第593話:兄として、妻として
「さすがにレウルス君達は帰ってしまったか……」
レウルスとエリザがルヴィリアを見舞った日の夕方。
ヴェルグ伯爵家の邸宅へと帰ってきたルイスは自室で椅子に腰をかけると、レウルス達が帰宅したという報告をアネモネから受けて落胆の声を漏らした。極力急いで帰ってきたつもりだったが、さすがに遅過ぎたのだろうとため息を吐く。
レウルスがルヴィリアと王都を観光すると聞いたものの、当日を迎えてみればルヴィリアが体調を崩してしまった。本来ならばヴェルグ伯爵家の当主として謝罪をしてから外出したかったが、今日はルイスも人と会うために朝から外出をする必要があったのだ。
レウルスならばルヴィリアが体調を崩したと聞いても、苦笑一つで済ませてくれるだろうという考えもあった――が、こうして顔を合わせずに帰宅したと聞くと、予定を遅らせてでも家に残っているべきだったかと不安にも思う。
だが、今日は複数の貴族と顔を合わせるべく予定を立てていたため、時間を遅らせることができなかったのだ。
ルイスとて、いつまでも王都に滞在しているわけにはいかない。ヴェルグ伯爵家の家督を継いだ者として、さすがにそろそろ領地に戻る必要があった。
そのため近々王都を離れるという挨拶に、領地に帰ってからのやり取りに関する打ち合わせ。王都に在住している者から定期的に情報を送ってもらうための交渉。そして、ルイスとしては気が重かったが、レウルスとルヴィリアの結婚に関してグリマール侯爵へ説明という名の事後報告を行う必要があった。
中には『龍殺し』というあだ名で噂になっている“義弟”に関して、どうすれば縁を持てるかという相談すらあった。その件に関しては自分よりアメンドーラ男爵殿に話を振った方が良いですよ、などとかわしたが、戦力としてはやはり破格なのだろうとルイスは思う。
それでも王都という場所は様々な家と縁をつなぐには便利な場所だが、下手を打てば足を引っ張られる危険性もある。レウルスの件に関しても、間違ってもレウルスに不利益を与えるような言質を取られるわけにはいかない。
そんな交渉事を朝から夕方までかけて笑顔という仮面を被りながらこなしたルイスは、レウルス達が帰宅したという情報だけでなく、レウルス達がどのような反応だったかを含めてアネモネから報告を受けていた。
レウルス達の反応次第では、今からでも使者を出して直接謝罪しに行くつもりだったのだが――。
「彼なら怒るようなことはないと思っていたけど……予想外というか、予想以上というか」
アネモネからレウルスの動向に関して報告を受けたルイスは、表現に困ると言わんばかりに曖昧な笑みを浮かべた。
レウルスが怒った素振りを見せなかったというのは、想定内である。だが、ルヴィリアが体調を崩したと聞き、市場に向かって果物を購入し、手ずから切り分けてルヴィリアに食べさせたと聞いたルイスは曖昧に笑ったままで首を傾げた。
「名目上の正妻という話で落ち着いたが、扱いは悪くない……いや、むしろ良いぐらいだ。レウルス君の性格によるものか、誰かが入れ知恵をしたのか……」
レウルスならばなんだかんだでルヴィリアを無下には扱わないと思っていたが、アネモネからの報告を受けてみるとルイスとしては些か“過剰”に思えてしまった。仮に自分が正妻を迎えたとして、体調を崩した正妻相手にわざわざ果物を買ってきて手ずから食べさせるだろうか、と。
(レウルス君はルヴィリアを最優先にはできないものの、自分なりに幸せにすると言っていたが……これが“そう”なのか? 想定よりもルヴィリアを大切にしてくれると思ってもいいのかもしれないが……)
それはそれでルヴィリアの身がもたないかもしれない、などと嬉しさ半分、心配半分で思うルイス。そんなルイスの思考を妨げないように注意していたアネモネは、ルイスの集中が途切れた段階でルヴィリアに関して言葉を紡ぐ。
「お嬢様は、その……大喜びしていらっしゃいました。レウルス様達が帰られた後に話をお聞きして、胸やけするかと思うぐらいには……」
「だろうね。出会いから婚約に至るまで、吟遊詩人がこぞって歌いそうな話だ。兄としても喜ばしい話だけど、ルヴィリアからすれば“喜ばしい”どころの騒ぎじゃないはずさ」
「昨晩も興奮して寝付けなかったぐらいですからね」
「うん、まあ……そこは微笑ましいで済まそう。レウルス君が相手じゃなかったら、微笑ましいなんて言葉じゃ済まなかったけどね」
いくら国王であるレオナルドが認可した話とはいえ、相手に悪印象を与えた可能性は否定できない。
その辺りは義弟に甘えてしまっているな、とルイスは内心で反省をする。もうじきレウルス達も領地へと戻るが、その前に謝罪も兼ねて顔を合わせるべきだ、とも。
「レウルス君はその辺り大らかというか、無頓着というか……ルヴィリアの夫として考えるとありがたい話だけど、準男爵として考えると脇が甘いとも言える、か。その辺りを妻になるルヴィリアが支えられれば良いが……」
そう話すルイスだったが、ルヴィリアは相応の教育こそ施されているものの、“体調不良”が原因で社交の場に出ていなかったことから場数が足りていないと危惧する。ルヴィリアの輿入れに併せてセバスが同行するためある程度の助言はできるだろうが、こればかりはどう転ぶかわからない。
かといってルヴィリアの嫁ぎ先とはいえ、他家の事情に首を突っ込み過ぎるのもまずいと思考するルイス。そんなルイスの様子を眺めていたアネモネは、思考が一段落するのを待ってから口を開く。
「ルイス様がお戻りになられ、時間が空いたらお話があるとルヴィリアお嬢様も仰っておられました。危惧すべき点があるのならばルイス様直々にお話されてみては?」
「可愛い妹にはなるべくきつく当たりたくないというのが兄心というものだよ……と、ルヴィリアが俺に話? 一体どんな用件で?」
「それはわたしも聞かされておらず……何やら深刻そうなご様子でしたが」
「ふむ……」
幼少の頃から世話をしてきたアネモネにも伏せるということは、余程重大な話なのだろうか。それともただ、言い難いだけか。
ルイスはそう思考したものの、実際に話を聞いてみなければわからないとアネモネに視線を向ける。
「今のところ片付けるべき仕事もないし、ルヴィリアを呼んできてくれるかい?」
「かしこまりました。少々お待ちください」
一礼して去っていくアネモネの背中を見送り、ルイスは座っていた椅子に背中を預ける。そしてなんとはなしに天井を見上げ、大きく息を吐いた。
「まさかアネモネだけでなく、俺にもレウルス君との仲を惚気るつもりじゃないだろうな……いや、それはそれで妹の可愛らしい一面が見れると思えば……さすがにないか」
仮に惚気てきたとしても、他所の貴族との話し合いでささくれ立った心が癒されるだけだろうとルイスは苦笑を浮かべる。色々と“苦労”をかけた分、例え惚気話だろうと兄としてきちんと聞いてやるべきだろう、とも思う。
――ルヴィリアが嫁いでしまえば、そういった話を聞く機会も滅多になくなるのだから。
そんなことを考えながら待つことしばし。アネモネと共に姿を見せたルヴィリアに対し、ルイスは柔らかく微笑んでみせる。
「ルヴィリア、体調はもう良いのかい?」
「はい。ご心配をおかけしました」
ルイスの言葉に対し、ルヴィリアは折り目正しく一礼した。その姿を見たルイスは『おや?』と内心で首を傾げたものの、何がおかしいのかわからず話を進めていく。
「それで? 俺に何か話があるとアネモネから聞いたんだが……」
そんな言葉をかけつつ、ルイスはルヴィリアの表情を確認する。アネモネが深刻そうな様子だったと語った通り表情が固く見えるが、思い詰めているようには見えない。
「お話……というよりも、お願いがあります」
「ふむ……お願い、か。そういう切り出し方は珍しいね」
幼少の頃ならばいざ知らず、“体調不良”になって以降はわがままを口にすることすらほとんどなくなってしまった。そんなルヴィリアの発言にルイスは破顔し、大仰に両腕を広げてみせる。
「なに、可愛い妹の願いなら叶えられる限りは叶えてあげるとも。もちろん、できないこともあるから手加減はしてほしいがね?」
その最たるものがレウルスとの結婚だった――のだが、何の因果かルヴィリアはレウルスの正妻という立場に収まることになった。
“それ”と比べると大抵の願い事は叶えられるだろう、とルイスは思う。
「もうじきレウルス様達が王都を発たれるそうですが……」
そんなルイスの心境を知ってか知らずか、ルヴィリアは真剣な表情を浮かべ、真剣な声色で告げる。
「――それに同行したいと考えています」
「……は?」
思わず、ルイスの口から間の抜けた声が零れた。そして数十秒かけて我に返ったルイスは、ルヴィリアの発言を反芻して引きつった笑みを浮かべる。
「あー……ルヴィリア? たしかにお前はレウルス君との結婚に関して話が進んでいるし、国王陛下の裁可も得ているが、まだ本当に結婚したわけでは――」
「それは理解しています。ですが、国王陛下がお認めになった点から、レウルス様本人が拒絶しない以上覆ることがないと考えています」
「……まあ、そうだろうね。だが、“それ”とこれとは話が別だ。いくら陛下が認めたとはいえ、正式に結婚したわけでもないのにレウルス君のところに身を寄せるなど……」
貴族の令嬢として、はしたないにも程がある。そう告げようとしたルイスを遮るようにして、ルヴィリアは言葉を紡ぐ。
「以前ならばともかく、今となってはレウルス様以外の相手に嫁ぐ気はありません。それに、仮に破談となったら嫁ぐ先もないのでは?」
「それは……まあ、そうだろうけど……」
ルヴィリアの言葉に対し、ルイスは歯切れ悪く答える。
レオナルドが認めた話だというのに破談となれば、どんな問題があったのかと疑われるだろう。それもレオナルド自ら、妾腹とはいえ王女との結婚を勧めた上でルヴィリアを選ぶという“美談”があった上での結婚話だ。
王女との結婚話を蹴り飛ばしてまでルヴィリアを選んだレウルスには、武名もあって批判は集まり難いだろう。破談するに足る何かがルヴィリアにあったのだと世間は噂し、宮廷貴族も大喜びで便乗するに違いない。
そうなれば、ルヴィリアが他の誰かに嫁ぐなど困難極まる。体調が良くなる以前よりも結婚相手の条件が悪くなり、それでも結婚できない可能性が高いほどだ。
「……どうしてそんなことを?」
それを理解するが故に、ルイスは説明を求める。深々とため息を吐きそうになりながらも、納得できる理由があるのかとルヴィリアに問いかける。
「“建前”としては、嫁ぎ先であるレウルス様のお役に立つためですね。スペランツァの町には既にレウルス様のご自宅があるという話でしたが、あくまで冒険者としてのもの。準男爵という身分に見合った家を建てるなり増築なりするとしても、助言できる者が必要でしょう?」
「それはそうだが……ナタリア殿やコルラード殿がいるだろう?」
真剣な顔で話すルヴィリアに対し、ルイスは兄ではなく伯爵家の当主として尋ねる。生半可な理由では承諾しないと言わんばかりに鋭い視線をルヴィリアに向けるが、当のルヴィリアは気圧されることなくルイスの瞳を見返しながら言葉を続けた。
「そのお二方は身分に見合った邸宅に住まれていますか?」
「……そうではない、と聞くね」
ナタリアも身代に見合った邸宅をスペランツァの町に建てる予定だが、あくまで予定でしかない。ラヴァル廃棄街にある自宅は簡素なもので、準男爵の頃でも不相応に過ぎる代物だった。
コルラードに関しても、スペランツァの町にある住居は仮初のものに過ぎない。今後ナタリアから領地を割譲されるとしても、それまで住む家が必要になる。
「わたしはヴェルグ伯爵家が子爵家だった頃から“実際に住んで”います。何が必要で何が不必要か、実際に生活する上で理解しているつもりです。それはレウルス様だけでなく、アメンドーラ男爵様達にとっても有益な知識だと思います」
「……たしかに、な」
実際に長年住んでいるのならば、何が必要で何が不必要か体が覚えている。そこに貴族の令嬢として学んだ知識があれば、ある程度の形になるだろうとルイスは納得した。
無論、アメンドーラ男爵領の風土に見合った邸宅を作る必要があることを考えれば、ルヴィリアの話は絵に描いた餅に過ぎないのだが――。
「だが、お前は今、自分で建前だと言ったね? それなら“本心”は何処にあるんだい?」
“そういう建前”で通すのは良いとして、本心はどうなのか。それを尋ねるルイスに対し、ルヴィリアは真剣な表情のままで答えた。
「レウルス様にとって、それが必要だと思ったからです。だからこそ、わたしは妻としてその本分を果たすべきだと考えています」
「……具体的には、何をするつもりだい?」
ルイスからすれば、曖昧な答えである。そのため詳細を尋ねるが、ここにきてルヴィリアは初めて表情を変えた。
それまで真剣そのものといわんばかりの表情だったのが、困ったように、曖昧に微笑む。
「“それ”を決めるためにも、同行するべきだと思いました。形式的なものですが、わたしはあの方の正妻になるのですから」
「なるほど……正妻としての務めがある、ということかい」
ルヴィリアの言葉から、ルイスはその裏を読み取った。
ルヴィリアが正妻として動くべき懸念があるが、あくまで懸念であり現状では打てる手が少ない。だが、ルイスと一緒にヴェルグ伯爵領へ戻っていては“いざという時”に動くことができない。
ルイスとしてはルヴィリアが何を思って動こうとしているのか、もっと詳細を知りたいと思った。しかし、これは下手をせずともレウルスの――ヴァルザ準男爵家の内情に関わる話である。
いくらレウルスが義弟になるとはいえ、踏み込んではならない一線が存在する。ルイスの感覚としては踏み込んでも良い一線に思えたが、レウルスの顔を思い浮かべ、次いでルヴィリアの表情を見るとその感覚も霧散してしまう。
「……レウルス君の許可が下りなければこの話はなしだ。いいね?」
結局、ルイスが言えるのはそこまでだった。




