第582話:悲喜交々 その3
もうじき日付が変わろうかという夜更けのことである。
自室で眠りについていたレウルスが不意に目を開き、音を立てないよう注意しながら身を起こす。そして周囲の状況を確認し、声を出さないよう心掛けながらもその口元を苦笑の形に変えた。
エリザ達にルヴィリアとの結婚を伝え、更に各自の“意思確認”をした後、レウルスはネディの望み通り一緒に風呂に入り、一緒に寝ていた。
しかしそれに待ったをかけたのがサラであり、風呂場にサラも乱入。さすがにエリザとミーアは恥ずかしがって風呂場には入ってこなかったが、いざ寝る時になると布団を抱えてレウルスの部屋を訪れたのである。
その結果、寝台をどかして床に布団を敷き、ラディアも何事かと声をかけてきたため“家族”全員で眠ることになったのだ。
暗闇に慣れた視界で周囲を見回してみると、眠るエリザ達によって描かれる『川』の字ならぬ『州』の字と化した自室の様子にレウルスは苦笑を深める。
身長差があるため『州』という文字も正確ではないが、レウルスにエリザ、サラにミーア、ネディに加えて端の方には鞘に収まったラディアもわざわざ布団に寝かせてあった。
ラディアからはさすがに聞こえてこないが、エリザ達からは寝息が聞こえてくるためしっかりと眠っているのだろう。
『どーしたの?』
『少し……いや、大事な用事があってな。ラディアはこのまま寝ておいてくれるか?』
『はーい』
果たして剣が眠るのだろうか、という疑問があったが、ラディアは返事をするなり沈黙する。それを確認したレウルスはエリザ達が眠っていることを再度確認すると、音を立てずに立ち上がり、部屋の扉を開けて廊下へと出た。
日中ならばエリザ達によって相応に騒がしくなる借家も、本人達が眠ってしまえば自然と静かになる。レウルスは静かに廊下を歩いて一階の調理場へと向かうと、無言で目を細めた。
夜更けにも関わらず、僅かに灯りが漏れているのだ。それを見たレウルスは意識して足音を立て、普段通りを心がけて調理場へと続く扉を開ける。
「……レウルス、さん?」
「……やあ、コロナちゃん」
調理場にいたのはコロナだった。蝋燭の灯りを頼りに翌朝の食事の仕込みを行っていたようで、その手には包丁が握られ、まな板の上には皮むきされた野菜がいくつも置かれている。
コロナは扉を開けたのがレウルスだということに気付くと目を見開いたが、すぐさまその視線をまな板の上へと戻して口を開いた。
「こんな夜更けにどうしたんですか?」
「それは俺の台詞でもあるんだけどね……さすがに夜も遅いし、明日の朝食の準備はそろそろ切り上げて眠った方が良いんじゃないかな」
「ええ……そうですね。これが終わったら眠ろうと思います」
そう言いつつ、葉野菜を切るコロナ。そんなコロナの姿を見たレウルスは、表情の選択に困りながら曖昧に笑う。
ドミニクの料理店ならば夜更けまで営業し、営業が終われば翌日の仕込みを軽く済ませてから眠るため今のような時間までコロナが起きているのは珍しくない。しかし、今いるのはドミニクの料理店ではなく王都で、いくらレウルス達が量を食べるといっても夜更けまで準備をする必要はないのだ。
もっと早い時間に眠り、日が昇り始めてから起き出し、蝋燭等の灯りが必要なくなってから調理に取りかかっても十分間に合う――そのはずなのだ。
ましてや、いくら仕込みの最中とはいえコロナが即座に視線を切り、調理に戻るなど“らしくない”にも程があった。
あったのだが――。
「…………」
“ソレ”を問い質そうにも、どうにも言葉が出てこない。レウルスは無言でコロナの背中を見詰め、ただただ時間が流れてしまう。
(これは……なんだろうな? 拒絶みたいな……)
背中越しに、コロナがどんな感情を抱いているのかが伝わってくるようだった。そしてそれは、これまでにコロナから向けられたことがなかった感情である。
「……何か、ありましたか?」
レウルスが戸惑っていると、コロナから疑問の声が飛んできた。ただし相変わらず視線は向けてこず、手元の葉野菜を切りながらの質問である。
料理の最中に手元から目を離すのは危険で、それはレウルスも理解している。しかしそれだけとは思えない空気に、レウルスは困惑しながらも口を開いた。
「少し、コロナちゃんと話がしたくなってね。そろそろ眠った方が良い、なんて言いながら話をしに来るのもどうかと思ったんだけどさ……ははは……」
「そうなんですね」
「はは、は……」
あまりにも淡白な反応に、レウルスは乾いた笑い声を上げることしかできない。しかしその笑い声も部屋の暗がりに溶けるように消え、レウルスは口を閉ざす。
(空気が……重い……)
強敵と戦う時とは異なる緊張感が、そこにはあった。もしかするとコロナはいつも通りで、レウルスが勝手に“負い目を感じている”だけなのかもしれないが、戸惑うほどに空気が重く感じられる。
(ここは一度退いて、日を改めた方が良いんじゃないか?)
こんな夜更けに話など、非常識だったな――などと撤退を意識するレウルスだったが、このまま退くのはまずいと勘が囁く。
しかし、コロナに対してどのように話を切り出せば良いのか迷う気持ちも確かにあった。
(ルヴィリアと結婚することになりました、その日のうちにエリザは保留だけどミーアとも結婚することになりました……こんな話を振ったとして、俺はコロナちゃんにどんな反応を求めてるんだよ……)
少なくともルヴィリアとの結婚に関してはきちんと話さなくてはならないだろう。エリザ達に関しては“今の関係”をきちんと言葉と形にしただけだが、ルヴィリアに関してはヴェルグ伯爵家と準男爵になったレウルスとの家同士の話でもあり、コロナにも関係は――。
(……ない……んだよな……コロナちゃんに話す理由、ないんだ……)
エリザ達に関しては、ルヴィリアも認めている。
レウルスと『契約』を結んでおり、共に戦う仲間であり、“家族”でもあると。ルヴィリアだけでなくルイスでさえ、エリザ達に関して言及していたほどだ。
翻って見れば、レウルスとコロナの関係は何なのか。
レウルスにとってコロナは命の恩人であり、ラヴァル廃棄街の仲間であり、大切な存在であり――“それ以外の何か”足り得る存在なのか。
(俺とコロナちゃんの関係って……なんだ?)
レウルスにとって、大切な存在であることは間違いない。コロナのためならば躊躇なく命を賭けることもできる。どんな状況だとレウルスとしてもツッコミを入れたくなるが、仮にヴァーニルを仕留めなければコロナが死ぬというような状況になれば、勝てないとわかっていても決死の覚悟で挑むだろう。
コロナは自分の命を賭けるに足る存在だ。それは間違いない。レウルスとしてはそう断言できるのだが――。
(それをコロナちゃんがどう思うかは別、か……)
自惚れではなく、コロナも自身のことを大切に思ってくれているとレウルスは感じている。しかし、それはどのような間柄なのか。
今のようにわざわざ夜更けに、一対一で話を切り出してコロナがどう思うか。
(でも、このまま黙っているわけにもいかねえよな)
それでも、レウルスとしては自分の口から現状を説明するべきだと思った。後々になって、誰か別の者から又聞きで話が伝わるなど不義理が過ぎると。
そう考えたレウルスは深呼吸を行い、気息を整えてから口を開く。
「コロナちゃん」
「……はい」
真剣な声で名前を呼ぶと、コロナから声が返ってくる。ただし、僅かに肩を震わせただけで、振り返ることはなかったが。
「今日、ヴェルグ伯爵家に行ってきて決まった……いや、“決めたこと”がある」
そこを間違えるのはルヴィリアに対して失礼だ。そのためレウルスは自らが決めたことだと強調し、言う。
「俺はヴェルグ伯爵家の次女……ルヴィリアと結婚する。これは向こうの当主であるルイスさん、俺の後見人である姐さんも認めた話だ。でも、この話には」
「おめでとうございます」
レウルスの話を遮るようにして、コロナが祝いの言葉を述べる。しかしその声色は固く、相変わらず背中しか見えないためその表情は見えなかった。
「あ、ああ……ありがとうコロナちゃん。ただ、少し話を――」
ダン、と包丁が根菜を両断する音が響く。夜中だからか、あるいはコロナが込めた力が強かったのか、まな板に少しだけ食い込んだ包丁の刃が蝋燭の火を仄かに反射していた。
「おめでとう……ございます」
「…………」
絞り出すようなコロナの声に、レウルスは返す言葉を持たなかった。それでもレウルスは数秒で我に返ると、一歩だけコロナへと近付く。
「コロナちゃん、俺は……」
「――聞きたくないっ!」
何を伝えるべきか迷ったのが悪かったのか、あるいは話題自体が悪かったのか。
あるいは――“巡り合わせ”が悪かったのか。
これまで聞いたことがないようなコロナの怒声に、レウルスは踏み出した足が金属にでも変化したように動かなくなる。
「わたしは……っ」
そう言いながら振り返ったコロナの瞳には、涙が浮かんでいた。しかし、レウルスの表情を見るなり言葉を不自然に途切れさせ、表情を崩し――寸でのところで唇を引き結ぶ。
「ごめんなさい……ひどい態度を取って、ごめんなさい……でも、今は聞きたくないんです……」
そう言って視線を逸らしたコロナの姿に、レウルスは踏み出した足をゆっくりと引いた。
それでも何か言うべきで、行動するべきだと理性が訴えかけるが、明確な言葉が口から出てこない。
「……ごめんなさい、レウルスさん……おやすみなさい」
言葉を探すレウルスのすぐ傍を、コロナが俯きながら通り過ぎていく。レウルスは咄嗟にコロナの腕を掴もうとしたが、躊躇するように伸ばした右手は空を切った。
「…………」
レウルスは空気を掴んだ右手に視線を向けると、そのまま腰を下ろして床に座り込む。そして右手を拳の形に変えて額に当てると、深々とため息を吐いた。
(腕を掴めたとして……何を言おうとしたんだ俺は……)
そもそも、“何か”言えたのか。ルヴィリアやエリザ達が相手ならば言えたことが、口から出てこないというのに。
レウルスは再度ため息を吐き、ふと、その視線が調理場の一角へと向けられた。そこにあったのは封がされた数本の酒瓶で、レウルスはなんとなくその内の一本を手に取る。
そして酒瓶を揺らしてみると、チャポンと音が返ってきた。
酒に酔えば勢い付くこともできるかもしれないが、“今の体”になってから酒に酔った覚えがない。そもそも、酒に酔った勢いで何を言うのか。
それでも、酔えれば今の心情も少しは柔らかいものに変わったかもしれない。刃物で刺されるよりも余程響いて感じる胸の痛みが、何を示しているのか。
(酒に酔えないことを嘆いたことはあるが……ったく)
――今日ばかりは、自分の体が恨めしいと思うレウルスだった。




