第611話:小さくて大きな一歩
それは、レウルスがカンナからの伝言をクリスやティナに伝えていた日の夜のことだった。
夜間の不寝番を買って出たコルラードは見張り台の一つに登り、仄かな月明りに照らされるスペランツァの町周囲の森へ視線を向けながら両手をこすり合わせる。
「ふぅ……さすがに冬になると夜の寒さが堪えるのであるな……」
そう呟きつつ、コルラードは温めてから瓶に詰めておいた薬湯を口に運ぶ。季節は冬の本番を迎えており、寒さ対策に厚手の外套を着込んでいるが夜間ともなると寒さが勝る。
それでも一人静かに薬湯を飲みつつ、静けさが感じられる月夜に不寝番を行うのはコルラードとしても嫌いではなかった。
(外壁周辺の動きは……うむうむ、悪くないのであるな)
コルラードと同様に不寝番を務める者達が松明を片手に巡回しているのを確認し、コルラードは満足げに頷く。
領軍として鍛えている最中の冒険者達だが、コルラードが教えた通り二人組で警戒に当たっているのだ。見張り台から見下ろしてみるとその“動き方”もきちんと周囲を警戒しているのが窺えた。
現在のスペランツァの町は開拓当初と異なり、町を空堀と土壁で囲んである。そして出入口として東西南北に門が一つずつ造られ、町の四隅には見張り台が設けられ、町造りが始まってからの時間を思えば十分以上の防衛能力を備えつつあった。
それでも身軽な者、『強化』を使える者、身体能力が優れる魔物ならば外壁を乗り越えて侵入できるため、夜間の警戒は必須である。レウルス達が帰ってきた影響か町周辺で魔物を目撃する機会も激減したが、そんな時だからこそ油断せずに警戒することが大事だとコルラードは知っていた。
そのため各門に二人ずつ、見張り台は一人ずつ、巡回する兵士は二人で組んだ三組の計十八人が夜間の警戒を行っている。それぞれが小型の半鐘と笛を携帯し、異常があれば即座に鳴らして周囲に知らせる手筈になっていた。
現在のスペランツァの町をわざわざ襲うような魔物、野盗は滅多にいないだろう。コルラードが襲う側だとすればそれは自殺行為だとしか思えない。だが、仮に襲ってくる者がいるとすれば、余程の考えなしか強者かの二択になるため油断はできない。
(しかし、さすがにそろそろ吾輩が頻繁に不寝番を務めずとも良いかもしれぬな……)
油断なく巡回する冒険者達――新兵よりもマシ程度だが最早兵士と呼んでも差し支えない程度には練度がある彼らの姿を観察しながら、コルラードは苦笑するように口元を歪める。いきなりは無理でも、不寝番の頻度を減らすぐらいは可能だろう、と。
コルラードが頻繁に不寝番を務めるのは、いくつか理由があった。
一つは、以前から引き続き行ってきたことではあるが、率先して働く姿を見せることで廃棄街の面々と打ち解けるため。
コルラードは兵士から従士、従士から騎士、そして騎士から準男爵へと至った身である。そのため“下の者達”の気持ちがよくわかり、同時に、どんな上役が好まれ、嫌われるのかも理解していた。不寝番を務めるのも良く言えば連帯を強めるため、悪く言えば人気取りの一環だ。
一つは、夜間に何か問題が起きた際、責任者として即座に動けるよう備えるため。
有事の際、即座に指示を出せる人間がいるのといないのとでは初動に大きな差が出る。その点、スペランツァの町における現場責任者であり準男爵でもあるコルラード以上に適任な者はいなかった。
準男爵という立場ならばレウルスも同様だったが、新婚で家庭の切り盛りが大変だろうと気を利かせた面もある。
一つは、視界が遮られる真夜中だろうと音と気配だけで危険が迫っていると判断できる者が少ないためだ。
領軍の兵士として鍛えている冒険者達だが、コルラードから見てその練度はお世辞にも高くない。相手が魔物ならまだしも、対人戦闘ではまだまだひよっ子だ。そして警戒や防衛などの経験も少なく、コルラードとしても完全に任せきるのは心許ない。
現状のスペランツァの町でコルラードが安心して警戒を任せられる者など、魔物並みに勘が鋭いレウルスか、時折不寝番を手伝ってくれるジルバか、なんだかんだで頼りになるドワーフ達ぐらいだ。元々部下として率いていた者達は冒険者達よりマシだが、任せきるのは不安がある。
(……いや、こうして考えると戦力が多いであるな。うむ、非常に多いのである)
やはり不寝番の頻度を減らしても問題ないのでは、と思えるぐらい戦力が充実している。それがどれほど恵まれたことなのか理解できるコルラードは、せっかくの機会だからと見張りついでに今後の防衛態勢について検討し始めた。
「……む?」
だが、すぐさま不審な足音に気付いてコルラードは思考を打ち切る。そしていつでも抜けるようにと傍に置いていた剣の柄を握った。
(軽い足音……二足歩行の走り方……魔物ではなく人間のもの……)
昼間は作業の音で騒がしいスペランツァの町も、夜間は静かなものだ。ドワーフ達が酒盛りで騒がなければ遠くの音を聞き分けることも容易なほどに音がよく響く。
そのため聞こえた足音が人間のものだと看破したコルラードだったが、その足音から誰が近付いてきているのかを察して小さくため息を吐いた。
足音はコルラードの真下――すなわち見張り台の傍で止まり、数秒としない内に梯子が軋むように音を上げ始める。
コルラードとしては外れてほしいと思いながら視線を向けると、ちょうど梯子を登り切ったアリスと視線がぶつかった。
厚手ながらも町娘が着るような簡素な衣服で、立場に見合わぬ身軽さで見張り台に登ってきたアリスは、コルラードの顔を見るなりにっこりと微笑む。梯子を登っている最中に声をかけるのは危険だと思い止めなかったコルラードだったが、さすがにため息を止められなかった。
「はぁ……いくら町中とはいえ御令嬢が一人で夜中に出歩くのは危険ですぞ? それに見張り台の上に登ってくるなど……」
「えへへ……コルラード様とお話がしたくて来ちゃいました!」
しかしアリスは嬉しそうに笑うばかりで、コルラードとしてはやりにくいことこの上ない。それでもアリスが見張り台から落ちないようにと体の位置を横にずらせば、即座にアリスが体を滑り込ませてくる。
「レウルス、いやさヴァルザ準男爵殿は止めなかったのですか?」
「はいっ! なにやらクリスちゃんとティナちゃんを呼んで真剣なお話をするみたいで、“部外者”のわたしは邪魔だと思い出てきました。あっ、コルラード様とお話がしたいのは本当ですよ?」
「ふむ……あの二人を相手に話、ですか……」
それだけでおおよその事情を察したコルラードは、それならば仕方がないと割り切る。クリスとティナの扱いに関しては、レウルスに任せておけば問題はないと判断していたからだ。
「ふぅ……北部と比べれば温かいですけど、夜になるとさすがに寒いですね。見てくださいコルラード様、吐く息が真っ白です」
そして、コルラードにとってはクリスやティナのことよりも、隣に座ったアリスの扱いをどうするかの方が難題だった。今も、吐く息の白さにはしゃぎながらもさりげなく距離を詰めてきているアリスに、どう対応するべきなのか悩むほどなのだ。
(いや、これはこれで良い機会……と判断するべきであるな)
幸いにも、というべきか周囲に人の気配はない。そのためコルラードは一度咳払いをすると、見張りとしての警戒心を残しながらもアリスへ視線を向けた。
「サルダーリ侯爵令嬢殿」
「アリス、と呼んでください」
「……では、アリス殿」
笑顔で名前を呼ぶよう言われ、出鼻をくじかれたように思いながらもその名前を呼ぶコルラード。それだけでアリスは花が咲いたように嬉しそうな笑みを浮かべる。
「できればすぐに見張り台を降りていただきたいですし、吾輩も周囲を警戒しながらになりますが……せっかくの機会ですし、腹を割って話しましょう。正直なところ、吾輩は貴女に疑いを持っています」
「疑い……ですか?」
こてん、と可愛らしく首を倒して不思議そうな顔をするアリス。その仕草は自然なもので――“だからこそ”コルラードは表情を厳しいものへと変える。
「貴女がこの町を訪れた……いえ、わざわざこの町に残った理由。それが見えてこないのですよ。レウルスならば勘で見抜けるかと思いましたが、あやつが何も手を打っていない以上、吾輩が確認するべきだと思いましてな」
そう言いつつ、コルラードはアリスに気付かれないよう適度に体を脱力させる。ないとは思うが、仮にアリスが害意を見せれば即座に対応できるように備えたのだ。肩が触れ合うような至近距離かつ狭い見張り台の上だが、コルラードは徒手空拳だろうと並の兵士には負けないほどに腕が立つ。
そんなコルラードの様子に気付いていないのか、気付いていて敢えて見逃したのか、アリスは恥ずかしそうに頬を赤く染めてはにかむ。
「えっ……わたしがこの町に残った理由を、わたしの口から説明しろと……さ、さすがにそれは恥ずかしいです……」
「…………」
赤くなった頬に両手を当て、恥ずかしそうな様子のアリスにコルラードは思わず無言になった。どこからどう見ても羞恥に頬を赤らめる少女にしか見えず、多くの貴族と接してきたコルラードの観察眼をもってしても演技とは思えなかったのだ。
「……サルダーリ侯爵領からこの町まで、貴族の御令嬢が旅するにはあまりにも遠い。いくら王都からの道程はレウルス達がいたとはいえ、普通の御令嬢ならば危険だと判断するでしょう」
馬車に乗り、護衛にレウルス達という手練れがいたとしても躊躇うはずだとコルラードは言う。近隣の町や村に行くため短期間の移動をするというわけではないのだ。マタロイ北部のサルダーリ侯爵領から南部のスペランツァの町までは遠く、街道を利用しても一ヶ月近い旅が必要となる。
(王都で社交界に参加して異性を射止めようと手を尽くす……そんな貴族としての“当たり前”からかけ離れた行動である。これが末端の貴族、あるいは大きな家とつながらなければ衰退するならまだわかるのであるが……)
アリスの普段の態度を見れば、何を目的としているかコルラードにも察せられる。むしろ察することができない人間がいれば鈍感という言葉でも済まないだろう、と思うほどだ。
コルラードとアリスはレウルスとルヴィリアのように、吟遊詩人に謳われるような出会いや付き合い、紆余曲折があったわけではない。アリスがスペランツァの町に来るまでコルラードとは完全に初対面だったのだ。
以前どこかで会っていて、アリスがコルラードの元を訪れるだけの何かがあったというわけでもない。他国で歩測を可能とする程度には記憶力に自信があるコルラードは、そんなことはなかったと断言できる。
だからこそコルラードには解せない。遠路遥々スペランツァの町を訪れ、ここまであからさまな好意をぶつけてくるアリスの魂胆が心底読めない。戦いの駆け引きと比べると男女間の駆け引きは不得手だが、その不得手さを差し引いてもアリスの行動は異常だった。
――少なくとも、コルラードにとっては異常だった。
「そこまでの危険を冒してでも会いに来る価値が、ご自身にはないと?」
そんな警戒を見抜いたように、アリスが微笑んだままでコルラードの瞳を覗き込む。仄かな月明りに照らされた金糸のような髪がさらりと揺れ、コルラードの腕を僅かにくすぐる。
見張り台の上ではそこまで広くないが、大人が三人程度は乗れる広さがあった。それだというのに触れ合うような距離で視線を向けてくるアリスに、コルラードはこっそりと胃薬を飲みたくなる。
「……ない、とは言いませぬ。これでも初代の準男爵。後々のことを考えれば吾輩に会いに来る価値がゼロとは言いませぬ……が、侯爵家の御令嬢たるアリス殿が訪れる理由にもなりませぬな」
侯爵家の令嬢とは言うが、四女ともなると結婚相手の格は相応に下がる。
コルラードの見立てではサルダーリ侯爵家に仕える将来有望な騎士か、協力関係にある貴族家の次男や三男、あるいは当主の妾や隠居した元当主の後妻として嫁ぐのが相場か。
しかしアリスの器量ならばどこぞの高位貴族の嫡男に嫁いでもおかしくはないとも思える。いくら初代の準男爵とはいえ、サルダーリ侯爵領から遠く離れている上に顔もあわせたことがない自身のもとへと赴くのはコルラードとしては解せない。
短い期間ながらもアリスと接してきたコルラードから見て、アリスは貴族の令嬢としての“完成度”が相当高い。様々な事情から社交の機会が乏しかったルヴィリアと比べれば、年下にもかかわらずアリスの方が勝るだろうと推察するほどだ。貴族家の嫡男、あるいは長女と比べても引けを取らないのではないか、とコルラードは評価する。
これから発展を遂げていくであろうアメンドーラ男爵領において、腹心とも言える立場のコルラードに嫁ぐのは大きな利益がある。それはコルラードも認めるところだが、アメンドーラ男爵領が発展していくと判断できるのはコルラードが現地で働いているからこそだ。
仮に王都で情報を仕入れたとしても、アリスが嫁ぎ先として魅力的だと判断するのは難しいはずだ。現地で数十名のドワーフ達と協力しながら開拓を進めているなど、普通に考えれば与太話にしかならないのだから。
(それにこの娘、利益だけで近付いてきたように見えないのがなんとも……)
そしてなによりもコルラードを困惑させているのは、アリスから真っすぐな好意をぶつけられている点である。歓心を買うためだけとは思えないほど純粋な好意は演技には見えず、それが余計に困惑を招いていた。
人間の欲望というものは、見る者が見れば容易に透けて見えるものだ。欲望を隠すのが上手い者、下手な者、個人差はあれどコルラードは観察眼に自信がある方である。
いくらアリスが年齢に反して貴族としての仮面を被るのが上手だろうと、コルラードとは生きてきた年数、重ねてきた経験、乗り越えてきた場数が違う。
だからこそ見抜ける――が、見抜けるが故にコルラードは苦悩する。
(利益だけではないからこそわからぬ……思い出せないだけで何かしらのつながりがあった? いや、ないのである。断言できる。しかし、そうなると余計にわからぬ……)
ここまで好意をもって接してくる理由が見えない。コルラードから見て何故そこまで、と言いたくなるほど慕ってくるレウルス以上にアリスの“裏”が読めない。レウルスに対しては剣の手ほどきをしたためまだ納得できるが、アリスに関しては本当に読めないのだ。
「王都でレウルス様からコルラード様のことを聞いたことがありまして……それでお会いしてみたいと思ったんです」
そんなコルラードの疑問と困惑を知ってか知らずか、アリスは笑顔のままでそう答える。
「それだけで、ですか?」
コルラードの警戒心が一気に高まった。事前にレウルスとは話をしたが、社交界で一度、サルダーリ侯爵と自身の体形が似ているといった話をした程度だと聞いていたからだ。
「それだけです……と、お答えするとコルラード様に疑われそうなので白状しちゃいますね? 実はコルラード様に関しては色々と情報を集めていました。王都でレウルス様に会うより以前からです」
「…………」
これ以上はないと思っていたコルラードだったが、更に警戒心が高まる。その脳裏には何故、という疑問が渦巻き、いつでも動けるようにと備えていた体が無意識の内に強張った。
「何故、と、お聞きしても?」
それでも表面上は冷静に疑問をぶつけるコルラード。命がかかった戦いとは別種の緊張感を抱きながらの問いかけに、アリスは困ったように微笑む。
「そこまで大した理由はないんです。貴族の子女としての務めを……嫁いでも問題ない年齢と体になったので、マタロイ国内で“良い相手”がいないかを探すことになりまして」
その候補として情報が入ってきました、とアリスは言う。
「それは……光栄なことですな」
四女とはいえ侯爵家の令嬢の嫁ぎ先の候補として名前が挙がった。アリスのこれまでの行動を見ていなければ、コルラードも素直に光栄だと思えただろう。しかし、今のコルラードにとっては社交辞令以上の意味はなかったが。
そんなコルラードの心情を知ってか知らずか、アリスは気が抜けたように笑う。
「サルダーリ侯爵……お父様はわたしの意思を優先すると仰ってくださいました。正確に言うと、お父様がそう言ったのはわたしだけでなく他の兄弟姉妹に対してもですが」
「サルダーリ侯爵は子が多い方ですからな……」
アリスは四女である。つまりその上に三人の姉がおり、サルダーリ侯爵家にはアリスにとっての兄、弟、妹と子沢山といえるだけの子どもがいた。
「家督は長兄が継ぎますし、他のお兄様方もその支えとして残ったり他家に婿入りしたり……お姉様方もあちらこちらへと嫁入りしています。長兄はともかく、他の兄弟は皆、割と自分の好きなように将来を決めることができました」
「それはそれですごい話ですな。さすがはサルダーリ侯爵殿、と言うべきでしょうか」
兄弟姉妹が家督を狙って殺し合うというのも、貴族なら珍しいことではない。コルラードの記憶ではサルダーリ侯爵家で内紛が起きたことはなく、兄弟仲も良好という貴族家の中でも珍しい部類だった。
(……いや、そんな家だからこそアリス嬢のような子どもが育ったのかもしれぬな)
年頃の少女らしい明るさと、貴族の子女として徹底的な教育を施されたであろうアリスの才覚。四女ともなると教育もおざなりになるか、最低限の教養だけ身につけさせて嫁入りさせることも珍しくない。それでもここまで“育ってみせた”のはアリス本人の努力か、サルダーリ侯爵家の教育が良かったのか、その両方か。
そこまで考えたコルラードだったが、ふと疑問を覚えて首を傾げる。
「嫁入り先を探していた、というのは理解しました。吾輩に関して調べたというのもサルダーリ侯爵家ならば容易でしょう。ですがアリス殿、そもそもの話、何故吾輩が候補に挙がったのですかな?」
アリス側の事情はコルラードも理解した。アリスが嘘をついていないという前提になるが、適齢期になったことで嫁入り先を探すというのも自然な話だろう。だが、そこで何故自分が選ばれたのかがコルラードにはわからなかった。
情報を調べるといっても、金がかかる上に手間も時間もかかる。そこまでの時間と金をかけて調べるに足る“何か”がなければ動かないと考えるのが普通だろう。
サルダーリ侯爵家はマタロイ北部の貴族達を取りまとめる大家である。その分影響力も大きいが、様々な場所で便利遣いされていた自分のことを調べるのは手間だったはずだとコルラードは思った。近場の情報を集めるのと、国内とはいえ遠い場所の情報を調べるのとでは必要となる金銭も時間も桁違いになる。
「ふふっ……コルラード様は案外ご自分のことを理解されていないんですね?」
だが、そんなコルラードの疑問に対してアリスは口元に手を当てながらおかしそうに笑う。それはからかうような、微笑ましいものを見たような、年齢に見合わない大人びた笑顔だった。
「とはいっても、コルラード様のことを知ったのは偶然です。レウルス様が叙爵する際にお父様が推薦をしたというのはご存知だと思いますが、レウルス様に関して調査を進めていくとコルラード様の情報も自然と集まってきたんですよ」
「……調査?」
「はい。当家の領内にあるメルセナ湖に現れた巨大なスライムを倒した勇者……レウルス様やその周囲を探ってみると色々と情報が集まったみたいでして」
集めるよう指示したのはお父様ですよ、とアリスは言う。そのアリスの口ぶりに、今更ながらコルラードは戦慄する。
(今までと口調や雰囲気が……これが生粋の貴族であるか?)
これまでコルラードが見てきた元気の良さが鳴りを潜め、貴族の子女らしい気圧されるような雰囲気を身に纏いながらアリスは話を続ける。
「レウルス様の剣の師匠であり、あの『風塵』様に仕えた従士であり、マタロイ各地を駆け巡って多くの貴族家の依頼をこなした熟練の騎士。あなたのことは多くの貴族が知っていましたし、評価もしていました。その評価があったからこそ一代で準男爵に至ることができた」
指折り数えるようにして、アリスは語る。
「お父様がレウルス様を騎士に推薦する際、いくつかの貴族家が後押しした結果準男爵に叙されました。でもコルラード様の場合、アメンドーラ男爵様が推薦したというのもありますけど、それを後押しした貴族家の数はレウルス様よりも多かったんです」
どこか誇らしげに、嬉しそうにアリスは語る。
「それだけの評価を得ている方を一目見てみたい、叶うなら嫁ぎたい。そう思うのはおかしなことですか?」
「しかし、そうだとしても危険な……」
「王都までは当家の兵士が一緒でしたし、王都からも英雄譚に謳われるような強者や他国にまで名が知れ渡った精霊教徒、かの『風塵』様まで一緒にいたのです。本当に危険だと思います?」
「いえ、それは……」
じっと、瞳を覗き込みながら尋ねてくるアリスにコルラードは勢いを失う。しかしそれでもと、危険は少なくともそこまでの苦労をして自分に会う価値があるのだろうか、と視線を横に逸らす。
「……吾輩は、貴女がそこまで評価するほどの人間ではありませぬ。英雄には程遠く、強者と呼ばれるには弱く、賢者と呼ばれるには愚かな……ただの人間なのですよ」
コルラードにできたのは、そこまでして会う価値はなかったという後ろ向きな主張だけだった。普段ならば見栄の一つも張っただろうが、アリスを前にすると隠し通せる気がしなかったのである。
「“それ”なんです。わたしがコルラード様とお会いしたいと思った理由は」
だが、コルラードの言葉を聞いてもアリスは揺らがない。むしろ僅かに開いていた距離を詰めるようにしてコルラードへ身を寄せる。
「ご不快かとは思いますが、少し調べただけで本当に多くの、様々な情報が得られました。王都の商家、その三男として生まれたものの家業を継ぐことはできずに王軍へ入隊。兵士の一人として勤勉に働き、その働きぶりを買われて『風塵』様の従士に。そこから騎士へと推薦され、部下の方々と共にマタロイ各地で依頼をこなす。その働きぶりは、本当に多くの方が評価されているんです」
北部貴族にも知る者が多くいました、とアリスは真剣な表情で語る。
「一騎当千の強者ではなく、類稀なる軍功を挙げた勇者でもなく、権謀術数を極めた智者でもなく、実家の商家が大きいわけでもない。それでも一代で準男爵に至った……“そんなあなた”だからこそ、わたしは会いたいと思ったんです」
「い、いや、ですが……」
熱のこもった声色に、コルラードは気圧されるようにして視線を逸らす。
コルラード自身、アリスの言う通り強者でも勇者でも智者でもないと思っている。実家も王都で商売ができる程度には大きいものの、商家として見れば中堅に手が届くかどうか。本当に大きな商家と比べれば風が吹けば飛ぶ程度の規模でしかない。
それでも、アリスの言葉にまぎれもない称賛が込められていたからこそコルラードは狼狽し、同時に奇妙なほど負い目を感じてしまう。
「仮に……そう、仮に! アリス殿が吾輩に嫁ぐためにこの町に来たのだとしても、吾輩とアリス殿では年齢の差が大きく……」
「歳の差がある結婚なんて貴族の間では珍しくないですっ!」
コルラードの態度から攻め時だと判断したのか、アリスは普段のように明るく、それでいて強い口調で言い切った。それを察しつつもコルラードは必死に逃げ道を探す。
逃げ道を見つけなければ、押し切られてしまいそうだと察したからだ。
「そ、それに、吾輩はこの通り不摂生で太っていますし、健康面で不安が……」
「――それ、嘘ですよね?」
コルラードの逃げ道を塞ぐようにして、アリスが笑顔で首を傾げる。表情こそ笑顔だった、その瞳は見透かすようにして笑っていなかった。
「わたしがコルラード様にお会いしたいと思った最後の理由なのですけど、あなたの容姿について話を聞いたからです」
「……えっ? それは、その、吾輩のように太っている輩が好み……と?」
中々に奇特なご趣味で、という言葉を辛うじてのところで飲み込むコルラード。レウルスから話を聞いてはいたが、実際にアリス本人の口から聞くと驚きが大きかった。
そんなコルラードの反応をどう思ったのか、アリスは口元に手を当てておかしそうに笑う。
「ふふっ……合っていますけど違います。お父様みたいな体形の方……というより、お父様みたいな在り方をされている方が好きなんです」
そう言って、アリスはコルラードから視線を外して遠くを見る。
「コルラード様から見てわたしのお父様は……サルダーリ侯爵はどんな方ですか?」
「……直接お会いした機会はほとんどありませぬが、北部貴族の方々を取りまとめるに足る人徳を持ったお方かと」
「貴族としての能力は?」
「…………」
重ねての問いかけに対し、コルラードは沈黙を選ぶ。コルラードの見立てではサルダーリ侯爵の貴族としての能力はそれほど高くない。むしろ侯爵という立場にある人間としては低いとすら言えただろう。
だが、優秀な部下達を多く抱えて信任し、更には周囲の貴族が手助けをしている。部下を上手く扱うという点では優秀な貴族と言えるかもしれないが、周囲の貴族が隙を狙ってつけ込むどころか手助けするなど本来は異常な出来事である。
マタロイという国に属する貴族同士、協力するのは“建前の上では”当然かもしれない。しかし、様々な利害関係によって近隣の貴族と小競り合いをするのは日常茶飯事といえた。
当然ではあるが、マタロイ北部の貴族達の間で小競り合いが全くのゼロということはあり得ない。それでもサルダーリ侯爵が上手く仲を取り持ち、小競り合いの範疇で済んでいる。
(アリス殿の口ぶりから察するに、そう仕向けているのはサルダーリ侯爵殿……)
“上手く担がせる”ことで多くの貴族達をまとめているのだろう、とコルラードは推察した。
「なるほど……サルダーリ侯爵殿の普段の振る舞いは演技だったということですか」
それは見抜けなかった、とコルラードは唸る。貴族間の調整能力は卓越しているが、サルダーリ侯爵個人の能力に関してはコルラードも高い評価をしていなかった。それでも侯爵家の当主として周囲の目を誤魔化せるほど卓越しているのだろう。
「いえ、お父様は素であの性格です。演技じゃないです」
「…………」
アリスに笑顔で断言され、コルラードは再度沈黙する。それならば今の前振りはなんだったのかと思考を軽く混乱させた。
「本当に演技じゃないんです。でも、担ぐ神輿が軽すぎては担ぐ方も困るだろうって、少しでも貫禄を出せればって……そういう思いから今みたいな体になったそうです」
アリスが何を伝えようとしているのかコルラードに見えてこないが、それでもアリスの表情を見ればその真剣さが伝わってくる。苦笑するような、困ったような、それでいて温かみがある笑顔を浮かべていた。
「常に笑っていて、どっしりとしていて、何か問題が起きても笑ったままで……笑っている場合じゃないって家臣の人達に怒られたりもしますけど、家臣の人達はお父様の笑顔を見たり、お父様を怒ったりすることで落ち着きを取り戻すんです」
「それは……中々、珍しい形の御家中ですな」
「はい。もっとしっかりしてほしい、ちゃんとしてほしい、なんて言いながらお母様も笑っていました。お父様のことを教えてくれたのはお母様でしたけど、あれは完全に惚気でしたね。私もそんなお父様の在り方が好きで、コルラード様は……」
そんな話をしながらアリスはコルラードへ視線を向け、照れたようにはにかむ。
「期待以上、いいえ、期待を遥かに超える方でした。許していただけるなら、嫁がせていただきたいと心から思える方です……だめ、ですか?」
言葉通り期待を込めて見上げてくるアリスに、コルラードはそっと視線を逸らす。アリスが本気だということは伝わってきた。話を信じるならば、サルダーリ侯爵と同じような在り方をしているからこそ好印象だったのだろう。
だが、コルラードからすれば自身とサルダーリ侯爵は似ていない。体形が似ていて在り方も似ていると言われても、頷けない。
「吾輩は……サルダーリ侯爵殿とは違います。ここまで体重を増やしているのも戦いに少しでも有利になるようにと……いえ、“悪あがき”の一種なのですよ」
少なくとも、アリスは本気だ。だからこそコルラードも本気で向き合うことにする。
「アリス殿は評価してくださいましたが、吾輩は私欲にまみれていますし虚栄心も強い。サルダーリ侯爵殿とは違って貫禄を出すためではなく、己を少しでも強く見せるため、そして実際に少しでも強くなるためにこうして太っているのです」
「……と、仰いますと?」
「単純な話です。体が大きいものはそれだけで強いのですよ。吾輩にはレウルスのように並外れた『強化』の魔法やジルバ殿のように卓越した技術、隊長殿……『風塵』殿のように全てを薙ぎ払える強力な魔法もない」
コルラードは自身の両手に視線を落とし、何かを確かめるように手のひらを開閉する。腕や足、腹回りには筋肉だけでなく厚い脂肪もついているが、その手のひらは長年の修練によって皮が分厚く、硬く変わっていた。
「それでも、吾輩と同じように『強化』しか使えない者、魔法が使えない者が相手ならば体格差と体重差はあればあるほど良い……本当に強い者には勝てないとわかっていても、少しでも多くの者に勝ちたいと足掻いた結果が“これ”なのですよ」
コルラードは『強化』が使える分、魔法が使えない者と比べれば恵まれていた――が、それは同時に呪いでもあった。
魔力は並の魔法使い程度しかなく、少し魔力が多いだけの魔法使いが相手でもコルラードが力負けすることはよくあった。それがナタリアのように卓越した魔法使いであれば猶更で、いまだに苦手意識が拭えない原因でもある。
魔力の多寡は生まれもっての才能に因るところが大きく、コルラードの魔力が劇的に大きくなる見込みはない。何かしらの属性魔法が使えれば違ったのかもしれないが、幸か不幸か、コルラードは『強化』しか使えなかった。
――他人よりは恵まれているが、本当に優れた者にはどう足掻いても勝てない。
それを理解し、それでもと足掻き続けても現実は変わらない。
様々な武器を扱えるよう修練し、可能な限り学び、成せる限りのことを成した。その結果として準男爵に叙されたことを思えば実を結んだと言えるだろうが、コルラードには最早己の限界が見えている。
他者との縁には恵まれていたのかもしれない。運もあったのかもしれない。それでもここから先、自分は老いて弱くなっていくだけだとコルラードは理解していた。筋肉をつけ、脂肪を纏い、技術を磨いても己の限界がわかってしまったのだ。
準男爵に昇り詰めた以上、自身を鍛える必要もない。これから先、戦う機会も減って部下に任せることになるかもしれない。それこそレウルス達に任せてしまえば良い。
だが、それでもと足掻いてしまうのだ。英雄譚に謳われるような存在になれずとも、自分はまだまだこんなものではないと渇望してしまうのだ。
侯爵家の当主として少しでも貫禄や威厳を出すために足掻いたサルダーリ侯爵とは、似ても似つかない。立場に相応しいものを身につけようとするのと、身の丈以上のものを目指すのとでは大きく違う。
だからこそ、己の心情を吐露したコルラードは恥じた。自分はわがままで、強欲で、見栄っ張りなのだと。
そんなコルラードの話を聞いていたアリスは無言だった。ただ静かにコルラードの話を聞き、最後にはそっとコルラードの腕に手を伸ばす。
コルラードが語った通り、その腕は脂肪が多い。それでも脂肪の中には頑強な筋肉が詰まった、懸命に戦い続けた者の腕だった。
「やっぱり……うん、やっぱり正解でした。あなたに会いに来て、会うことができて良かった」
コルラードの腕を服越しにそっと撫でながら、アリスは納得したように微笑む。心底から良かったと、正解だったと笑う。
「わたしが知る限り、兵士や従士、騎士の方でコルラード様のように太っている方は滅多にいません。いたとしても、コルラード様と違って一線を退いて“本当に”太ってしまった方でしょう」
アリスに腕を撫でられたコルラードは動きを止め、一体何事かと思いながらアリスの言葉に耳を傾ける。アリスが浮かべた笑みは年齢不相応な、大人びた笑みだった。
「気苦労も多いでしょうし、実戦だけでなく普段の訓練を行うだけでも自然と痩せます。だからこそ、と見込みましたが正解でした。あなたは現状に満足せず、上を目指して足掻き続けることが出来る…‥本当に素敵な方です」
アリスはコルラードの言葉を、在り方を肯定する。それが良いのだと本心から告げる。
「私欲にまみれている? 大いに結構です。過ぎた欲望は破滅しますが、私欲のない貴族もまた破滅します。見栄を張っている? これまた大いに結構です。殿方ですもの。意地も見栄も大事ですし、それらを張れない殿方をわたしは好みません」
コルラードを肯定した上での、率直な褒め言葉。そして、気付けばアリスの声色にも自然と熱がこもっていた。
「そんなあなただからこそ、わたしは求めます。尊敬できて、一生を共に歩みたいと思えます。コルラード様にとっては、わたしのような小娘はご不満かと思いますが……」
「い、いえ、不満……ということは……」
それまで詰め寄っていたアリスの、一歩引いたような言葉。それを聞いたコルラードは反射的に首を横に振っていた。話を聞き、話を聞いてもらった今となっては、先ほどまで感じていた躊躇や戸惑いが消えていたのだ。
「先ほどのように言っていただけたのは初めてで……それは嬉しく思います。ですが、こうなるとやはり、アリス殿のような才媛にはもっと別に相応しい者がいるのではないか、と」
躊躇や戸惑いは消えた。その代わりに、コルラードの胸中には申し訳なさと遠慮の気持ちが芽生えつつあった。
ここまで肯定されたのは、コルラードの人生の中でも初めてのことである。それも世辞ではなく、本心でそう思っていることが伝わってきた。
それ故にコルラードも揺らぐ。貴族の子女として高い素質と能力が感じられ、コルラードを肯定し、それでいて何かあれば背中を押して前に進ませる。そう感じ取れるアリスだからこそ、他に相応しい相手がいるだろうとも思ってしまう。
そう思えるだけ、アリスへの印象が変化しているのだろう。そんなコルラードの変化を読み取ったアリスは、にこりと笑う。
「コルラード様、わたしのことを思ってそう言ってくださるのは嬉しいです。でも、相応しいだとか相応しくないだとか、そんなことはどうでもいいのです」
言い切って、アリスはまっすぐにコルラードの瞳を見詰める。
「わたしはあなたを求めました。そんなわたしに、あなたは応えてくださるのか……それだけの話なんですよ?」
あとはコルラードの気持ち一つだと、話の決定権を委ねるアリス。その言葉と瞳にぐらりとコルラードの理性が揺れ――首を横に振った。
「この場の勢いだけで決めるわけにはいきますまい……ですが、アリス殿が許されるなら、これからは前向きに検討させていただきたいと思いましたぞ」
断り文句にも聞こえるが、コルラードとしてはこれ以上ない本心だ。ここまで腹を割って話をして、アリスのことをもっと知りたいと思ったからこその言葉だった。
そんなコルラードの言葉が意外だったのか、アリスは目を瞬かせる。そして外見相応に子どもらしく頬を膨らませたかと思うと、コルラードの腕をぽかぽかと叩き始めた。
「もうっ! コルラード様、そこは俺の嫁になれって言うところですよっ!」
「そんなことを言ってしまったら、吾輩は明日から町の皆に何と言われるか恐ろしくてたまらないのですが……」
それまでの雰囲気が嘘だったように子どもらしい仕草を見せるアリスだったが、コルラードとしては苦笑しながらそう言う他ない。既に外堀を埋められている気もしたが、貴族の結婚となると手間も面倒も多くかかるのだ。
「さて、アリス殿はそろそろ見張り台を降りてレウルスの家に」
「戻りませんっ! せっかくの機会ですっ! コルラード様のことをもっと知りたいですし、見張りのお邪魔にならない程度にお話をしましょう?」
「いやいや、さすがにそれは……」
駄々をこねるようにしてコルラードを見上げ、アリスはその瞳を涙で潤ませる。
「だめ、ですか?」
「……今回だけですぞ?」
コルラードはため息を吐くようにして承諾した。途中で飽きるか、眠りそうならばレウルスの家まで送れば良いだろう。
そうして見張りながらアリスと言葉を交わし――その距離が今までより一歩近付いていたことに、コルラードは気付かなかった。




