第59話:落着
――懐かしい夢を見ていた。
それは遠い遠い過去の残滓。セピア色がかったその光景は、切なさと郷愁をもたらすものだった。
以前見た夢よりも、霧がかかったように朧げな視界。それでも“かつて”住んでいた部屋の中で、テーブルを挟んだ向こう側に女性らしき誰かが座っているのが見えた。
その女性の顔も、既に思い出せない。女性は何かを話しているが、その内容も思い出せない。
夢の中の“自分”はテーブルに並ぶ料理に箸をつけているようだった。だが、その箸の進みは遅い。食欲がないのか別の理由があるのか、ほんの少し食べただけで手を止めてしまう。
「――――?」
「――――」
やはり女性の声は聞こえない。それでも何かを聞かれ、何かを答えたのだとレウルスは思った。
夢の中で見た前世の――平成の日本の食事は、今世と比べて色とりどりで華やかだ。
砂糖や塩に留まらず、様々な香辛料をふんだんに使うことができ、火を熾すのもコンロのつまみを捻ればそれだけで済む。焼く、煮る、蒸すといった手法で料理を作るのも容易で、便利な時代だったと今更ながらに痛感する。
夢の中ではあるが、ガスが尽きない携帯ガスコンロがあれば楽なのに、とレウルスは思った。そうすれば火打石で火種を作って火を熾す必要もない。いつでもどこでも魔物の肉を焼いて食べることができるのだが。
「――――!」
「――――!?」
夢の中で考え事をするという中々できない体験をしていると、夢の中の自分が何故か怒っていた。右手を振るい、並んでいた料理をテーブルから叩き落としている。
今の自分がその場にいれば、即座に叩き切っているだろう所業だ。剣がなくても殴り飛ばすか蹴り飛ばしているに違いない。
かつて生きていた場所では飽食の時代だ何だと言われていたが、前世の自分はこんなことをする奴だったのか、とレウルスは軽く絶望した。
“今の自分”なら物理的に食べられない物以外はなんでも食べられる。それこそ地面に落ちた料理だろうが有り難く食べるだろう。
目の前の光景のように誰かの手で地面に叩き落とされたのならば、落ちた料理を食べてから殴りかかるだろうが。
そんなことを考えながら目の前の罵り合いを眺めていると、レウルスはふと思うことがあった
――昔の俺って、こんなに青白い顔してたっけ?
“かつての自分”は疲労が蓄積しているのか生気がなく、睡眠もまともに取れていないのか濃い隈が浮かんでいる。それでいて目だけがギラギラと光っており、さながら日向を彷徨う亡者のようだ。
顔色の悪さもその印象に拍車をかけており、今となっては何故ここまで頑張っていたのかわからない。
エステルの話を思い出す限り、過労死と病死と餓死が同時に重なって死んだらしいが、シェナ村で長期間重労働を行っていても死ななかったのだ。体の作り自体が違うのかもしれないが、さすがに前世の自分の顔色は悪すぎた。
そこで夢の中の風景が変わる。
今度は一体どこなのか、数十秒理解できなかった。それでも周囲の様子を確認すると、前世で務めていた会社の中なのだとレウルスは気づく。
パソコンが置かれた机の前に座り、カタカタとキーボードをタイピングするかつての自分。表情は最早死んでいるに等しいが、その目だけは画面の文字を追っている。
「――――?」
そうやって仕事をしていると、誰かに何かしらの声をかけられた。その声に反応したかつての自分は使い古した通勤鞄を手に取り、中から布包みを取り出す。
布包みから出てきたのは弁当だった。かつての自分は中身に目もくれず、機械的に箸を動かして弁当を口に中に詰め込んでいく。
食事よりも仕事の方が大事――そう言えればまだマシだったのだろう。
この時の自分は食事などどうでも良くなっていた、とレウルスは思い出す。あるいは毎日を惰性で生きていたと言っても良い。
何事にも無感動で、何事にも興味が持てず、食事や睡眠に頓着もしない。ロボットのように動き、朝早くに出勤して終電間際に帰宅する日々。
月に数日あるかどうか、下手すれば一日あれば御の字という休日には、電池が切れた人形のように眠り続けていた。
カンナで削るように、ガリガリと人間として大切な“何か”が減っていくのだ。それに気づいたとしても、もう遅い。自分が削れることにさえ興味が持てなくなっていく。
――うん、こりゃ死ぬわ。
かつての自分が摩耗していく様を見たレウルスは、他人事のように呟いた。
ある日突然駅のホームで線路に飛び込み、鉄道関係者や乗客、果ては自分の家族に甚大な迷惑をかけなかったのが奇跡的だと思えたほどだ。
夢の中とはいえ、かつての自分が削れていく様を見るのは不快でしかない。早く目が覚めないかと思っていたレウルスだったが、再び光景が切り替わった。
その場所も会社の中の一角なのだろう。水道が見えるため、トイレか給湯室かもしれない。
かつての自分は何を考えているのか、淡々とした表情で弁当箱の中身をゴミ箱に捨てている。夢の中ということで時系列が曖昧だが、顔も思い出せない女性が作った弁当だったのだろう。
かつての自分に殺意を抱いたのは、これで何度目か。いくら疲れているといっても、やっていいことと悪いことがある。
そう憤るレウルスだったが、徐々に意識が覚醒しているのか夢の中の光景が余計に曖昧になっていく。
遠くに見えた夢の景色の中、最後にレウルスが見たのはゴミ箱の中で混ざり合った弁当の――。
「……あ」
目が覚めた。それを自覚したレウルスは思わず声を漏らしていた。
「……あーあーあー」
今更で、過ぎたことではあるのだが。
(滅茶苦茶料理が不味かったんだっけ……)
かつて共に過ごしていた女性は、料理は好きだが味が悪かった。不味いを超えて最早惨かった。米を洗剤で洗うようなタイプだった。皮むきが不十分でジャガイモの芽が残るような酷さだった。
今更になって思い出す――あるいは生まれ変わってまで思い出したくないと記憶に蓋をしていたのかもしれない。それぐらいの酷さだった。
そんな料理でも文句を言わずに食べていたのは、惚れた弱みだったのか文句を言う元気がないほど疲れていたのか。後者だった気がするな、とレウルスは一人呟く。
それでも、もう過去のことだ。今更何を思ってもどうにもならない、前世の記憶だ。
体を起こし、頭を振る。何故今更前世の夢を見たのか、そもそもここはどこなのか、そう思いながら周囲を見回したレウルスは困惑する。
「……なんだこれ」
脳裏に思い浮かんだ言葉は、死屍累々。一体何があったのか、冒険者仲間が大勢床に転がっている。ついでに言えば、酒樽も一緒に転がっている。
場所は冒険者組合の中だったが、いたるところに死体が――もとい、気を失って転がる冒険者の姿があった。
(酒どころかゲロくせぇし……)
本当に何があったのか、冒険者組合の入口ではニコラが突っ伏して寝ゲロしており、中途半端に閉じられた扉に挟まれているのが哀愁を誘った。
その光景を見たレウルスは、何があったのかを必死に思い出す。
「あー……町に戻るなり何故か宴会が始まったんだっけ……」
激動の一夜が明け、色々と後始末を終えてから町に帰還したと思えばそのまま宴会を開くことになったのだ。
ヴィラを取り逃がしたレウルスとしては気が気でなかったが、ラヴァル廃棄街の面々は死者を出すこともなく今回の戦いを乗り切った。それを祝い、また、“余所者”を撃退したことを喜ぶためにも宴会が開かれたのである。
もしかすると、それはラヴァル廃棄街の結束を高めるためのものだったのかもしれない。
ヴィラを取り逃がしたことを詫びるレウルスだったが、それは杞憂に終わる。他の場所でグレイゴ教徒を狩っていたジルバが“たまたま”発見し、殲滅したと報告してきたのだ。
両腕を大量の血で濡らし、穏やかな笑みを浮かべながら報告してきたジルバの姿に、それ以上は深く聞けなかったレウルスである。
ジルバの笑顔が怖すぎたレウルスは、懸念もなくなったということで率先して宴会に参加した。
今回の戦いはレウルスがヴィラに刺され、エリザが攫われたことで起こったのである。雷魔法を無理矢理使った影響で気絶したエリザはともかく、起きている以上レウルスが参加しないわけにはいかない。
キマイラの時と違って『熱量解放』で魔力を使い果たすこともなく、怪我もエリザとの『契約』で治っているのだ。バルトロが音頭を取り、ドミニクが提供した酒樽を開けて宴会に突入した。
「それでこの惨状か……」
せめてドミニクには手持ちの金を渡して酒代に充ててもらおう。そんなことを考えつつもレウルスは困ったように、それでいて嬉しそうに頭を掻く。
自分とエリザのために、皆が怒ってくれた。グレイゴ教という厄介な相手を恐れず、一丸となって戦ってくれた。
――それが、どうにも嬉しくてたまらなかった。
「あら……起きたのね?」
とりあえず寝ゲロしている連中が窒息しないよう介抱していると、受付の方から声がかかる。その声に視線を向けてみると、そこには苦笑を浮かべたナタリアがいつものように座っていた。
「おはよう……おはよう? まあいいや……姐さん、今何時?」
「もうじき夜明けよ。皆も疲れていたんでしょうね……坊やが一番最初に目を覚ましたわ。組合長とドミニクさん、それとシャロンは潰れる前に避難していたけどね」
グレイゴ教徒と戦い、死体から武器や防具、金目の物を剥ぎ取って埋葬し、魔物に襲われる前にと町に戻ったのが昼過ぎである。そこから宴会が始まったのだが、いつの間にか眠ってしまったのだ。
「……魔物とか大丈夫か? 今襲われたら危ないんじゃ……」
「ふふっ、何のために町の皆が武装していると思うの? 戦力の大半がいなくなることへの備えという意味もあるけど、帰ってきた皆を慰労するための時間を確保するためでもあるのよ?」
「……頭が上がんねぇわ」
冒険者の大半がいなくなることへの備えもそうだが、死闘を行った冒険者の疲れや興奮を癒すための時間も捻出するために町全体で協力していたらしい。
ドミニクやコロナだけでなく、ラヴァル廃棄街全体への恩義ができてしまった。これはどうやって返したものか、とレウルスは頭を悩ませる。
「坊やが何を考えているのかは大体わかるけれど、それは簡単な話よ?」
「というと?」
自分の考えが見透かされたようだが、相手がナタリアならば驚くことでもない。そう判断したレウルスが話の続きを促すと、ナタリアは煙管をくるりと回して楽し気に微笑む。
「町の仲間が今回のように困っている時に、手助けしてあげなさい……それで十分だわ」
「……そんなもんか」
そうやってラヴァル廃棄街を維持してきたのだろう。今回はグレイゴ教という性質の悪い相手だったが、そんな相手でも恐れずに立ち向かう辺り“身内”を大切にしているのだな、と今更ながらに思うレウルスだった。
「わかったよ姐さん。その時は俺の力が及ぶ限り頑張らせてもらうさ」
「期待しているわね」
寝ている者を起こすのも忍びないと思い、レウルスはナタリアとの距離を詰めて小声で言葉を交わし合う。
寝ている冒険者たちを穏やかな目で見ているナタリアの姿に、ナタリアもラヴァル廃棄街を大切にしているのだとレウルスは考え――小さく鼻を鳴らした。
(……あれ? なんだこの匂い……生臭いというか鉄臭いというか……)
薄っすらと漂うのは、果たして何の匂いだったか。思わず首を傾げるレウルスだったが、それに気づいたナタリアが苦笑した。
「わたしの匂いを嗅いでどうしたの? もしかして匂いで興奮する性癖を持っているのかしら?」
「人聞きが悪いこと言わないでくれねえか!?」
「そうよね、坊やは年端もいかない少女が好みだものね。グレイゴ教徒から取り返すために立ち向かうぐらいだものね」
「余計に悪くなってるぞ!? 取り返すためにグレイゴ教徒から喧嘩を買ったのは事実だけどさ!」
あらぬ疑いに目を剥くレウルス。女性の匂いに関しては若干否定できなかったが、年端もいかない少女に欲情すると思われるのは心底御免だった。
そこまで考えたレウルスは、思わずといった様子で周囲を見回す。起きてからすぐに惨状を見たため頭の中から吹き飛んでいたが、エリザの姿が見当たらないのだ。
「坊やが大切にしているお嬢さんならこっちよ」
「だから誤解を招くような言い方は……もういいや」
ナタリアが受付の奥を煙管で示し、レウルスはため息を吐きながら肩を落とす。大切にしているかどうか問われれば、否定はできないのだから。
「おーおー、呑気に……いや、ぐっすりと寝てるなぁ」
ナタリアが示した先、木製の椅子を並べて作られた即席のベッドの上にエリザはいた。ナタリアが用意したのか薄布がかけられており、穏やかな顔で眠っている。
レウルスはなんとなくエリザの頬を指でつつく。すると、エリザはむずがるように表情を歪めたが、眠っていても相手がレウルスだと気づいたのかすぐに表情が和らいだ。
「……良かった。嗚呼、本当に、良かった」
そのエリザの表情を見て、自然と言葉が零れていた。
別段正義の味方だのヒーローだのを気取っているわけではない。それでも、自分と境遇が似ていると思った子どもを助けることができた。それが妙に嬉しく感じられる。
「ジルバさんにもお礼をしに行かないとな……食べ物で済ませたかったけど、さすがに寄付金を弾んで……いや、その前に金を稼がないといけないか」
全ては無理だが、宴会にかかった金もドミニクに渡すつもりなのだ。忙しないことだが、夜明けと共に魔物狩りに出かけるか、などとレウルスは考える。
「別にお金の心配をする必要はないんじゃなくて?」
「いやいや姐さん、そういうわけにもいかないだろ。今回は魔物が相手ってわけじゃなかったし、宴会の代金も払いたいし、収入がだな……?」
そう言ってナタリアの方に視線を向けたレウルスだったが、ナタリアが布袋を用意しているのを見て目を丸くする。
「……それは何ですか?」
「何って……報酬よ。“賞金首”を仕留めた報酬」
「……賞金首?」
誰のことだ、とレウルスは首を傾げた。そもそも賞金首が存在するということ自体初めて聞いたのだ。
「稀なことだから説明していなかったわね。噛み砕いて言うと、“悪いこと”をした犯罪者の中には賞金をかけられる者がいるのよ。坊やが戦った相手がソレね」
そういえば前世でも賞金をかけられた指名手配犯がいたな、とレウルスは内心だけで呟く。
「アイツ賞金首だったのかよ。というか、宗教家が賞金首って……」
その賞金は、一体“どこ”から出ているのだろうか。深く考えると危険だと判断し、レウルスは即座に考えを打ち切った。
「ずいぶんと暴れていたみたいね。直接仕留めたジルバさんと半分に割って金貨5枚……まあ、キマイラと同額ってところかしら」
「キマイラより色々と厄介だったよ……でもまあ、ありがたく」
ジルバが半分もらっているというのなら、気兼ねなくもらっておこう。レウルスは布袋を受け取るが、ズシリと重い。
「……金貨5枚より多くないか?」
「グレイゴ教徒を何人も仕留めたのでしょう? その分の賞金ね」
(この賞金の出処って……)
ほのかに漂う危険な香りに、レウルスは思考を停止させた。受け取った賞金を確認すると、金貨が10枚近く入っている。
「――さて、あなたは一体何にお金を使うのかしら?」
布袋の中身を見て戦慄するレウルスに対し、ナタリアが楽しそうに、“かつて”聞いたような声をかけた。
それを聞いたレウルスは布袋の口を絞めてから懐に放り込むと、苦笑を浮かべる。
「宴会の代金を払って――金が残ったら家でも借りるかな」