第594話:早いか、遅いか
「――気が抜けているわね」
不意にかけられたナタリアからの言葉に、コロナは我に返った。
コロナが慌てたように顔を上げると、苦笑を浮かべたナタリアと視線がぶつかる。
ナタリアが身に着けているのはラヴァル廃棄街で着ているような、コロナが見慣れた黒い衣装ではない。色合いはそのままに、布地の良さや細やかな意匠が見て取れる“余所行き”のドレスだ。
そんな衣服を纏うナタリアと共にニコラが御者を務める馬車に乗っていたコロナは、自身がいつの間にか俯いて思考の海に沈んでいたことを悟る。
「ご、ごめんなさいナタリアさん……いえ、すみませんでした、アメンドーラ男爵様」
コロナは背筋を伸ばして頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。すると頭上から表情と同じく苦笑が感じ取れる声が降ってくる。
「別に構わないわ。最近は朝から連れ回しているし、疲れてしまったのかしら?」
「いえ、そういうわけでは……ごめんなさい。注意散漫でした」
コロナが頭を上げると、気遣うように微笑むナタリアの姿が見える。
ナタリアが言う通り、ここ最近のコロナは朝からナタリアに同行して王都の様々な場所へ足を伸ばしていた。それは王都の観光などではなく、ナタリア達がもうじき王都を離れるため、知り合いを巡って挨拶回りをしているのである。
馬車の御者としてニコラを、そして侍女としてコロナを連れたナタリアは、貴族や王軍の関係者などを訪ねて領地に戻る旨を伝えて回っていた。
「そう……それならいいわ」
表情を取り繕うコロナを見て、ナタリアは咎めることなく視線を馬車の進行方向へ向ける。
そんなナタリアの様子から、おそらくは気を遣われているのだろう、とコロナは思った。それはコロナ自身の疲れや体調に関してではなく、“置かれた状況”に対しての気遣いだ。
ナタリアが単独で動き回るのは外聞が悪いという側面があるとはいえ、レウルスと顔を合わせる時間が少なくなるようにしてくれているのだろう、と。
(レウルスさん……)
コロナは心中でレウルスの名前を呟く。それと同時に去来した感情は重く、鋭く、刺すような痛みが胸に走った気さえした。
レウルスが結婚する――それも自ら望んで求婚し、相手も受け入れた。
それを知って以来、コロナはどうにも気分が落ち込んでしまうのを自覚していた。料理人だけでなくナタリアの侍女という立場もあるため気を張っている時は良いが、ふとした拍子に思考の海に沈んでしまう。
(レウルスさんが……結婚……)
コロナの脳裏に浮かんだのは、レウルスの結婚相手であるルヴィリアだ。
ルヴィリアに関しては以前借家を訪れた際に応対したことがあったが、まるで絵本の中に登場する“お姫様”のようだと思ったことがある。ヴェルグ伯爵家の次女という立場を思えば本当にお姫様だが、コロナが気になったのはその立場ではなくルヴィリアの態度だ。
ルヴィリアがレウルスに向ける眼差し。レウルスに話しかける度に嬉しそうに弾む声。他にも些細な仕草がレウルスへの好意に結び付いているように見えた。
レウルスはそんなルヴィリアに求婚し、ルヴィリアもまた、その場で求婚を受け入れた。時間が前後することになるが、国王であるレオナルドから勧められた王女との結婚を断った上で、である。
“その話”は王都でも噂になっており、ナタリアに同行して移動している間にもあちらこちらから話が聞こえてくる。
それは街頭に立った吟遊詩人の歌声であったり、その歌声に歓声を上げる王都の民の声であったりと、嫌でも聞こえてくるのだ。
はぁ、とコロナは小さくため息を吐く。それと同時に、今日ナタリアが訪問予定の相手はあと何人だったか、と頭の中で計算を始める。
吟遊詩人の詩や王都の民が口にする噂話は聞きたくないが、借家に戻ってレウルスと顔を合わせる方が心に重く圧し掛かるのだ。そのため訪問した相手とナタリアの会話が長引いてくれれば良いとすら思ってしまう。
もちろん、それが何の解決にもつながらないことをコロナも理解している。借家に帰れば嫌でもレウルスと顔を合わせることになるのだ。
まさか一晩中王都の中を歩き回っているわけにもいかず、仮にそんな真似をすればそれこそレウルスが心配して探しに来るに違いない。
借家の中で顔を合わせる時間が減ったとしても、王都を発てばラヴァル廃棄街に戻るまで常にレウルスが傍にいることになる。
(……レウルスさんの結婚について、わたしが言えることは……ない、けど……)
ここ最近、レウルスは事あるごとにコロナと話をしようとしていた。“他の者”がいる時はレウルスもコロナも普段通りを装っているが、レウルスは機を見て一対一で、真剣な様子で話をしようとするのである。
その度に、コロナは逃げていた。レウルスがルヴィリアと結婚をすると聞いた日の夜のように、話を聞くことを拒んでいた。心苦しく思いながらも、すぐさま逃げていた。
(話を聞いて……わたしは、何を言えばいいの? レウルスさんは何を話したいの?)
ルヴィリアと結婚をすると、レウルス本人から改めて聞いて――何と返せというのか。
――おめでとうございます。
――お幸せに。
――結婚式ではわたしも頑張って料理を作りますね。
“レウルスとの関係”を思えば、伝えるべき言葉はそんなところだろう。レウルスが懇意にしている料理屋の娘として、笑顔で祝福しながらそう伝えるべきだろう。
(……うん……わたしとレウルスさんの関係なら……かん、けい……なら……)
――自分とレウルスの関係は何なのか?
それはここ最近、コロナの脳裏に過ぎる疑問だった。
レウルスの言葉を借りて言うならば命の恩人か。あるいは、一時のこととはいえひとつ屋根の下で共に過ごした家族か。あるいは同い年の友人か。
――“既に決まってしまった”レウルスとルヴィリアの結婚話に何か言えるほど、深い関係なのか?
答えは否だ。
ヴァルザ準男爵家の当主とヴェルグ伯爵家の次女の結婚に関して口を挟めるような立場ではなく、コロナ自身、口を挟めるとも思っていない。
他の者にない要素を挙げるとすれば、“最初に出会った”だけだ。
レウルスはことあるごとに命の恩人だからと言うが、コロナからすればレウルスは父であるドミニクの命の恩人だ。レウルスがいなければ、ドミニクはラヴァル廃棄街を襲ったキマイラに殺されていたに違いない。
恩返しというには過分なものを受け取り、今となってはどんどん積み重なっていくだけだ。
コロナにとって他に何か残るものがあるとすれば、それは直接言葉にしたことはない、“自身の感情”ぐらいで。
(でも……レウルスさんは結婚するんだから……)
様々な言葉が脳裏を過ぎるが、結局は“そこ”に行きついてしまう。
エリザやミーアもレウルスと結婚をするという話だが、二人は既にレウルスの“家族”になっている。その関係が正式な言葉になっただけで、コロナとしては強い驚きはなかった。
だが、コロナにとってルヴィリアは“見知らぬ貴族の令嬢”であり、エリザやミーアを差し置いて突如として正妻という立場に収まった人物だ。
それを不満に思う気持ちがたしかにあり、同時に、レウルスが得た立場を思えば仕方がないと思う気持ちもあり。かといってそれらの感情を言葉にしてレウルスにぶつけられるほど、コロナという少女は“強く”もなく。
――レウルスも同じようなことで悩んでいると、コロナは知る由もなかったが。
「落ち込んだり怖い顔をしたり、忙しない子ねぇ……」
そんなコロナの思考を遮るようにして、ナタリアが苦笑混じりに声をかける。それを聞いたコロナは我に返ると、慌てた様子で表情を繕った。
「今更取り繕っても遅いわよ。何を考えているかは……まあ、わたしが言うのは野暮かしら」
「っ……ごめんなさい」
ナタリアの言葉に、コロナは再度となる謝罪をする。ナタリアはそんなコロナの謝罪に苦笑を深めると、その視線を馬車の前方へと向けた。
「コロナ、前を見てみなさい」
「……? は、はい」
ナタリアの言葉の意味がわからなかったが、コロナは言われた通り馬車の前方を見る。そこには王都の街並みや道行く人々の姿があり、同時に騒がしく思えるほどの喧騒が聞こえてきた。
コロナにとって、王都は別世界のように感じる場所だった。
生まれ育ったラヴァル廃棄街と比べて、数倍どころか数十倍はいるであろう人々。
ラヴァル廃棄街に隣接する城塞都市のラヴァルよりも高く、分厚い城壁で囲われているにも関わらず、その広さはラヴァルの比ではない。まさに王都と呼ぶに相応しい威容である。
コロナの目から見ると、ただの住民にも関わらず道行く人々が全員洗練されているように見えた。自身やラヴァル廃棄街の住民と比べると服装や立ち居振る舞いが垢抜けていて、眩しく思えるほどである。
そしてそれは、急遽準男爵という地位を得たにも関わらず“平然としている”レウルスも同様で――。
「世の中というのは、自分の意思ではどうにもならないことがあるわ」
ぽつりと、ナタリアが呟く。道行く人々を眺めながら目を細め、何かを懐かしむように口元を緩めた。
「それは生まれによる立場だったり、育つ環境だったり……容姿や魔法の才能もどうにもならないわね。ただ、自分の意思で変えられることもあるわ。それと同時に、本当は変えられたはずなのに機を逃せば変えられなくなることもある」
「…………」
コロナはナタリアの話を無言で聞く。その声色と表情が、ラヴァル廃棄街の仲間に――妹分に向けられる柔らかいものだったからだ。
「その“変えられること”も人によって差があるの。大きなこと、小さなこと……本人にとっては小さくても他人にとっては大きなことだった、なんてこともよくある話ね」
「……そう、なんですか?」
「その実例がすぐ傍にいるでしょうに……まあ、何が言いたいかというと」
首を傾げるコロナに苦笑を深め、ナタリアは柔らかく、しかし僅かな寂しさを滲ませながら言う。
「あなたが直面している問題は、“今はまだ”どうにかなる可能性があるということよ。相手が動いて変わることもあれば、あなたが動かなければ変わらないかもしれない……少なくとも、わたしよりは遥かに動きやすいでしょうね」
その言葉にどんな意味と感情が込められているのか、コロナには読み取れなかった。だが、ナタリアが自身を思って話していることだけはコロナにも伝わる。
「ただ、人間同士の話だもの。動くのはあなただけじゃない。他の人が動いた結果、あなたの身動きが取れなくなる可能性もある。逆に、あなたの動きが他の人を動けなくするかもしれない……要は、後々『あの時行動していれば良かった』と思わずに済むようにしなさいって話」
――立場で縛られた自分には、もうそれができないから。
「ナタリアさん……」
ほんの僅かな声量の呟きに、コロナは唇を震わせながらその名前を呼ぶ。
それが自分を励ますための言葉だと理解したコロナは、しばらく視線を彷徨わせてから大きく頷いた。
“このまま”では嫌だと、自身が抱いていた感情を形にする。それがどのような結末をもたらすかはわからないが、少なくとも動かないでいるよりは良いと思った。
借家に戻ったら、レウルスと話をしよう。コロナはそう決意し。
「レウルス様、帰郷の際はわたしも同行したいと思っているのですが……」
レウルスへそんな言葉を投げかけるルヴィリアの姿を、借家に戻るなり見ることとなった。




