアだと看破する。伊達に長い間付き従ってはいないのだ。コルラードにとっては悲しいことだが、仮にスライムもどき以外の何者かが『変化』していたのだとしてもすぐさま看破できる自信があった。
「火龍のところに送った使者がすぐに帰ってきたし、あれだけ上級魔法を撃ち合っていれば嫌でも気づくわ……魔力を抑えながらになるけど、出来る限り全速力で飛んできたのよ」
そう言って疲れたようにため息を吐くナタリア。ただでさえスライムもどきの対応で睡眠時間を削られ、レウルス達がラヴァル廃棄街に来た時以外はろくに休めていない状況で今回の一件である。
領主として単独行動は控えたかったが、領地を守るためには動かざるを得ない。そう思っていたというのに、いざ駆け付けてみれば戦いは終わった後だったのだ。
「コルラード」
「は、はっ!」
普段ならば男爵と準男爵ということもあり、相応に気を遣うナタリアが底冷えのする声でコルラードの名を呼ぶ。その呼びかけを受けたコルラードは長年の癖で直立不動になったが、ナタリアはコルラードの反応を見て頭を振った。
「……悪いわね。どうにも気が立っているみたい。状況を報告してちょうだい」
そう言って小さく頭を下げるナタリアに、コルラードは驚きながらも今回の一件に関して報告を始める。
アメンドーラ男爵領における最上位者が駆け付けた以上、コルラードにできるのはその補佐だけだ。それは同時に、今後の被害状況の調査や開拓の再開等に関してすぐさま相談できるということでもあり、大幅な時間の短縮が図れるということでもあった。
「そう……レウルスが意識不明の重体、火龍が重傷、他は軽傷で魔力切れが多数……その程度で済んだのね」
コルラードの報告を聞いたナタリアはそう呟く。
聞いた話と眼前に広がる被害の痕だけを見れば、現状で死者が出ていないのは奇跡と言えた。冷たいようだが、“その程度”と断言できるほどに。
「レウルス達の治療については?」
「ジルバ殿を始めとした治癒魔法が使える精霊教徒達に頼んであります。アリス殿にも町に備蓄してある魔法薬が必要なら使うように、と……」
治療の間、コルラードにできることはほとんどない。応急処置程度ならば可能だが、専門的な医療技術もなく治癒魔法も使えないため、こうして被害状況の調査と“万が一”に備えて警戒をしているのだ。
指揮官としてスペランツァの町に控えている方が正しいのだろうが、レウルス達やジルバ、クリスやティナを除くと一番腕が立つのがコルラードである。そして状況判断の重要性を踏まえればコルラードがこの場に残るしかなかった。
「それならわたしは町に行って指揮を執るわ。貴方には被害状況の調査をお願いするけど、何かあればすぐに撤退しなさい。撤退が無理そうなら大きな声を上げればすぐに駆け付けるわ」
決断すればナタリアの動きは早い。コルラードに指示を出すと、全体の指揮を執るべくスペランツァの町へと向かい始める。
(正直なところ、途方に暮れておったが……この状況で隊長殿が来てくださったのは本当にありがたい。作業を分担できるというのがこれほど心強いとは……)
普段は頼もしくも恐ろしく思うナタリアだったが、この時ばかりは救いの女神に思えるコルラードだった。
スペランツァの町における臨時の指揮所。将来的にナタリアの邸宅が建つ予定の場所において、エリザ達は四人で集まって地面に腰を下ろしていた。
「もう動けない……指一本動かせない……」
「もうっ! エリザってば貧弱ね!」
魔力を使い果たし、精魂尽き果てたといわんばかりの様子でエリザが呟けば、そんなエリザと背中を預け合いながら座るサラが不満そうに声を上げる。ただし、元気が良いのは声だけでサラも動くことができないほどに消耗していた。
「今回はさすがに仕方ないよ。エリザちゃん、すごい魔法を使ってたしね」
「ネディも……疲れた……」
エリザとサラの様子に苦笑するミーアは、言葉通り疲れた様子のネディに膝を貸している。ミーアも魔力が底を突いていたが、他の三人と比べれば体が頑丈かつ体力があり、その差が如実に表れていた。
全員が全員、疲れているのは間違いない。状況が許すのならばすぐに眠ってしまいたいほどだ。しかし、四人とも眠ることなくこの場にいるのには理由があった。
「……レウルス、大丈夫かな」
ポツリとエリザが呟き、視線を移動させる。その視線の先にはジルバを始めとした精霊教徒達の姿があり、今回の戦いで最も重い傷を負ったレウルスを治療しているのが見えた。
気を抜けば気絶しそうなほど疲れているが、レウルスのことが気になって眠る気になれない。そんな理由があったからこそ、エリザ達はこの場に残っていた。
エリザ達がこの場に残っていても、できることはない。全員が全員魔力を使い切ったためサラでさえ小さな火を灯すことすらできず、ネディでさえ一滴の水すら生み出すことができない。
――それでも、この場を離れる気にはなれなかった。
「レウルス……」
エリザは不安と心配が混ざり合った声でレウルスの名を呼ぶ。レウルスもエリザ達も魔力を消耗しきった影響か、普段ならばしっかりと感じ取れる『契約』のつながりが希薄になっており、それがより一層不安を煽る。
「レウルス、わるいこじゃなくなった。へんなこでもなくなった」
そんなエリザの声をどう捉えたのか、ミーアの膝を枕にしながら地面に転がるネディがそう言った。エリザのように不安を抱いてはおらず、どこか嬉しそうに聞こえる声である。
「何か起きた時、“わたし”が手を下す必要もない……ネディは、それが嬉しい」
「んー? ネディってばまだそんなこと考えてたの? レウルスはレウルスなんだから別に何もしなくていいじゃない!」
ネディの言葉にサラが明るく言い放つ。サラにとって、レウルスはレウルスだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「ネディちゃんが言ってた“へんなこ”って、最後にレウルス君から出てきた黒いスライム? のことだよね。レウルス君が自分で斬っちゃったけど、レウルス君に悪い影響はないの?」
ネディに膝を貸したまま、ミーアはその視線を治療中のレウルスに向ける。そこには治癒魔法や魔法薬による治療を施すジルバ達と清潔な水や布を持って走り回るコロナの姿があった。そしてそんなレウルスから離れた場所ではヴァーニルが体を丸めて休んでおり、傷んだ翼や体の傷をどうにか治療しようとしている精霊教徒の姿が見える。
「ん……多分」
「多分!? えっ? レウルス君に何があるの!?」
断言しないネディにミーアが目を見開く。
「今までみたいに無理はできない……ぐらい? 『契約』の力を使えたとしても、“へんなこ”の力はなくなる……と思う」
「つまり、レウルスが目を覚まさないことにはわからないってことね」
会話に混ざるようにして響いた声。それに気付いたエリザが顔を上げると、そこにはナタリアの姿があった。
「師匠!? どうしてここに!?」
「あ、ナタリアじゃない」
驚愕するエリザと、知り合いが来たからと軽く手を振るサラ。そんな二人の反応にナタリアは苦笑を浮かべたが、怪我はほとんどないものの魔力が感じられないエリザ達を見て表情を引き締める。
「間に合わなかったけど、大急ぎで飛んできたのよ。エリザ達は怪我も大したことがないようで良かったわ。レウルスも無事で、素直に喜べれば良かったのだけど……」
そう言いつつ、ナタリアは治療を受けているレウルスへ視線を向けた。そして一瞬悲しそうに目元を震わせたが、すぐに表情を引き締め、近くにあったエリザの頭に手を置いた。
「何はともあれ、よく頑張ったわね。師として鼻が高いわ」
「う……師匠にそう言われると、むず痒いというか……」
「“そこの二人”も加勢してくれたのでしょう? 感謝するわ」
面映ゆそうに目を伏せるエリザに少しだけ口元を緩めたナタリアだったが、少し離れた場所に立つ二人――クリスとティナに声をかける。
クリスとティナは頭部に生えた狐耳を不安そうに倒し、心配そうに尻尾を揺らしながらレウルスを見ていたが、ナタリアの呼びかけで我に返った。
「っ……『風塵』」
「ナタリア、さん……」
クリスは僅かな警戒を見せ、ティナは気まずそうな様子で視線を逸らす。
「クリスもティナも、役に立ったかは……」
「自信を持っては言えない」
黒龍を相手にして魔法を撃ち合ったが、クリスとティナからすれば“それだけ”とも言える。直接戦い続けたレウルスやヴァーニル、それぞれが出来ることを成したエリザ達、素手で黒龍と戦ったジルバと比べれば役に立ったと胸を張ることができない。
「間に合わなかったわたしと比べたら全然マシでしょう? 魔力が尽きるまでよく戦ってくれたわ」
クリスとティナの様子に、ナタリアは思わず苦笑を浮かべてしまう。ラヴァル廃棄街から駆け付けるには距離があったため仕方がないが、戦いが終わった後に駆け付ける形になったのだ。
もしもの話ではあるが、レウルス達が奮戦むなしく敗れていれば生き残った黒龍を相手にナタリアが戦うことになっただろう。レウルス達と戦った直後ならばナタリア一人でも十分に対処できた可能性が高い。
だが、黒龍を仕留めたのはレウルス達だ。そのためナタリアとしては戦いに加わった者達全員に報いるつもりで、なおかつそれは領主として義務ですらあった。火龍であるヴァーニルはともかくとして、最も奮戦したレウルスが予断を許さない状況というのが問題だったが。
「あとはレウルスの治療が上手くいってくれることを祈るばかりだわ」
軌道に乗ったスペランツァの町の開拓は、今後ますます加速していくこととなる。“そうでなくとも”レウルスに死んでほしくない、生きていてほしいとナタリアは祈った。
「レウルスならきっと大丈夫」
そんなナタリアの言葉に、レウルスならば、とエリザは小さく呟く。
今まで様々な無茶や無理をしてきたのだ。ここにきて過去最大とも言える無茶をしたが、様々な未来が待っているのである。
エリザの祈りにも似た言葉を聞いたサラ達は、それに同意するように頷いたのだった。




