第610話:新生活 その6
食堂にジルバが姿を見せた――正確に言えばその存在感を露わにした瞬間、それまで騒がしかった食堂の中が瞬時に静かになる。
ジルバは普段通り精霊教徒の黒い衣服に身を包み、友好的な笑みを浮かべている。だが、この場にいる者達はジルバがどのような存在なのか理解していた。
マタロイという大国においても精霊教徒や一般市民、果ては兵士や貴族達からすらも『膺懲』の二つ名で知られ、グレイゴ教徒からは『狂犬』の二つ名で知られるジルバが、グレイゴ教の司教の前に立っている。
仮にこの場にいるのがクリスやティナではなくカンナならば、挨拶の言葉を交わす暇もなく殺し合いが始まっていただろう。そう思わせるだけのグレイゴ教徒との確執と実績がジルバにはあった。
「ジルバさん……」
一体いつからそこにいたのか。姿を見せたジルバの名をレウルスが呼ぶ。
それまで喜びの涙を流していたクリスとティナも、司教に至るほどの才覚と研鑽を証明するよう瞬時に表情を引き締め、いつでも動けるようジルバに向き直った。
ただし、緊張を表すようにクリスとティナの狐耳が小刻みに動き、腰から伸びる尻尾もピンと立って毛を逆立たせている。至近距離でジルバの前に立っているため、自然とそうなってしまうのだ。
(この人は相変わらず読めねえな……)
笑顔でクリスとティナを見る――しかしその瞳は欠片も笑っていないジルバの姿に、レウルスは内心で呟く。
ジルバならばなんだかんだでクリスとティナに対して悪いようにはしないのではないか、とレウルスは思っていた。グレイゴ教徒に対しては苛烈なジルバだが、それ以外の部分では頼りになり話もわかる。
事実、レウルスもジルバを頼ることが多々あった。実力、知識、経験。それらを総合した場合、レウルスが知る中でも屈指の人物だからだ。
だからこそ、司教とはいえクリスとティナのような子どもが相手ならば話を聞いて冷静に判断してくれると思っていた。
――本当に?
そう思っていたというのに、思わずレウルスの心中でそんな疑問が湧き出るほどグレイゴ教徒に対するジルバの行動は読めない。
王都にいた際、クリスとティナの扱いに関してレウルスに任せるとジルバは言っていた。それがあるからこそレウルスもスペランツァの町に連れ帰り、こうして面倒を見ている。
ジルバが一度口にしたことを覆すとは思えない。レウルスはそう思っているが、いざジルバを前にすると自信が持てなくなる。
ジルバの精霊に対する信仰心は本物だ。それこそジルバと戦った大司教のワイアットが度肝を抜かれるほどに本物だ。前世を含めて信仰や宗教に疎いレウルスでは理解が及ばないほど、ジルバの信仰心は篤い。
ジルバの恐ろしいところは、それだけの信仰心を持ちながらも精霊に対して盲目的ではない点だろう。サラやネディ、そして最近は密かにミーアに対しても毎日祈りを捧げているジルバだが、精霊の言動を全て肯定するというわけでもない。
時に肯定し、時に否定し、時にたしなめ、時に予想もできないことを行う。それがジルバという人物だ。クリスとティナが今後スペランツァの町で生活していくにあたり、絶対に説得が必要となる相手なのだ。
それを理解しているのは、レウルス達よりもむしろクリスとティナの方だろう。二人にジルバと交戦した経験はないが、グレイゴ教の中にいればジルバがどのような人物なのか嫌でも耳に聞こえてくるのだから。
警戒しつつも、クリスとティナが前に出る。そしてジルバの前に立つと、真っすぐに見つめて話しかけた。
「『狂犬』……ううん、ジルバ……さん」
「クリスとティナから、話がある」
「ほう……私に、話」
意図してのことか、あるいはレウルスの錯覚か。普通に答えているだけだというのに、ジルバからは妙な威圧感が感じ取れた。
それはクリスとティナも感じているのだろう。それでも一度大きく息を吸い込むと、互いに手をつなぎ、背丈の違いからジルバをじっと見上げる。
「クリスもティナも、グレイゴ教を抜ける」
「これからはこの町で生きる……生きていきたい、から」
そしてたしかに、そう言い切った。
本来、スペランツァの町に住むとしても許可を得る相手はジルバではない。領主であるナタリアに頼むか、対外的にはナタリアの下についた形のレウルスやコルラードが自身の家中に迎え入れるか、その二択程度でジルバにはクリスとティナの居住を拒む権利などありはしない。
それでもクリスとティナがスペランツァの町で生きることを望むのなら、ジルバを始めとした精霊教徒達との和解は必須と言えた。
「ふむ……」
ジルバは自身を見上げるように見つめてくるクリスとティナの瞳を、じっと見つめ返す。ジルバというグレイゴ教徒の天敵にして強者を前にした緊張とは異なる理由で瞳を揺らす二人の少女を、その心情まで見抜くようにじっと見つめ返す。
「――ならば、好きに生きるといい」
そして一体どれほどの時間が過ぎたのか。不意にジルバの目元が緩み、苦笑するようにしてそんな言葉が食堂に響いた。
「……え?」
「……え?」
緊張していたせいか、ジルバの言葉が理解できずにクリスとティナが呆気に取られたような反応をする。しかしジルバはそんな二人の様子に苦笑を深め、膝を折って目線の高さを合わせる。
「グレイゴ教を抜け、司教であることも辞めるのだろう? それならば私が口出しすることではない。精霊様に危害を加えるならば排除するが、“ただの子ども”に向ける拳はないとも」
「ジルバさん……いいんですね?」
もしもの際はジルバを止めようと思っていたレウルスだったが、ジルバの言葉を聞いて確認を取る。するとジルバはレウルスへと視線を移し、困ったように頬を掻く。
「レウルスさん、私はこれでも精霊教徒として幾人もの孤児の面倒を見てきました。ラヴァル廃棄街でもそうでしたが、様々な事情で孤児になった……そんな彼ら、彼女らと接してきたのです」
普段、グレイゴ教徒と相対した時には出るはずもない諭すような声。真剣で温かみのあるその声色は今、たしかにクリスとティナへ向けられていた。
「あちらこちらへと出かけるので私が育てた、とは言いませんし言えません。ですがそんな私でも、この子達が司教が務まるほどに強くともただの子どもであるとわかります」
レウルスから見て、クリスとティナは子どもだ。それはジルバの目から見ても同じようで、今のクリスとティナへかける言葉はきっと。
「精霊教徒のジルバではなく、一人の人間、一人の大人としてもう一度言いましょう。好きに生きなさい。この町はきっと、あなた方の望みが叶う場所ですから」
故郷も両親も行き場も失った子どもへ贈る、ジルバなりの優しさによるものだった。
「そして、精霊教徒のジルバとして言うことがあるとすれば、ですが」
しかしここにきてジルバは言葉を切り、その雰囲気を一変させる。言葉にした通り精霊教徒、それもグレイゴ教徒に『狂犬』と呼ばれるに足る気迫を滲ませながら、ジルバは口の端を吊り上げる。
「もしも今後精霊様方を害することがあれば、誰が止めようと俺が殺す……だが、自らが望むように生きられる場所があったのだ。戦いを忘れろとは言わんが、これからは幸せに生きるのだな」
それだけを言い残し、ジルバが背中を向けて歩き出す。レウルスから見てもすんなりと退いたジルバの姿に、クリスとティナは衝撃すら覚えながら反射的にその背中を追おうとした。
「ティナちゃん! クリスちゃん!」
だが、ジルバを追うよりも先に、厨房から駆け付けたコロナが二人の名前を呼んだ。そしてそのままの勢いで二人を抱き締めたかと思うと、その背中を何度も叩く。
コロナもここまでのやり取りをずっと見ていたのだろう。レウルス達の中でティナが一番懐いていたのはコロナだったが、コロナとしても懐いてくるティナをとても可愛がっていた。そしてそれはクリスも同様で、抱き締められたクリスはわたわたと両手を彷徨わせている。
そんなコロナ達の姿を見て小さく笑ったレウルスだったが、食堂から出て行くジルバの姿に思うところがあったためその背中を追った。
いくらグレイゴ教を抜けて司教すら辞めると確約したとはいえ、レウルスが知るジルバならばもう少し厳しい態度をクリスとティナに向けると思ったのだ。
「ジルバさん!」
その背中に追いつき、ジルバの名前を呼ぶ。するとジルバもレウルスが追ってきたことに気付いていたのか、足を止めてゆっくりと振り返った。
そして、振り返ったジルバの顔を見たレウルスはふと既視感を覚える。それが一体何なのかと思考したが、すぐに思い当たる節があった。
(……なんだ? ジルバさんがおやっさんと似たような雰囲気を……いや、そうか)
普段は溌溂とした雰囲気を見せるジルバだったが、今ばかりは年齢相応――ドミニクよりも年上であることを証明するような、老いを感じさせる表情を浮かべていたのだ。
「やれやれ……私も少し、歳を取りましたか」
レウルスの反応が何を意味するのか、すぐさま思い至ったのだろう。ジルバは苦笑しながら食堂へ視線を向ける。
「昔なら司教というだけで殺していたでしょう。ですが、グレイゴ教を抜けると聞いた途端、それならばと思ってしまいました」
「……たとえジルバさんが若い頃だったとしても、子どもは殺さなかったと思いますが」
グレイゴ教徒に対しては苛烈と言う他ないジルバだが、さすがにそこまでのことはしないだろうとレウルスは語る。しかしジルバは首を横に振ると、その視線を遠くへ向けるように細めた。
「『双閃』と初めて会った時、あの娘は今より幼かった。それでも私は構わず戦いました。『疾風』と『迅雷』……いえ、クリスさんとティナさんほど幼くはなく、血の臭いが強かったとはいえ、ね」
既に納得ができたからか、クリスとティナを“他の者と同じように”さん付けで呼ぶジルバ。その様子を見る限り、今しがた話をしたようにクリスとティナに関しては最早手を出す心配はないのだろう。
「『双閃』が例外だったのではないか、と言われればそうかもしれません。当時のアレは今より幼いだけで、その在り方は何も変わっていない。しかし、昔の私がクリスさんやティナさんと出会っていれば、おそらくは……」
昔の自分の在り方を後悔している、とまではいかない。そうであるからこそジルバは数多のグレイゴ教徒を相手にして生き延びてきたのだ。
「今思えば、グレイゴ教徒が私を『狂犬』などと呼ぶのも当然かもしれません。そう呼ばれるだけのことをしてきました。無論、そのことに後悔はありませんがね」
「……そう、ですか」
ジルバがどう思っているのか、本当のところはわからない。それでもレウルスは相槌を打つと、初めて会った時と比べて年老いて見えるジルバへ言葉を向ける。
「とにかく、クリスとティナに関しては俺が責任を持ちます。しばらくはジルバさん以外の精霊教徒と揉めるかもしれませんが……」
「ああ、そちらは私がどうにかしましょう。というのも、クリスさんとティナさんに関しては司教だと伝えていないんですよ」
「そうなんですか? そりゃまた、なんでそんなことを?」
思わぬジルバの言葉にレウルスは首を傾げた。しかしジルバは苦笑を浮かべると、小さく肩を竦める。
「これまで何度も顔を合わせ、その度に話してきましたが、あの二人にはいつか、今日みたいな日が訪れるのではないかと考えていました」
予想よりも早かったですがね、とジルバは言う。
「ですがレウルスさん、先ほど私が言ったことに嘘偽りはありません。もしもあの二人が精霊様方に危害を加えるようなことがあれば……」
「ええ。わかっています」
最早クリスとティナがサラ達を傷つけるとは思えない。だが、それでもけじめとしてレウルスはしっかりと頷いた。
クリスとティナに関しては、家族と呼べるほど深い付き合いになるかわからない。それでも責任を持って止めるつもりだった。
レウルスがそう思い定めていると、ジルバは何を思ったのかレウルスへと向き直る。
「私もそうですが……レウルスさん、貴方も変わりましたよ。ラヴァル廃棄街の仲間や身内と認めた相手ならまだしも、クリスさんとティナさんはそうではなかったはずです。ですが、貴方は子どもだからという理由で助けようとしました」
「……自分では割と以前からそんな感じだったと思うんですが、そんなに変わりましたかね?」
ジルバの言葉に、レウルスは虚を突かれた気持ちになりながら首を傾げる。
「味方や身内、あるいは“敵ではない”子どもなら助けていたでしょう。ですが、直接殺し合ったわけではないにせよ、あの二人はグレイゴ教の司教だった。以前の貴方なら斬っていたのではないか、と思いましてね」
「そんなことは……いえ、否定できませんね。初めてあの二人と会った時、場所と事情が違えば殺し合っていたと思います」
クリスやティナと初めて出会ったのは、レモナの町がエリザの祖父であるスラウスに支配されていた時のことだ。レベッカもいたためそちらを警戒していたが、切羽詰まった事情がない状態で出会っていれば戦いになっていた可能性が高い。
クリスとティナが戦う素振りを見せなければ見逃したかもしれないが、グレイゴ教の司教というだけで警戒に値し、それまでの確執から剣を向けていただろう。
それを思えば、ジルバの言う通り変わったのかもしれない。そう考えたレウルスだったが、いや、と内心で声を上げる。
(変わったっていうより、戻った……戻ってきた、か? “腹がいっぱいになった”からか、コロナちゃんやルヴィリアのおかげか……レベッカのことが関係しているのか)
今でも相手が敵なら容赦なく殺せるだろう。だが、この世界に生まれ変わってから錆び付いていたように思える自身の感情がある程度はきちんと動くようになっていた。
レウルスもそれを自覚している。だからこそジルバの言葉を否定せず、レウルスは笑う。
「ま、俺も歳を取りましたからね。それにほら、所帯も持ちましたし」
それはきっと、悪くない変化なのだろう。そう思えたからこそレウルスは冗談混じりに言いながら笑うことができた。そんなレウルスに対し、ジルバも笑みを浮かべる。
「なるほど。大きな転機ですし、変化するのも当然ですね。良いことだと思いますよ」
レウルスが知るジルバのものとは思えないような、穏やかな笑み。若者の成長を喜ぶような、力が抜けたその笑みを前に、レウルスは妙に照れ臭くなって話題を逸らすように言葉を紡ぐ。
「グレイゴ教の連中が以前みたいに手を出してこないなら平和に過ごせるでしょうし、領内の強い魔物も排除できました。他所から来た人達についても町の皆が思ったより受け入れてくれそうですし……少しは落ち着いた生活ができますかね」
開拓作業があるため、落ち着いた生活と表現するのは間違っているのかもしれない。それでもスペランツァの町がある程度形作られてきたため、レウルスからすれば十分に落ち着きのある生活が送れそうだった。
(領内の魔物を探してまわるのは……まあ、良いとして。グレイゴ教徒が襲ってきたり、上級の魔物と戦ったり、旅したり、他国に行ったり……そういったことはなくなるかな?)
今となっては故郷と呼べるラヴァル廃棄街に辿り着いて以来、なんだかんだで長い期間腰を据えて生活した記憶がないレウルスである。
ナタリアからの依頼や武器探しでラヴァル廃棄街を留守にすることが多かったため、開拓当初の忙しさを乗り越えたスペランツァの町で過ごすのはレウルスとしても楽しみに思えた。
「平和なのは良いことですよ。私も気合いを入れてこの町の教会を作り上げたいですからね。それに、変化といえば精霊教を信じる方を増やしたくもあります」
「この町だとサラやネディと直接会えますし、増える時は一気に増えそうですね」
ジルバと将来に関して話す機会が少なかったため、レウルスは軽口混じりにそんなことを言う。ネディはともかく、サラと会った場合は精霊を敬うよりも先に親しみを抱きそうだとも思ったが。
「ええ。なにせ、精霊様の人間に対する深い愛情も知ることができました。その素晴らしさを説けばこれまで以上に信徒が増えるでしょう」
「ははは……え? 深い愛情?」
最早雑談だからと軽く笑ったレウルスだったが、ジルバの言葉を理解するなり首を傾げる。そして、そういえばジルバは戦った大司教から“そんな話”を聞いていたな、と思い出した。
「私が精霊教徒としてクリスさんとティナさんを許すことができたのも、慈しみ深き精霊様の在り方を知ることができたからでしょう。グレイゴ教徒全てを許せるとは言いませんが、生活のため、身を守るためにグレイゴ教徒になったあの二人に関しては仕方がなかったことなのだと思えました」
そう言って遠くを見るように目を細めるジルバ。その声色は心からの本心を語っていることが伝わってくる真剣なもので、レウルスは盛大に頬を引きつらせる。
(そういえば、クリスとティナに対するジルバさんの態度が明らかに変わったのって、この前グレイゴ教の連中と戦ってからのような……これも変化、でいい……のか?)
年老いたからこそジルバが変わったのだと思ったレウルスだったが、変化の原因は精霊に対する信仰心だったのではないか。その場合、クリスやティナのような生活のためにグレイゴ教徒になった者はともかく、カンナのようなグレイゴ教徒に対してジルバがどんな反応を見せるのか。
(……あの場所でカンナに遭遇したのは、運が良かったのかもしれん)
もしもカンナがスペランツァの町に侵入し、ジルバと遭遇していればどうなったか。互いに卓越した実力者同士のため、下手すればスペランツァの町が大損害を受けたのではないか。
その可能性に思い至ったレウルスは、順調に建設が進んでいるスペランツァの町へと視線を巡らせる。そしてクリスとティナの件が無事に落着して良かった、と心の底から思う。
(しかし、変化……変化か……)
人も場所も何もかも、時間と共に変化していく。成長や劣化、誕生や喪失など、変化の形は様々だが変わらないものはないのだ。
ここ最近それを強く実感するレウルスだったが、ジルバの言う通り自身も何かしらの変化を遂げているのだろうか、などと思った。
「これから次第ですが、あの二人が良き成長を遂げることを精霊様に祈るとしましょう」
思考するレウルスの姿をどう思ったのか、ジルバが苦笑しながら言う。ジルバの言葉を聞いたレウルスは同意するように頷き――ふと、遠目にコルラードの姿を見つけた。
「…………ん?」
そして思わず首を傾げ、見間違いかと目をこする。
そこには、笑顔でコルラードに寄り添って歩くアリスと、そんなアリスから距離を取ることもなく共に歩くコルラードの姿があったのだった。




