第590話:正妻と妾 その1
レウルスがルヴィリアと会う日の前日。
既に日も落ち、夜が更けていく中でルヴィリアは寝台に転がって天井を見上げていた。
明日は朝からレウルスと会うということで早めに眠りにつこうとしたものの、目が冴えて一向に眠気が訪れない。眠ろうと目を瞑っても眠りに落ちることができず、一時間、二時間と寝台の上で過ごしたルヴィリアは体を起こしてため息を吐いた。
(全然眠れない……どうしよう……)
以前、“体が弱かった頃”は日中に眠ってしまい、夜に眠気が訪れないということは何度もあった。しかし健康体になった今はそのようなことをせず、規則正しい生活を送っているのである。
夜に眠ろうと思っても眠れないなど、いつ以来のことか。それでも眠れない理由に関してはすぐさま“思い当たる節”が浮かんでくるため、ルヴィリアは自分以外部屋に誰もいないというのに両手で顔を隠す。
隠した両手の下では、月明りで仄かに照らされた室内でもわかるほど顔が真っ赤になっていた。
(明日、レウルス様と会うのに……このまま寝付けなかったら顔に出ちゃいそうなのに……)
口元が勝手に緩みそうになるのを、ルヴィリアは必死に堪える。寝なければと思えば思うほど眠気が遠ざかり、時間の経過が緩やかになっていく気さえした。
ルヴィリアとて、普段ならば当の昔に気分を落ち着けて眠りについているだろう。貴族の子女として教育を受けてきたルヴィリアは、動揺を素早く収められるよう練習もしている。社交界で実践した経験こそ少ないが、貴族の家に生まれた者としては可能な限り修めるべき技術なのだ。
だが――しかし、である。それにも“限度”があり、今のルヴィリアにとっては不可能に近い難業だった。
ここまで気が昂っているのは、何も明日レウルスと会うのが楽しみ過ぎるというだけのことではない。もちろんそれもあるのだが、兄であるルイスから聞いた話がルヴィリアの気を昂らせ、眠気を微塵も湧かせないのだ。
――妾腹とはいえ国王自ら王女を妻にと勧められたものの、ルヴィリアと結婚するためにそれを断った。
ルイスがレウルスから聞き、伝手を辿って真相を確認し、嘘も偽りも一切の誇張もなく真実だと判明した後、ルヴィリアにも伝えられたのである。
ルヴィリアとの結婚話に関してはナタリアやルイスが立ち会った正式なものだが、今はまだ、実際に結婚したわけではない。傍目から見れば婚約した状態であり、歴史を紐解けば婚約していようが別の者と結婚したという話は枚挙にいとまがないだろう。
ここ一年ほどで伯爵に昇爵したヴェルグ伯爵家は貴族としてみればマタロイの中でも上から数えた方が早い家格だが、さすがに王女には劣る。国王であるレオナルドから直接話を持ち掛けられた時点でルヴィリアとの話を切り捨てて王女に“乗り換えた”としても、賛否こそあれど周囲も納得自体はするはずだ。
それだというのに、偶々一日早かっただけのルヴィリアとの結婚話を持ち出し、王女との結婚を断った。その話を聞いた時のルヴィリアの心情は、驚愕と興奮と歓喜がごちゃ混ぜになったもので。
「~~~~っ!」
時間が経った今でさえも、思い返せば心中に興奮と喜びが湧き上がってくる。
ルヴィリアは枕に顔を押し付け、両足をバタバタと暴れさせる。声にならない声を上げ、ルヴィリアは寝台の上を右へ左へと転がり続ける。
そうしてしばらく動き回った後、ルヴィリアはこれ以上の喜びはないと言わんばかりに頬を緩ませ、呟いた。
「わたしが……レウルス様のお嫁さん……」
きゃー、と小さな声を上げるルヴィリア。そしてそのまま枕を抱きかかえ、他者が見れば下手すると寝台から転がり落ちるのではないかと心配するほど身を捩る。
「……お嬢様」
「ひゃいっ!?」
そして、さすがにルヴィリアの騒ぎぶりに気付いたアネモネが部屋の扉を開け、そっと声をかけた。ルヴィリアは背筋が真っすぐになるほど体を硬直させると、幼少の頃から姉妹のように親しい付き合いがある女中に恐る恐る視線を向ける。
「明日が楽しみだというのはわかりますが、程々にしておやすみくださいませ」
「き、聞こえちゃいました……か?」
「通りがかったルイス様が苦笑しながら通り過ぎるぐらいには」
「あ、あはは……ごめんなさい」
既に夜更けということもあり、小さな音でも響いてしまう。ルヴィリアの部屋はある程度の防音性があるが、さすがに声を上げながら寝台の上で転がっていれば気付かれてしまうのだ。
ルヴィリアはアネモネに謝り、ルイスにも心の中で謝ると、一度咳払いをしてから眠りにつこうとする。
(レウルス様にお会いできるし、早く寝ないと……エリザさんも一緒だって話だし、寝不足で変な顔をしてたら心配かけちゃいます……)
そんなことを考えつつ眠ろうとするルヴィリアだったが、相変わらず眠気は訪れなかった。
結局明け方まで眠りに落ちることはなく――そのまま体調が崩れ、ルヴィリアは愕然とするのだった。
「申し訳ございません……その、お嬢様は昨晩寝付けなかったらしく、体調が……」
そして、ヴェルグ伯爵家の別邸を訪れたレウルスは、応対に出てきたアネモネの言葉に思わず苦笑を浮かべることとなった。
(遠足前に興奮して眠れない子どもかな? いやまあ、俺と会うのをそれだけ楽しみにしてくれたって思えば、可愛いもんだけどさ……)
前世でも似たような話を聞いた覚えがある、とレウルスは苦笑しながら頷く。
ドーリア子爵との和解も済んだため、レウルスは数日と経たない内に王都を離れるだろう。そうなれば、次に会えるのは実際に結婚する時になるだろうか。
貴族の子女として滅多にあり得ないポカを仕出かしたルヴィリアだったが、それだけ想ってくれていると思えば微塵も気にならないのは妻に迎えると決断したからか。しかし日を改めるには王都にいる時間が限られているため、後日改めて来訪するというのも難しい。
さてどうしたものか、とレウルスは首を捻った。今日はルヴィリアと会うべく時間を空けていたため、このまま帰るというのも芸がない話である。
「体調不良というのは、絶対に安静にしなければいけないとかそういう感じですか?」
「いえ……熱が出てしまい、体がだるいようでして……本当は『治癒』の魔法薬を飲んででもレウルス様とお会いするつもりだったようですが、先日毒を浴びたこともあり、ルイス様が休んでいるように、と……」
「なるほど……外を出歩くのは厳しくても、軽く話すぐらいなら大丈夫ですかね?」
「それは……はい。普通の来客なら断りますが、お嬢様の夫になられる方ですから。ルイス様からも、レウルス様が望むのならその通りにするようにと言付かっております」
アネモネは僅かに迷った様子だったが、レウルスの言葉に首肯する。
「そのルイスさんはどうしたんです? いつもなら顔を見せてくれそうなものですけど、外出中ですか?」
「はい。朝から所用で出かけております」
「……それだと俺達が家に上がるのは駄目な気がするんですが」
いくら結婚すると誓った相手とはいえ、家主が不在という状況で上がるのはまずいだろう。むしろ結婚すると誓った相手だからこそ、まずいといえるかもしれない。
「いえ、その点に関してはお気になさらないでください。ルイス様からも許可が出ておりますし、お嬢様の夫になられるということは当家の使用人にとっても仕えるべき相手ということです。お嬢様を裏切らない限りにおいては、ですが」
「それならずっと味方ってことですね」
裏切る予定もつもりもないためレウルスは軽く流す。そしてヴェルグ伯爵家の別邸を見上げると、困ったように頭を掻いた。
(エリザも一緒だし、ルヴィリアと話をしたいって言ってるし……うん、嫁さんが体調を崩したんなら面倒を見るのも当然だよな)
レウルスは緊張した様子で背後に立つエリザを一瞥すると、視線をアネモネに戻す。
「それじゃあ見舞いをさせてもらいますね。ただ、ちょっと買い物をしてくるんで、清潔な皿と包丁の用意だけお願いできますか?」
「お皿と包丁……いえ、かしこまりました。お待ちしております」
そう言って一礼するアネモネに笑って返し、レウルスはエリザを連れて市街地へと向かうのだった。
そして、三十分とかけずにヴェルグ伯爵家の別邸へと戻ってきたレウルスは、エリザと共にルヴィリアの部屋へと招かれていた。
寝台の上で体を起こしたルヴィリアはレウルスを見ると肩を縮こまらせて申し訳なさそうに俯き、エリザの姿を見ると一礼する。
「ご、ごめんなさい、レウルス様……せっかくお誘いいただいたのに、体調を崩すなんて……エリザさんもごめんなさいね?」
「気にしないでくれよ。王都を見て回るつもりだったけど、今の状況で出歩くとやばいってことを忘れてたしな」
「ワシも構わんが……辛いなら横になるんじゃぞ? 礼儀云々より、体調を優先するんじゃぞ?」
レウルスは苦笑しながら言い、エリザは心配そうに眉を寄せながら言う。
レウルスは目立つ真紅の鎧を着ておらず、ラディアも装備していないというのに、道行く人々に声をかけられ、場合によっては取り囲まれそうになったのだ。中には名前が売れた新興の準男爵ということもあり、雇ってほしいと詰め寄ってくる者まで出る始末である。
それを振り切ってきたレウルスとエリザだったが、王都を離れたいという欲求は強まるばかりだった。
レウルスはそれらの光景を脳裏から振り払うと、寝台の上に座るルヴィリアへ視線を向ける。
体調が悪いということでさすがにドレスは着ていないが、綿で作られた寝間着の上に薄手のガウンを羽織っていた。顔色自体はそれほど悪くないものの、時折眠そうに目が細められている。
(しかし、なんだな……こういう“生活感”のある格好を見てると、なんとも言い難い感覚が……)
普段と比べれば着飾っていない、ありのままの自然に近いルヴィリアの姿。
かつては二ヶ月近く共に旅をしており、寝起きの姿なども何度も見たが、その時はルヴィリアも気を張っていた。だからこそ今のルヴィリアの姿には心がざわめくものを感じる。
(貴族だと夫相手にも弱ってるところを見せなさそうだし、そういう意味ではよく通されたな俺……ルイスさんから許可が出てるっていっても、アネモネさんも全然止めようとしないし……)
普通ならばルヴィリアに何か不埒なことをするのでは、と警戒するべきではないか。エリザを同行させている時点でそのような真似はしないと思われたのかもしれないが、将来の夫ということで見逃されたのか。
レウルスはどこまでがセーフでどこからがアウトなのか、などと考えながら持ち込んだ代物に意識を向ける。それはつい先ほど買い求めた果物で、市街地で見かけたリンゴに近い外見の果物だった。
「ルヴィリア、食欲はあるか?」
「えっと、少しなら……」
「そうか。それならちょっと待っててくれ」
そう言い残し、レウルスはルヴィリアの部屋を後にする。そして井戸で念入りに手を洗うと、厨房に向かってアネモネから包丁と皿を受け取り、ルヴィリアの部屋へと戻る。
「…………?」
部屋に戻るなり、僅かな緊張感にも似た空気を感じ取ったレウルスは首を傾げた。ルヴィリアとエリザは無言だったが、鋭い気配が漂っていたように思えたのだ。
(エリザもルヴィリアに話があるんだよな……もうちょっと席を外しておいた方が良かったか?)
何か話していたのか、それとも話すタイミングを見計らっている時に戻ってきてしまったのか。レウルスは疑問に思いながらも寝台傍に置かれた椅子に腰を下ろした。
「……それは?」
「露店で買ってきた。体調が悪い時にはやっぱり果物かなって思ってな」
「い、いえ、果物だというのはわかるのですが、何故皿と包丁を?」
ルヴィリアが不思議そうに尋ね、レウルスも不思議そうに首を傾げる。
「そりゃ食べさせるためだよ。少し待っててくれ……ああ、手はきちんと洗ってきたからな」
そう言いつつ、レウルスはリンゴもどきの皮を剥いていく。魔物の解体と比べれば非常に楽で、レウルスは瞬く間に皮を剥いてリンゴもどきを一口サイズに切り分けた。
そして、切ったリンゴもどきにフォークを突き刺すと、ルヴィリアへと差し出した。
「ほら、口を開けてくれ。あーんだ、あーん」
「え、あ、あーん? って、口を開けて……は、はしたないですよっ!?」
レウルスの言葉につられて口を開けようとしたルヴィリアだったが、羞恥心が勝ったのかすぐに口を閉じてしまう。レウルスはそんなルヴィリアの様子に苦笑を浮かべると、困ったように頬を掻いた。
「こういう時は、まあ、“こんな感じ”かなと思ったんだが……妻が体調を崩したんだ。これが自分の家なら掃除や料理を引き受けるんだが、ここだとこうして差し入れぐらいしかできないしな」
「で、でも、その……あ、あーん? は、さすがに恥ずかしくて……」
ルヴィリアは元々赤みが差していた頬を濃い桜色へと変化させつつ、恥ずかしそうに呟く。
(うーん……貴族の恥ずかしがるポイントがわからん。エリザ達なら普通に食べてくれるんだが……)
そんなことを思いつつ、レウルスは手本を示すようにエリザへとリンゴもどきを差し出した。するとエリザは無言でリンゴもどきに噛みつき、咀嚼して飲み込む。
「……言っておくが、ワシも恥ずかしいんじゃぞ? ルヴィリアさん、嫌なことは嫌と言うんじゃ。そうすればレウルスも止まってくれる……こともある」
「止まらない時もあるんですね……でも……」
エリザの言葉に曖昧な笑みを浮かべたルヴィリアだったが、その視線を再びレウルスへと向けた。そして小さく口を開け、恥ずかしそうに微笑む。
「あ、あーん……」
「おう……あーん」
どこか嬉しそうな様子でリンゴもどきを食べるルヴィリア。そんなルヴィリアを見ながら、レウルスはふと思う。
(自分からやったことだけど、案外恥ずかしいなコレ……相手がルヴィリアだからか?)
何故だ、と首を傾げるレウルス。それでも他に何かできることはないかと思考を巡らせる。
(果物を差し入れして……あとは何をすればいいんだ? あまり長時間話すわけにもいかないし……さすがに汗を拭くとかは駄目だろうしな)
仮にそんな真似をするとしても、レウルスではなくアネモネがするだろう。百歩譲ってもエリザがするためレウルスの出番はないはずである。
そうやって悩むレウルスだったが、ルヴィリアから不安そうな視線を向けられていることに気付いた。そのため首を傾げ、一体何事かと問う。
「不安そうな顔をしているけど、どうしたんだ?」
「い、いえ……その、本当に怒ってないのかな、なんて……」
「怒る? 今日のことにか?」
レウルスが問いかけると、ルヴィリアは戸惑いながらも頷く。
ルヴィリアからすれば、“形の上では”正妻ながらもせっかくのレウルスの誘いを無駄にしてしまったことが気にかかる。
レウルスからすれば、体調が悪いのなら仕方がない、で済む話だが、ルヴィリアはそうは捉えなかった。それでもレウルスが怒っていないと察しつつ、本当にそうなのかと確信を持てずに問いかけてしまったのだ。
「いや? 本当に怒ってないし、たまにはこういうのんびりした時間も大事だしな。王都では色々あったし、スペランツァの町に戻ったら開拓作業が待ってるし……」
ルヴィリアが照れる姿を見るのも楽しいといえば楽しい、などという言葉を飲み込むレウルス。照れるか怒るかわからないが、さすがに口に出すのは戸惑われた。
それでも本当に怒っていないと通じたのか、ルヴィリアは安堵の息を吐く。そして、そんなレウルスとルヴィリアの会話を聞いていたエリザが、ゆっくりと口を開いた。
「……では、レウルス。ワシはルヴィリアさんと話したいことがある……少しで良いから席を外してほしいんじゃが」
そう言って、エリザは真剣な表情を浮かべるのだった。
どうも、作者の池崎数也です。
毎度ご感想やご指摘、お気に入り登録や評価ポイントをいただきましてありがとうございます。
事前にお知らせしていた通り、入院してくるので明日より拙作の更新が中断する予定です。
いつ頃再開できるかわかりませんが、気長にお待ちいただければと思います。
それでは、このような拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。




