第581話:悲喜交々 その2
レウルスがルヴィリアを娶ると決めた日の夜。
ナタリアは自室で一人、グラスを片手に果実酒を口に運んでいた。瓶に入った果実酒を手酌でグラスに注いでは飲み、時折考え事をするようにグラスを揺らして果実酒が波打つのを眺め、再び果実酒で喉を潤していく。
現在滞在しているロヴァーマは王都ということもあり、ラヴァル廃棄街では容易に入手できない質の酒もそれなりに安価で、大量に買うことができる。
ラヴァル廃棄街の土産にも丁度良いと樽でいくつも購入していたナタリアだったが、今飲んでいるのは相応に値段が張る逸品だった。
「静かな夜ね……」
ポツリとナタリアが呟く。
“普段ならば”索敵や暗殺への警戒から常に周囲の音を探るナタリアだったが、今日ばかりはそのような真似はしない。風を操って周囲の音を拾ってくるなどナタリアからすれば容易いことだったが、今日ばかりは“野暮”というものだろう。
「……本当、静かな夜だわ」
果実酒の瓶を傾け、陶器製のグラスに中身を注ぎながら再度呟く。
レウルスがエリザ達を集めて自室に向かったのは、つい先ほどのことだ。今頃はどのような会話が行われているか、聞こうと思えば聞くことができる。風魔法の扱いに長けたナタリアならば、数百メートル離れていようがその場で話を聞くようにして会話を盗み聞くことも可能なのだ。
しかし、そんな真似はしない。ただ、エリザ達がどんな反応を示すか想像し、小さく苦笑を浮かべる。
レウルスがルヴィリアを娶ると決めたその日にエリザ達へどんな言葉を向けるのか。興味は少しばかりあるが、どのような結果になってもナタリアは全てを肯定するつもりだった。
レウルスがルヴィリアと結婚すると決めたのならば、“それはそれで良い”とナタリアは思っている。それがレウルスの下した決断ならば尊重しようと、そう思っている。
レウルスは特に気にしていないが、ナタリアからすればあまりにも借りが大きすぎるのだ。以前も話した通り、どのような報酬を与えれば良いのか頭を悩ませるほどにレウルスは様々なものをナタリアにもたらしている。
今回のルヴィリアとの結婚に関しても、ナタリアからすれば“利益”がゴロゴロと転がり込んできたような状態だ。
新興の男爵家にとって足りないもの――人材という手に入れるには運や伝手や金が必要となるものが、一挙に手に入るのだから。
ルイスはレウルスがルヴィリアと結婚せずともセバスを始めとして数人の人材を差し出すと言っていたが、レウルスが断っていれば“最低限”の人数になっていただろう。だが、今日のルイスの喜びぶりを見る限り、人数が少なくとも送り出す人員を念入りに選別するに違いない。
余所者ということもあってラヴァル廃棄街やスペランツァの町の者達は良い顔をしないかもしれないが、基本的に領地の運営やナタリアの補佐に使用する者達なのだ。悪影響は最低限で、それでいて効果は非常に大きなものとなるだろう。
特に、セバスを得られるのは望外の幸運だった。ヴェルグ伯爵家の統治方法をそのまま流用することはできないが、経験豊富な人材というのは大金を用意しても確実に手に入るものではない。
セバスの意見を参考にし、家中を統率し、領地の発展に努める。開拓が始まって一年と経っていないアメンドーラ男爵領だが、これからは時間が経つにつれてどんどん発展していくだろう。
それは最早空想ではなく、“ほぼ”確定した未来だとナタリアは見ている。
これからスペランツァの町に建てるナタリアの邸宅の維持管理は、今回の話で手に入る人材を基幹に据えればどうとでもなる。後はニコラやシャロン、他にも見込みのある若者を雇い入れ、教育を施していけば徐々に形になっていくだろう。
アメンドーラ男爵領が保有する戦力に関しては、充実の一言では済まないほどだ。
ナタリア自身元々は王軍で一隊を率いていた将であり、個人としての戦闘能力も高い。コルラードが率いることになる領軍はまだまだ形にもなっていないが、レウルスにエリザ、サラにミーア、ネディに加え、ドワーフの集団までいる。
そこに助力を得られるのは限定的になるだろうがジルバが加わり、更にレウルスが連れてきたクリスとティナの存在もある。クリスは“現状では”頼れないだろうが、ティナに関してはいくらでも手の打ちようがあるとナタリアは見ていた。
それもこれも、レウルスが引っ張ってきた縁である。果実酒を飲みながら思考するナタリアは苦笑を浮かべ、本当にどうしたものかと頭を悩ませた。
「領内に新たな村を作って、そこの管理を任せれば……コルラードならともかく、レウルスは嫌がるわね。とりあえず準男爵の身分に相応しい家を……新築が良いかしら? それとも今ある家を増築する方が喜ぶか……その辺りは今後話していくとしましょう」
思考をまとめるように呟くナタリア。
レウルスが準男爵になり、その上でルヴィリアを娶ると決めた以上、立場に見合った家に住んでもらわなければならない。レウルスならば最低限の広さがあれば満足しそうで、ルヴィリアもレウルスと一緒ならば粗末な家だろうと喜んで住みそうだが、さすがに体裁というものがある。
「困るわね……本当、困るわ……」
そこまで思考したナタリアは、他に何を与えれば良いのかと苦笑を深めた。
以前から悩んでいたことだが、金も領地も名声も求めない相手に渡す報酬というのは何を選べば良いのか皆目見当がつかない。武器や防具も現在レウルスが使っている以上の物は用意できると思えず、レウルスは酒色に耽る性格でもない。酒はともかく“色”に走るような性格ならば、ナタリアとてここまで悩んでいない。
「珍しい食べ物とか、香辛料を定期的に渡すだけで満足しそうなのよね……」
笑顔で喜び、サラに焼かせた肉に香辛料を振りかけて頬張るレウルスの姿が脳裏に浮かんだ。それは容易に想像できるほど、嬉しそうな笑顔だった。
ナタリアは領主として、意味のない必要以上の散財は無駄だと思っている。しかし吝嗇家だと思われるのも領主としてはまずい面があった。そのためレウルスへ適切な報酬を渡したいのだが、レウルスは大して求めるものがなく――と、そこまで考えて堂々巡りになる。
「大したものを求めず、それでいて功績は抜群……レウルスを家臣とは呼びたくないけど、“上に立つ者”からすると本当に困った話だわ……代わりにコルラードを優遇しても良いか尋ねたら、喜んで頷きそうなのが余計に性質が悪いわね」
“本来ならば”レウルスの独立なり裏切りなりを警戒し、備えるべきなのだろう。しかしナタリアにはそのような真似をするつもりは微塵もない。
王宮や宮廷貴族の謀略によってレウルスが独立“させられる”可能性は否定できないが、レウルスがナタリア自身や町の仲間達を裏切るなど天地が引っ繰り返ってもあり得ないと判断しているからだ。
それでもなお警戒するのが領主という生き物だろうが、こればかりはあり得ないとナタリアは断言できる。仮に裏切られるとすれば、そうするに足る何かを仕出かしてしまった時ぐらいだろう。
ナタリアとしてもあり得ないことだが、例えばエリザ達を自らの手で殺す――などという真似をすればレウルスも激昂するに違いない。本当に、あり得ないことだが。
「こんなことで悩めるあたり、他の家中と比べれば恵まれているのよね……」
はぁ、とため息を吐くナタリア。本当に悩ましいことではあるが、本当に、心の底から思えるほどの幸運でもあるのだ。
レウルスがナタリアに対して向けている感情は、忠誠ではない。ラヴァル廃棄街で培われた仲間意識が近いが、レウルスの“ソレ”はもっと根源的なものだとナタリアは見ている。
レウルスにとってラヴァル廃棄街こそが故郷であり、スペランツァの町こそが自らの手で切り開いた居場所なのだ。領主が自身の領地に向ける執着心に似ているようでいて、僅かに異なる感情だろう。
「……立場が違えば、か」
ぽつりと、ナタリアが呟く。この場に他者がいないからこそ口から出てきた言葉で、もしも他の誰かがいれば絶対に言わなかったであろう言葉だった。
現状でさえ、ナタリアからすれば幸運としか言い様がないのだ。“これ以上”を求めるのはさすがに恥知らずと謗られても仕方がない所業である。
ナタリア自身の才能と努力の甲斐もあったが、新興の男爵としてこれ以上のことは望めない。仮に他の男爵が自分の状況を見れば、血涙を流しながら殴りかかってくるだろうとすら思えた。
それでも、アメンドーラ男爵ではなくナタリア個人の心情からすると、今の胸の内にある感情は――。
「……まあ、仕方ない……わね」
そう呟き、想いに蓋をするようにして果実酒を呷る。
そうやって割り切れるからこそ、“隣に立てない”のだと理解していた。それでもナタリアは一個人ではなく、四代という時を重ねてきた貴族なのだ。
領地と領民に対する責任があり、ナタリア自身もそれを望んでいる。
「あと数日もしない内にレウルスが王城に呼び出されるでしょうし……領地に戻ってからも大変そうね」
故に、感情に蓋をするように酒精を飲み干した後に零した呟きは、ナタリア個人のものではなくアメンドーラ男爵としてのものだった。
――それで良いのだと、ナタリアは自身に言い聞かせるのだった。




