第540話:開戦 その1
レウルス達と別れたティナは、一人で森の中を駆けていた。
レウルスが止めていたため大丈夫だとは思うが、ジルバが追ってくる可能性を考慮し、時折樹上を駆けるなどして痕跡を消しながらの移動である。
仮にジルバが追ってくるならば樹上の移動跡も見つけそうだが、さすがに妖狐の血を引くティナが全力で隠蔽に努めればただの人間が追跡してくるのは不可能だ。
――ただの人間ならば、グレイゴ教徒に『狂犬』などというあだ名を付けられて忌み嫌われることもないのだろうが。
そうして森の中を駆けるティナだったが、時折、ふとした拍子に足が止まる。そしてなんとなく背後を振り返り、数秒目を細めては頭を振り、再び前を向いては走り出すといった動作を繰り返していた。
ジルバの追跡を警戒しているというのもあるが、それ以上に後ろ髪を引かれるような感覚があったのだ。
名残惜しいような、胸が締め付けられるな、悲しくなるような。真冬に焚火の傍から離れていくような、寂寥とした感覚が胸中を過ぎった。
(……気のせい……そう、ティナの気のせい……)
ティナはそれを気のせいだと、ただの錯覚だと自分に言い聞かせる。
仮に寂しさを覚えているのだとしても、それは双子の姉にして半身とも言えるクリスと会っていないからだ。これほど長期間離れていた覚えがないため、胸中に寂しさが宿るのも仕方がないとティナは思う。
そうして移動し続けること三時間余り。スペランツァの町や王都での“穏やかな生活”で体力が衰えていると感じたティナは足を止め、懐に手を入れる。
「……ごはん」
懐から取り出したのは、細長い布包みだった。ティナは丁寧な手付きで布包みを開けると、中からは切った野菜と味付けした上で焼いた肉を挟んだパンが姿を見せる。
お昼ご飯にどうぞ、とコロナからこっそりと渡された代物だった。ついでに渡された水筒を腰帯から抜き取り、一口飲んで喉を潤す。これもまたコロナの気遣いだったのか、中身は緑茶だった。
「……いただきます」
ティナはそう呟いてからパンに噛みつく。魔物の気配もしないためゆっくりと、味わうようにして食べ、五分ほどかけてパンを平らげる。
「……ごちそうさまでした」
誰も見ていないがパンを包んでいた布地に向かって頭を下げ、ティナは再び森の中を進み出す。その際、手に持った布地をどう処分するか悩んだものの、数分間悩んでから折り畳み、懐へと突っ込んだ。
痕跡を残すわけにはいかない――そう、“それだけ”のことだ。
そして二日後、ティナは一ヶ月以上ぶりとなるクリスとの再会を果たした。
マタロイだけでなくカルデヴァ大陸全土を駆け巡るグレイゴ教は相応に精度の良い地図を保有しており、大まかながらも頭にマタロイ全土の地形も叩き込んでいたティナは、自分なら“ここで仕掛ける”と思った場所に足を運んだのである。
街道から程よく離れ、遮蔽物が少ない平地。それでいて近辺に町や村もなく、王軍の巡回の頻度が少ない場所。マタロイはカルデヴァ大陸の北西にあり、そんなマタロイの中でも中央からやや北寄りにある王都から北西に進み続けると、最後には海に辿り着く。
つまり国境も存在せず、近隣の領地からの目も届きにくく、兵士の巡回も少ない。そんな場所がカルデヴァ大陸のあちらこちらにあり、ティナはその内の一つにグレイゴ教徒が集まっていると判断した。
その結果予想通りグレイゴ教徒達を発見し、クリスとも再会できたのだ。
久しぶりに再会したクリスの顔は、以前と同じく狐面をしているため見ることができない。それでも全身から安堵の雰囲気が漂っており、ティナも自然と表情を緩めていた。
「……ティナ?」
「……なに?」
そんなティナに対し、クリスが怪訝そうな声をかける。ティナはそのような声をかけられるとは思っていなかったため首を傾げたが、クリスは何かを言いたそうにしながら言葉を切り、腰裏につけていたもう一つの狐面を取り出してティナへと放った。
「少し……ううん、なんでもない。これ、新しい面」
「…………」
ティナは狐面を受け取ると、顔に着けようとする。だが、その直前で手が止まり、小さく眉を寄せた。
「……ティナ?」
再度ティナの名前を呼ぶクリス。困惑の色が強まったその呼びかけに、ティナは小さく頭を振ってから狐面を付ける。
「それで……どうだった? レベッカが手紙を出してたけど、『魔物喰らい』達は来る?」
「……来る」
「戦力は? マタロイの国軍が動くか、他の司教も気にしてる……レベッカはいつも通りだけど」
“司教として”尋ねるクリスに対し、ティナは狐面越しに僅かに視線を彷徨わせた。
「『魔物喰らい』、『狂犬』、吸血種、それと……精霊が“二人”。あとはドワーフだけど、気にしなくても良いと思う。それと、王軍も動かない」
「戦力は変わってない……でも、油断はできない」
クリスは自分に言い聞かせるように呟く。そして数秒ほど思考すると、その視線を背後へ向けた。
「とりあえず他の司教と話そう。まだ準備に時間がかかるから、まずは情報を共有したい」
「……わかった」
クリスの言葉にティナは頷きを返す。
レウルス達の戦力に関して、嘘は言っていない。ただ、“本当のこと”を言っているともいえず――何故そんなことを言ったのか、ティナにもよくわからなかった。
「臭いますねぇ……あの唾棄すべき異教徒共の臭いです……」
そして、レウルス達はティナとは違った方法でグレイゴ教徒達のもとへと迫りつつあった。
馬車が一緒のため極力街道を進んでいるが、時折ジルバがレウルス達から離れて森に飛び込んだと思えば戻り、少し進んでは再び森に飛び込むということを繰り返す。
さすがのジルバといえど、本当に嗅覚でグレイゴ教徒を追っているわけではない。平地や森の中に残っている僅かな痕跡から、進むべき道を定めているだけだ。
(本当に臭いで探ってない……よな?)
レウルスはジルバの行動にも慣れたものだったが、グレイゴ教徒を追っている際のジルバならば嗅覚で探り当てることも可能なのではないか、と僅かながらも思ってしまう。
実際のところは残っている痕跡――それも手練れが多いグレイゴ教徒だからこそ“僅かにしか残らない”痕跡を探し出し、進んでいる方向や人数を推測するのだ。
あるいは、ジルバならば全く根拠のない第六感でグレイゴ教徒の位置を探り当ててもおかしくない、とレウルスは思ったが。
「この辺りはあまり来たことがありませんが……あと数時間も北西に進むと、奴らが好みそうな平地があったはずです。王軍の巡回が少なく、近隣の領地の目が届きにくい……そんな、あのクソ共が好みそうな場所が、ね」
『……くそども?』
「ジルバさん、ラディアの教育に悪いんでクソ共はやめてもらえますか?」
「これは失礼を……謝罪いたします、ラディア様」
“普段通り”のジルバだったが、ラディアが妙なところに反応を示したためレウルスは苦笑しながら注意を促す。気分は幼児か赤子の躾といった感覚だったが、ラディアが喋れるようになってからの期間を思えばおかしな話ではない。
そんな聞く者によっては気が抜けていると思われるような会話をしつつも、レウルスとジルバに油断はなかった。馬車の前方を歩きつつも、常に周囲に意識を向けている。
「そろそろ先輩と馬車をどうするか決めた方が良いんじゃないですか? いきなり戦闘が始まったら、先輩と馬車が避難する暇もないかもしれませんし……」
「そうですね……少し西に進むと村があったはずなので、そこで待機してもらうのはどうでしょうか? 食料などは預けて、なるべく身軽な状態で捜索をしたいですしね」
「それが一番ですか……先輩、何かあったら俺の名前を出してくれて良いからな? それでも駄目なら姐さんの名前で……うん、姐さんもさすがに今回は何も言わないだろうしな。あと、金が必要なら……」
レウルスは懐を探り、布袋を取り出す。そしてニコラへと放ると、ニコラは片手でキャッチして眉を寄せた。
「重てぇな……なんだ、これを使って良いのか?」
「ああ。中身は……いくら入ってたっけ? ま、好きに使ってくれよ。なんなら村の作物を買いに来た、みたいなことを言えば大歓迎で泊めてくれるかもよ?」
「ハッ、お前らが大変だって時にのんびりしてられっかよ。だがまあ、俺じゃあ足手まといになるのも確かだ……とりあえず、捜索が“空振り”だった時に備えて村で休むための準備を整えておくぜ」
ニコラの言葉にレウルスは頷き、ひとまずはニコラと馬車に同行して村を目指す。ないとは思うが、村に向かう途中でニコラが襲われたり、強力な魔物に遭遇したりする可能性もゼロではないのだ。
そんな危惧から村まで同行したレウルス達だったが、グレイゴ教徒達は人目に付くことを避けたのか、特に見当たらなかった。サラが熱源を探ってもそれらしい気配はなく、ジルバの勘にも引っかからなかったのだ。
そのため、ルイスから渡された『魔石』や王都の薬屋で購入した魔法薬だけ馬車から取り出し、レウルス達はグレイゴ教徒を探す準備を整えてから出発した。
(まあ、村や町で食料なりを仕入れてたらすぐにバレるだろうしな……王都には既にバレてたというか、利用されてこんな形になってるわけだけど……)
おそらくはグレイゴ教徒達がいるであろう場所にはジルバが目星をつけた――が、空振りだった時に備えてニコラは馬車と共に村へと残る。
それでもレウルスは、ジルバの勘が外れることはないだろうと思っていた。何せ相手がグレイゴ教徒である。ここでジルバが勘を外すようならば、実はジルバが偽者だったという可能性も考慮しなければならない、と冗談半分で思うほどだった。
「奴らが一ヶ所に集まらず、バラバラに動いているのなら各個撃破したいところですね……司祭以下なら複数が相手でも負けるつもりはありませんが、司教が複数となると面倒ですから」
「面倒で済むんですか……」
ニコラと別れたレウルス達は、森の中を進んで行く。街道は見晴らしが良く、サラの索敵範囲外から一方的に発見される危険性があるのだ。
“発見させて”逆に襲い掛かるという手段もあるが、相手の戦力がわかっていないため取れない選択肢だった。
(王様や宮廷貴族が俺達にこの依頼を振ってきた以上、ある程度勝ち目があるって判断してるとは思うけど……さすがに最初から全滅が前提で相手の戦力を少しでも削ってほしいなんて思ってないよな?)
そんなことを思いながら、レウルス達は森を抜けて見晴らしの良い平地へと出る。ジルバが“目的地”に定めた場所は、まだ二時間ほど歩いた先にあるらしい――が、レウルスはふと、刺すような殺気を感じた。
「サラ」
「ん? えーっと、熱源は……あったけど、かなり遠く?」
そう言いつつ、サラは熱源を感じ取った方向を指さす。それは木がまばらに生えた平地の先であり、数百メートルは離れた場所で。
(……ん?)
遠目に人影を見つけたレウルスは、小さな疑問を覚えた。殺気は感じるが、魔力は感じないため魔法の準備をしているというわけではないだろう。
(なんだあれ……弓……じゃないな。槍でも剣でもない……棒?)
距離があるため鮮明には見えないが、人影は何やら“細長い棒状の物体”をレウルス達に向けているようだった。それと同時に殺気が強まるのを感じ取ったレウルスは、脳裏にまさかという言葉が浮かぶ。
「っ!?」
反射的にレウルスが前へと飛び出し――それと同時に、遠くから乾いた炸裂音が響くのだった。




