第622話:厄災 その5
『――解せぬ』
その声は、距離があるというのにレウルスの耳にも届くほど周囲に響き渡るものだった。そして声を発すると同時に黒龍が首をもたげる。
森の木々で視界が遮られているにもかかわらず、黒龍の目線が自分へと向けられていることをレウルスは感じ取った。気配か魔力で位置を探っているのだろう。
「……喋れるのかよ」
思わず、といった様子でレウルスが呟いた。ヴァーニルと異なり明確な言語を発していなかったが、どうやら黒龍も喋ることができるようだ。
黒龍は地面に伏せた体勢で動かないヴァーニルをチラリと見ると、その視線を再びレウルスへと向ける。
『そこの火龍が敵対する理由はわかる。こちらを見ている精霊共も……一匹怪しいのがいるが、精霊がこの身に敵対するのは当然だ。吸血種は別だが、お前は違う』
ヴァーニルを攻撃することよりも疑念を解消する方が優先されたのか、黒龍はその瞳に怪訝そうな色を混ぜた。
レウルスと黒龍の間には百メートル近い距離がある。レウルスは木々に隠れるようにして接近するが、黒龍の視線はレウルスを捉えて離さない。
『何故、この身の邪魔をする? 何故、この身に斬りかかってきた? 何故、精霊の気配がする武器を振るっている? 同胞たるお前はこの身と同じくこの世界に害を成す者……』
今のうちに斬りかかれる距離まで近づこう。そう思考しながら移動するレウルスをじっと見ていた黒龍だったが、僅かに目を見開く。
『……いや……なんだ、お前は』
明確に声に宿った疑問。得体の知れない生き物に遭遇したような声色だったが、レウルスとしては黒龍にそのような言葉を投げかけられるとは思わなかった。
『人間……ヒト、か? 精霊や吸血種の気配もするが……喰らうモノの気配が濃い。その姿は擬態か?』
そんな問いかけの間にレウルスは距離を詰める。そして数秒とかけずに斬りかかれる位置まで移動すると、隠れていても意味はないと判断してその身を黒龍に晒した。
「よく間違われるが、俺は人間だ。ラヴァル廃棄街所属の冒険者であり、この国の準男爵であり、『魔物喰らい』や『精霊使い』、『龍殺し』なんて面倒な名前で呼ばれちゃいるが……」
そこまで口にしたレウルスは、脳裏に過ぎるものを感じて口を閉ざす。
(『龍殺し』……誰が言い出したのか疑問だったが、まさか“そういうこと”か?)
レウルスは正面から黒龍を見据え、そんなことを思う。
王都で国王直々の依頼を達成してすぐさま流行り出した呼び名。レウルスはナタリアが広めたのかと思ったが、ナタリアはそれを否定していた。
――ならば、どこからその名前が出てきた?
上級下位に匹敵しそうな巨体とはいえ、亜龍である翼竜を仕留めた程度でつけられるあだ名ではないだろう。火龍であるヴァーニルを倒したのならば名乗ってもおかしくはないが、レウルスとしても疑問を抱いていた名前である。
(俺をヴァーニルと戦わせるため、なんて考えもしたが……そうか……そういうこと、か)
黒龍の前に立っているのが『龍殺し』など、皮肉が利きすぎている。
黒龍が現れることを見越していたのか、あるいはただの偶然か。『国喰らい』ならば王都の近くに現れてもベルナルドや司教が対処できると踏み、それ以上に危険な存在が現れた時の備えを用意した可能性。
国王からの依頼で戦ったグレイゴ教の面々は魔法具や高純度の『魔石』を用意し、“何か”をしようとしていた。魔法人形であるレンゲがいたため可能か不可能かは別としてヴァーニルを仕留める準備をしていたのだとレウルスは思ったが――。
(グレイゴ教の連中、最善じゃないが次善ではある、なんて言っていたらしいが……俺とコイツを戦わせるつもりだったのか)
それに気付いたレウルスは思わず口の端を歪め、眉を寄せる。
(マタロイの上層部も一枚噛んでないだろうな……考えるとしても後か)
今はヴァーニルが復帰するまでの時間を稼ぐためにも、言葉を紡ぐ必要がある。そう考えたレウルスだったが、目の端でヴァーニルが僅かに動くのが見えた。
ヴァーニルの目が開かれ、レウルスを見ている。どうやら落下の衝撃は抜けたらしく、その瞳には戦意が宿っていた。それに気付いたレウルスは黒龍を真っすぐ睨みつける。
グレイゴ教の思惑も、今となっては文句を言う相手がいない。レウルス達が仕留め、最善とやらを次善に叩き落としたのだ。
今、こうして黒龍と向き合っている。戦っている。注力すべきは思考ではなく目の前の戦いだ。
「ああ、そうだ……そうだとも。肩書きなんてどうでもいい。俺は人間だよ黒トカゲ。そして――お前の敵だ」
それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけのことだ。
黒龍がどう思っているか興味などない。敵として向き合っている以上、やるべきことは変わらない。
『人間……本当にそう思うのか?』
ラディアを構えるレウルスを見ながら黒龍が呟き、僅かに頭を左右へと振る。
『まあ、いい。それならばお前も消し去るまでだ。そこの火龍と精霊、諸共にな』
「やれるものなら」
『やってみるがいい!』
レウルスが地を蹴ると同時、それまで伏せていたヴァーニルが跳ね起きる。
落下の際に翼を傷めたのかヴァーニルは空へと上がらず、飛び掛かるようにして黒龍へと向かった。
『俺とヴァーニルが隙を作る! あとは頼んだ!』
『思念通話』で端的に指示を出し、レウルスは黒龍に向かって駆け出す。魔法を撃つタイミングを指示する余裕はないと判断してのことだった。
『オオオオオオオオォォッ!』
『ガアアアアアアアァァッ!』
ヴァーニルと黒龍が真っ向からぶつかり合う。互いに三十メートルを超える巨体ながらも俊敏に駆け、爪と牙、肉体を駆使しての格闘戦だ。
(体がでかいってのは厄介だなぁっ!)
ヴァーニルと黒龍がぶつかり合う度、移動する度に周囲の木々が圧し折れ、地面が揺れ、大量の土砂が舞う。レウルスは飛来する木々を回避し、時には足場にしつつ黒龍の隙を窺うが、近付くだけでも一苦労だった。
体が大きくとも、動きが鈍るわけではない。むしろその巨体に見合った筋肉と身体能力に加え、『強化』を使うヴァーニルと黒龍の速度は並大抵のものではなかった。
空を飛んでいない分、レウルスとしても接近しやすい。容易とは言わないが『熱量解放』を使っているため追随も可能。しかし体格差ばかりは如何ともしがたく、隙を突く前に轢殺されないよう注意する必要があった。
黒龍はヴァーニルと戦いながらも、視線をレウルスにも向けて動きを警戒している。それに気付いたレウルスは黒龍の背後、ヴァーニルと共に前後を挟む形で位置取りしようと動いていく。
『小賢しい!』
レウルスの動きに気付いた黒龍は即座に跳躍する。翼が欠けているため飛ぶことはないが、数十メートルの巨体で跳躍すればそれだけで脅威だ。
そして、跳躍するなり黒龍の魔力が高まる。即座に迎撃しようとヴァーニルも魔力を高めるが、黒龍は威力よりも速度を優先したのかこれまでと比べれば細い、しかし薙ぎ払うように首を振りながら黒い閃光を放った。
地を舐めるようにして黒い閃光が奔る。射線上の木々を飲み込み、大地を抉り、レウルスとヴァーニルをまとめて吹き飛ばそうと迫り来る。
『チィッ!』
ヴァーニルは黒龍を真似るように跳躍して回避するが、レウルスはそうはいかない。これまでと比べれば細いといっても黒い閃光はレウルスの背丈ほどあり、射線上の全てを薙ぎ払うようにして迫る閃光はただ回避するだけとはいかないのだ。
また、いくら森しかないといっても現在戦っている場所はアメンドーラ男爵領である。黒龍相手に土地の無事を気にする余裕はないが、全てが更地になっては元も子もない。
故に、レウルスは回避ではなく迎撃を選ぶ。ラディアに魔力を注ぎ込みつつ、迫る黒い閃光をすくい上げるようにして斬り払う。
(お――もいっ!)
氷魔法のように物理的な重さはないはずだというのに、ラディアから伝わってくる衝撃は尋常ではない。それでもレウルスは剣を弾き飛ばされそうになりながらも黒い閃光を両断する。その間に跳躍していたヴァーニルが黒龍目掛けて殴りかかり、魔法ごと潰すように地面へと叩き落とした。
巨体が落下し、地響きと共に地面が大きく揺れる。下敷きになった木々は粉々に砕け、地面が陥没するほどの勢いだ。
「シャアアアアアアアアァァッ!」
その僅かな隙に、レウルスは一気に切り込む。可能ならば急所を狙いたいところだったが、巨体ということは急所の位置も自然と高くなってしまう。そのためレウルスは移動を制限しようと黒龍へと刃を走らせた。
狙うのは、左の後ろ脚である。丸太どころか巨木の幹のように太い脚へラディアが食い込み、その切れ味とレウルスの膂力任せに切り裂いていく。
――だが浅い。
地面に叩きつけられたはずの黒龍は身を捩るようにして強引に刃を抜き、レウルスの間合いから逃れる。
傷口からは黒い血が噴き出すが、音を立てながらすぐさま塞がっていく。
(体がでかいやつはこれだから厄介だな)
身を捩り、横に転がるだけで一気に十メートル以上移動するのだ。『熱量解放』を使っているレウルスならば瞬く間に間合いを詰められるが、黒龍から放たれる魔力を感じ取って即座に防御態勢を取った。
そうして放たれるのは、全方位への衝撃波である。黒龍を中心として球体状に、周囲全てを押し潰すように“黒い壁”がレウルスへと迫った。
「チィッ――オオオオオオォォッ!」
ラディアを真っ向から振り下ろし、迫り来る黒の波濤を切り裂く。しかしそれだけで止まることはなく、レウルスの全身に激しい痛みを与えながら周囲に残っていた木々や倒れ、潰れた木石を飲み込んでは吹き飛ばしていく。
(ぐっ……やっぱりただの魔法じゃねえ、か)
『熱量解放』を使っている間は痛みにも強くなるが、それでも歯を食いしばらなければうめき声を上げそうなほどの痛みがあった。
空中ではヴァーニルが相殺し、魔法を受けたのもレウルスとヴァーニルだけだったため気付かなかったが、黒い閃光に飲み込まれた木々や石は風化でもしたように粉微塵に飛び散っている。
『いたい……』
魔法を切り裂いたラディアから痛みを訴える声が届き、レウルスは小さく頷きながら息を吐く。
「ああ……ったく、面倒な魔法を使いやがって。痛ぇじゃねえか」
距離を取った黒龍を睨みながらレウルスが言えば、黒龍は巨大な口を僅かに不満そうに歪めた。
『そこの火龍ならばまだしも、普通の人間ならば痛いで済むような魔法ではないのだがな……やはり耐えられる、か』
そう言って、黒龍は傷口が塞がった後ろ脚へ視線を向ける。
『それにこの身を容易く斬れる武器……それも精霊が宿った武器など持ちおって。火龍もそうだが、他にも精霊が数体……消耗する前に潰しに来て正解だったな』
『――そう容易く潰せると思うか?』
そんな声と共に、跳躍していたヴァーニルが落下の勢いを乗せて前肢を振り下ろす。火炎魔法ではなく肉弾戦を選んだのは至近距離にレウルスがいたからか、あるいは魔法の撃ち合いでは不利だと思ったのか。
黒龍はヴァーニルの攻撃を受け止めようとするが、動きが制限されればレウルスがどう動くかを察したのだろう。巨体に見合わぬ速度でヴァーニルの打撃を回避し、木々を薙ぎ倒しながら後退する。
『チィッ……真っ向から受け止める気概もないか』
『二対一で挑んでおいてよく言う』
挑発するようにヴァーニルが言うが、黒龍はそれに乗らず軽く受け流す。そんな黒龍の言葉にヴァーニルは隠すことなく舌打ちした。
ヴァーニルとしては、相手が黒龍とはいえ“生まれたて”を相手にして拮抗状態に持ち込まれていることが腹立たしかった。それもレウルスと共闘し、二対一で戦っているというのに押し切れないのだ。
レウルスもヴァーニルも黒龍を仕留めるべく攻撃を仕掛けているだけで、連携と呼べるほど息が合っているわけではない。互いに黒龍の注意を引き、攻撃の邪魔をし、隙があれば攻撃する程度だ。
強者との戦いは喜ばしい。ヴァーニルは心からそう思うが、拮抗している今の状態がいつまでも続くわけではない。
完全に切断したからか、あるいは武器のおかげか、レウルスが斬り飛ばした翼は再生していないが、それ以外の傷については数秒もすればふさがってしまう。さすがに限度はあるだろうが、黒龍を殺し切るよりも先にレウルスとヴァーニルの方が力尽きるだろう。
(となると、だ……)
レウルスは黒龍の隙をうかがいながら思考する。
余力があるうちに一気に攻め立てて仕留めたいが、それを成すには力が足りない。レウルスとヴァーニルだけでは仕留めきれない。
――それならば、“他の力”に頼るしかない。
『準備完了じゃ! いくぞっ!』
魔法の準備が整ったことを知らせるエリザの声に、レウルスは再び黒龍へと刃を向けるのだった。




