第53話:人間(ヒト)
――時を遡る。
「……! ……さんっ!」
誰かがすぐ傍で大声を上げている。強制的に途切れた意識がその声を拾い上げ、レウルスの意識が僅かに覚醒した。
「レウルスさんっ! しっかりしてください!」
聞こえてくる声は、コロナのものだった。それに気付いたレウルスだったが、意識は再び落ちそうになる。だが、脇腹から伝わってくる激痛と得体の知れない“気持ち悪さ”が無理矢理意識を覚醒させた。
「ヅゥッ!? いっ、なん、ぐ、ぅ……」
これまで体験したことがないような激痛に、意識は戻れどまともな声が出ない。あまりの痛みに体を丸めたくなるが、少しでも体を動かそうとすれば激痛が走るのだ。
それでもなんとか目を開ける。コロナの声はかつてないほど切羽詰まっており、気を失うことなどできるはずもなかった。
「良かった……でも動かないでくださいっ! エステルさんが来てくれますから!」
「っ……コロ、ナ、ちゃん……」
目を開けてみると、視界が真っ赤に染まっていた。その上で酩酊したように視界が揺れており、事態の把握に時間がかかる。
どうやら自分は地面に寝かされているらしい。たったそれだけの事実をレウルスが知るのにかかった時間は十秒ほどであり、そんなレウルスのすぐ傍でコロナが必死に声をかけているのだ。
赤く染まった視界の中で見たコロナの姿は、ところどころが視界と同様に赤く染まっているように見えた。両手と服の大部分、そして何故か口の周りも赤く染まっている。
痛みと気持ち悪さが全身を巡っているが、あまりにもコロナの状態がおかしかったためレウルスは言葉を紡ぐ。
「なに、を……して……」
「おいコロナちゃん! 水だ! 早く口を濯げ!」
そんなレウルスの言葉を遮るように声が響いた。それがニコラの声だと理解するのに時間がかかり、レウルスは思考速度が遅い自分自身に困惑する。
ニコラはレウルスが目を覚ましたことに気付くと、レウルスの血で汚れるのに構わず地面に膝を突く。
「目が覚めたか! いいか、そのまま意識を保ってろよ!? ああくそっ! どこのどいつだ! シャロンも早く来い! 精霊教師が来るまで傷口を凍らせて血を止めとけ!」
「……わかった。コロナ、離れて」
ニコラに続いて駆け付けてきたと思わしきシャロンがそう言うと、コロナは即座にレウルスの傍から離れる。すると、右の脇腹から急速に“何か”が溢れ出るのを感じた。
それが己の血だと気付いたレウルスは、何故このような状況になっているのか思い出す。
レウルスが最後に見たのは、見知らぬ男が短剣で突き刺した上で顔面を石で殴りつけてきた光景だ。その光景を最後に意識が途絶えていたようだが、短い時間とはいえ気絶していたらしい。
「っ!? エリザ――おぐっ!?」
「起きんなボケッ! コロナちゃんの応急手当を無駄にする気か!?」
あの男は『迎えに来た』と言っていた。レウルスには思い当たる節がなかったが、あの状況を考えればエリザが目的なのだろう。そう考えたレウルスは体を起こそうとしたが、ニコラが押さえ込んでいたため痛みに呻くだけで終わる。
「応急……手当?」
「そうだよ! 騒ぎに気付いたコロナちゃんが手当てしてくれたんだ! 短剣に毒が塗られてたからそれを吸い出してくれたんだよ! それでも全部吸い出せたわけじゃねえ! 毒が回るからじっとしてろ! “傷は浅いが”毒はどうにもならねえ!」
コロナの口周りが血で汚れていたのは毒を吸い出した影響らしい。両手が血で汚れていたのは、毒を吸い出す際に短剣を抜いた傷口を直接圧迫して止血していたからだろう。視線を向けてみると、傷口の周囲が若干紫色に染まっていた。
「なんの毒かはわからねえが、口の中に傷があると吸い出した方も危ねぇからな……いくら傷がないっていっても、毒を吸い出してくれたコロナちゃんに感謝しとけよ?」
「ぐ、っぅ……毎日……感謝してるし、崇めてるよ……これからも、毎日崇めるさ……」
「ハッ、冗談が言えるなら大丈夫だな……よし、十分だシャロン」
話している間にシャロンが傷口を凍らせて止血したのか、血が流れ出る感触もなくなる。下手すると傷口が壊死しそうだが、治癒魔法が使えるエステルが駆け付けるまでの止血としては十分だろう。
吸い出した毒を飲み込まないよう注意しつつも、レウルスの止血をやめなかったコロナにレウルスは心中で深く感謝する。やはり既存の宗教を信仰するよりもコロナを信仰した方が良さそうだ、と冗談混じりに思った。
そうしてじっとしていると、町の住人が呼びに行ったのかエステルが走ってくる。普段ならば精霊教の力は借りないのだろうが、今回は事態の内容が深刻なだけにそうも言っていられないようだ。
「これは……ラーシェの毒ですね……」
駆け付けたエステルは、レウルスの傷口を見て匂いを嗅ぐなりそう断言する。出会った時のような間延びした言葉ではなく、真剣さを滲ませた口調だった。
エステルは傷口やレウルスの顔色を診察すると、悔しげに表情を歪ませる。
「この毒は、わたしでは治せません……コロナさんがある程度吸い出したとしても、少量でも体内に入れば死に至る毒なんです。毒を吸い出したコロナさんを『解毒』するだけなら問題はないのですが……」
申し訳なさそうに、己の無力を嘆くようにエステルが言う。それを聞いたニコラやシャロンは責めるように表情を変えるが、それに気付いたレウルスは氷で止血された己の傷口を指差した。
「エステルさん……この傷、治してくれるか?」
その言葉にエステルは目を見開き、ニコラやシャロンは一体何を言うのかと眉を寄せる。
「滅茶苦茶痛いし、気持ち悪いんだけど、このまま寝てもいられねえんだよ……かなりきついけど、死ぬ気はしねえ。傷さえ治れば、まだ動ける」
そもそも、コロナが危険を顧みずに毒を吸い出してくれたのだ。このまま死ぬわけにもいかず――エリザを放っておくわけにもいかない。
この場にエリザがいないということは、いきなり短剣を突き刺してきた男に攫われたのだろう。そうであるのならば、なおさら寝ているわけにはいかなかった。
「そのぐらいの傷なら治せます……でも、毒が……」
「は、ははっ……なんか、毒には耐性があるらしくてさ……ああ、そっか。エステルさんは“その時”の記憶がないんだっけ……」
エステルから聞いた話だというのに、本人は覚えていないのだ。それが妙におかしく感じられ、レウルスは痛みを堪えて笑みを浮かべて言った。
「『加護』らしいし、ここは大精霊様ってのを信じてみるさ」
「町全体の殺気がやべぇ……」
エステルの治療を受けたレウルスは、濡れた手拭いで顔を拭きながらそんなことを呟く。視界が赤く染まっていたのは額を割られた際に流れ出た血がそうさせたのであり、鏡があれば顔全体が血に染まった自分の顔が見れただろう。
エステルの治癒魔法によって額と脇腹の傷は塞がったが、流れた血が戻るわけではなく、血で汚れた部分が綺麗になるわけでもない。レウルスは落とせる限りで自分の血を拭い去ると、深々とため息を吐く。
「刺された本人が何言ってんだ? 身内を襲われたんだから当然だろうが」
それが聞こえたニコラは呆れたように言うものの、その表情と声色には怒りが滲んでいた。
血が抜けたことが原因なのか、毒が原因なのか、意識がはっきりしても体の調子が悪い。死にはしないだろうが、使われた毒は余程強力なものだったのだろう。コロナが毒を吸い出してくれたというのに、今世において過去最悪と呼べるほどに気分が悪かった。
そんなレウルスの気分とは正反対に、ラヴァル廃棄街は全体が活気づき――活気を通り越して殺気で満ち溢れているのは、突然レウルスが刺されてエリザが攫われたからだろう。
ラヴァル廃棄街では余所者には冷たく当たるが、身内が害されたとなれば話は別だ。
冒険者だけでなく普段は農作業に従事している者、魔物と戦いで冒険者を引退した者、中にはレウルスよりも年下の子どもや主婦らしき女性まで武装を整えていた。
農作業者は鍬などの農作業具を、冒険者を引退した者は現役時代に使っていたと思わしき武器を、力が弱い子どもは弓や布製の投石器を、主婦達は包丁を手に持っている。
自分の負傷が原因でここまで殺気立つ面々に驚くレウルスだったが、同時に嬉しさも感じてしまう。
(シェナ村だったらそのまま放置するか、毒で侵された“エサ”を食えば魔物も死ぬからって放り出されてただろうに……でもなぁ)
生まれ故郷が滅んでも良心は微塵も痛まないだろうが、ラヴァル廃棄街に何かあれば怒りを覚えることは想像に難くない。故に、ここまで殺気立ってくれることが嬉しくとも心配してしまう。
「まさかとは思うけど、襲ってきたやつを追いかけるために全員で突撃……なんてことはしないよな?」
「やりたいならやってもいいぜ? 刺されたお前が言えばついていく奴も多いだろ……ま、さすがにそれはねえさ。皆はこの町を守るための準備をしてるだけだ」
「準備?」
レウルスは首を傾げたが、重たい足音が近づいてくることに気付いて音が聞こえた方向に視線を向ける。
「この町の中で舐めた真似をしてくれた余所者を追うための準備だ」
「……無事だったか」
「組合長……おやっさん……」
姿を見せたのはラヴァル廃棄街の冒険者組合で長を務めるバルトロと、日頃から世話になっているドミニクだった。
両者ともキマイラと戦った時のように革鎧で身を固めており、バルトロは巨大な戦斧を、ドミニクはレウルスに渡した物より小さいが大剣を背負っている。
冒険者を引退したドミニクが一体何をする気なのか――などと問うのは無粋だろう。
「おやっさん、すいません……コロナちゃんに危ない真似をさせました……」
そのため、レウルスが口にしたのはコロナに関する謝罪だった。助けられたことには感謝しているが、いくらなんでも猛毒を吸い出すなど危険過ぎる。そのことを謝罪するレウルスに対し、ドミニクは苦笑しながら首を振った。
「父親としては怒るべきなんだろうが、コロナが選んだことだ……むしろお前を見捨てるような娘でなかったことを喜ぶべきだな」
エステルの『神託』で聞いた毒の耐性がどの程度効果があるのかわからず、コロナが手当てしてくれなければ死んでいたかもしれない。短剣を抜いて出血はしたが、塗られていた毒の全てが体に回らなかったのはコロナのおかげだった。
そうやってどこか満足そうに笑うドミニクに笑い返すレウルスだったが、険しい顔をしたバルトロが町の外に視線を向けながら口を開く。
「それで、だ。見張りや町の外で魔物を狩っていた連中から情報を集め、下手人が逃げた方向を特定している。馬鹿正直に真っ直ぐ逃げたとは思わねえが、完全に日が暮れる前に町を出るぞ」
「……それって危険じゃないか?」
外灯もないこの世界では、夜になると闇が非常に深くなる。月が出ていればある程度は視界も確保できるが、逃げた相手を追跡するのは非常に困難だろう。
「危険? それよりも優先すべきことがある……うちの身内を襲ったツケを払わせるっていう、何よりも優先すべきことがな」
「お前が危惧していることもわかるが、こちらも出せる全ての戦力を出す。いくら魔物といえど、一塊になって移動する大勢の人間を襲う奴はそれほど多くないはずだ」
バルトロとドミニクは打って出るつもりらしい。それほどまでに大事にしている“身内”に自分やエリザが入っていることは嬉しいが、無策で追いかけるのは危険すぎるだろう。
だが、このままエリザを放置する気などレウルスにもない。要は相手が逃げた先がわからないのが問題なのであり、それさえ解決すれば単独で突撃することも吝かではないのだが――。
「……ん?」
そこでふと、レウルスは違和感を覚えた。毒の気持ち悪さで気付きにくかったが、何故か遠くの方から魔力を感じるのである。少なくとも数百メートルではない。キロ単位で離れていると思われた。
「なんだ、コレ……この距離で気付けるってことは強い魔物……か?」
キマイラの時のように強い魔物の魔力に反応しているのだろうか。そう考えたレウルスだったが、感じ取れた魔力に対する恐怖感はない。むしろ弱々しく感じられる“その魔力”は、レウルスとしても馴染みがあるものだった。
「……エリザ?」
ぽつりと呟く。遠くから感じる魔力はエリザのものだと、根拠はないが確信できた。
そんなレウルスの呟きを拾ったのか、バルトロが怪訝そうな顔をする。
「攫われた娘か……いや、待て、その娘は吸血種だったな? レウルス、お前もしかして血を吸われたか?」
「血? いや、エリザは吸いたくないって――」
そこまで言葉を続けたレウルスだったが、思い当たる節があった。
「どれぐらいかわからないし、本人も最初は否定してたけど右腕の傷を舐めた……はずだ」
思い出したのは、水浴びに行った際に魔犬と戦って負った右腕の傷のことである。冗談でエリザに『唾をつければ治る』と吹き込むと、レウルスが寝ている時に傷口を舐めていたのだ。
実際にそれで傷が治り、吸血種の唾液の効能に関して首を傾げたものである。
「……それだ。その後、傷が治らなかったか?」
「治ったけど……なんだよ組合長、何か知ってるのか?」
料理店の家主であるドミニクならばともかく、バルトロが傷の完治を言い当てるのは何かしらの“予想”があってのことだろう。
「『契約』だろうな。おそらくは本人も無自覚で、正式なものでもないのだろうが……『契約』の影響で吸血種の治癒力の高さがお前にも発揮されたんだろう」
聞き覚えがない言葉だ。しかし、その『契約』とやらでエリザの位置がわかるのならばなんでもいい。
「バルトロさん、見張りの聞き取りが終わったぜ」
そうやって言葉を交わしていると、門番のトニーが駆け寄ってきた。その報告にバルトロは大きく頷くと、レウルスに視線を向ける。
「レウルス、その娘の魔力を感じるのはどの方向だ?」
「魔力が弱いから確信はないけど……」
そう言ってレウルスはエリザのものと思わしき魔力を感じる方角を指差す。その方角を確認したバルトロはトニーと顔を見合わせると、獰猛に笑った。
「一致したな……毒が回っていると聞いたから置いていくつもりだったが、ついてきてもらうぞ」
「最初からそのつもりだったし、置いていかれたら一人で走っていったよ」
バルトロの物騒な笑顔と同様に、レウルスも歯を剥き出しにして笑うのだった。
そして、レウルス達はラヴァル廃棄街を後にした。
先頭を走るのはバルトロとドミニクであり、ドミニクの背にはレウルスがしがみ付いている。毒が回るため移動はドミニクに頼っているが、『強化』が使えるドミニクはレウルスの重さを苦にせず走っていく。
バルトロとドミニクだけでなく、ニコラやシャロン、さらにはラヴァル廃棄街に所属している多くの冒険者が同行している。この状況では我を張ってもいられないと自分を曲げたニコラはエステルから治癒魔法を受け、体調も万全だった。
駆ける冒険者達の数は五十人近い。それぞれが松明と武器を持ち、殺気を滲ませながら走っているためか、近づいてくる魔物もいなかった。
ラヴァル廃棄街に所属している冒険者全員がこの場にいるわけではないが、ラヴァル廃棄街の防衛に回す戦力までは連れてくることができず――それでも、残してきた戦力は最低限のものでしかない。
「レウルス、どっちだ?」
「あっちだ。だいぶ近づいてきたけど……っ?」
既に日が落ち、月が中天に昇り始めた刻限。松明と月明かりのおかげで多少なり確保されている視界の中に映った森の中を見た途端、レウルスは多くの魔力を感じ取った。
「あの森の中だけど……魔力を持った奴がいるぞ。動かないから魔物じゃねえ。一人、二人……五……十?」
「そいつらが敵か……魔力を持っていない奴もいるとすれば、突破は難しいな」
苛立たしげにドミニクが呟く。このまま雪崩れ込みたいところだが、魔法を使える相手が待ち伏せする森の中に飛び込むのは自殺行為だ。
森の中で迎撃するつもりなのか動きがなく、敵の数がわからないというのも厄介な話だった。ラヴァル廃棄街の面々はそれまで駆けていた足を止め、敵の動きを注視しながら息を整える。
強引に突破しようとすれば、一体どれほどの被害が出るかわからない。かといってこのまま足踏みしているわけにもいかない。
感じ取れるエリザの魔力は、現状を伝えるように激しく増減している。同時に、エリザの心情すらも伝わるようだった。
エリザが抱いている強い感情は、恐怖。それを感じ取ったレウルスはドミニクの背中から下りると、大剣の剣帯を締め直してから遠くの森を睨み付ける。
(このまま進めば敵とぶつかる……エリザの魔力は森の奥だ。エリザのところに行くには何人いるかわからない敵の中を突っ切る必要がある、か……)
僅かとはいえ毒が抜けてきているのか、動けないほどではない。それでも体調は悪く――“その程度”で止まるつもりはなかった。
「おやっさん、シャロン先輩、頼みがある」
この時レウルスが考えたのは、至ってシンプルな方法である。ドミニクとシャロンを呼ぶと、己の考えを端的に告げた。
「おやっさんは俺を“飛ばして”くれ。先輩は空中に足場を頼む」
正面から突破できないのなら、正面から行かなければ良いだけの話である。そう思って作戦を説明するレウルスだったが、ドミニクもシャロンも頭痛を堪えるように眉を寄せた。
「着地は?」
「どうにかする」
「仮に足場を……ボクが氷魔法で生み出したとして、どうするつもり?」
「そんなの決まってるだろ」
大きく息を吸い込み、精神を集中するレウルス。エリザから伝わってくる魔力は助けを求めているようで、泣いているようで。このまま放っておくことなどできるはずもない。
体の不調は最早どうでも良かった。いきなり横腹を刺され、少量で死に至るような毒を流し込まれ、挙句の果てに粉々に砕ける威力で石を叩きつけられたのだ。
エリザを攫われたこともそうだが、“殺されかけて”黙っているほどレウルスも大人しくない。
――『熱量解放』。
ガキン、と脳内で歯車が噛み合うような音が響く。それに合わせて全身に魔力が漲り、それまでの不調が嘘だったように腹の底から力が湧いてくる。
「飛んで、走って、森の上から“お邪魔”するだけさ」
それが無理なら、正面突破だ。獰猛に笑うレウルスに対し、ドミニクはため息を吐きながら大剣を抜いた。
「時間が惜しいな。乗れ」
「あいよ。あとは頼むぜ先輩」
ドミニクが大剣を傾けると、レウルスは大剣の“腹”に躊躇なく乗る。そのあまりの躊躇いのなさに、シャロンはドミニクと同様にため息を吐いた。
「間違って君に当たるかもしれない……それでもやる?」
「大丈夫だろ。先輩は俺が知る限り最高の魔法使いだし、そんな先輩で無理ならどうしようもないって」
そう言ってレウルスが笑うと、シャロンは驚いたように目を丸くする。そして数秒ほど視線を彷徨わせると、先ほどよりも深いため息を吐いた。
「……後輩にそこまで言われたら、やるしかない」
「おう、頼んだ先輩」
問題はこれで解決した。あとは自分が上手くやれば良いだけの話だ、とレウルスは笑う。
「ぶっ飛んだことを考えやがる……お前が“飛ぶ”と同時にこっちも攻撃を仕掛ける。突破するまで死ぬなよ?」
「シャロンの魔法で撃ち落されんなよ? もし撃ち落されたら後で笑ってやるからな」
バルトロとニコラも止めなかった。レウルスは二人の言葉に頷くと、ドミニクに目で合図を送る。
その合図と共にドミニクが大剣を振りかぶった。それに合わせて大剣がしなるが、頑丈な造りの大剣はレウルスを乗せても折れることはない。
「おおおおおおぉぉっ!」
咆哮を上げながらドミニクが大きく踏み込み、『強化』による身体強化を最大にして大剣を振る。その勢いはすさまじく――レウルスは大剣のしなりとドミニクの腕力に反発するよう全力で蹴り付けた。
――レウルスの体が宙を舞う。
予想通り、否、予想以上の勢いで弾丸のように“射出”されたレウルスの体は、一直線に空を飛ぶ。
それでもレウルスの体重に加えて革鎧一式に短剣、更にはドミニクの大剣を背負っているのだ。いくらドミニクの膂力と『熱量解放』によるレウルスの脚力が合わさっても、森を飛び越えるには至らない。
だが、レウルスが慌てることはなかった。
「やっぱり最高の魔法使いだよ、シャロン先輩」
レウルスを追うようにして放たれたのは、氷の塊だ。それも一つではなく三つ、空を飛ぶレウルスよりも低い軌道で一メートル近い大きさの氷が飛来する。
一度、二度、三度。空を駆けるように氷の塊を蹴り飛ばし、最後の氷で可能な限り遠くへと跳躍した。
風を切りながら落下するレウルスが見たのは、焚き火の明かりで照らされた二つの人影である。一人は特徴のない顔の男で、もう一人はその男が踏み躙るようにして地面に転がされたエリザだった。
エリザの身に何が起きたのか、それはわからない。見知らぬ男とどんな言葉を交わしたのかも、知る由もない。
それでも、ボロボロで泥に汚れて、涙を流すエリザを見れば“それだけ”で十分だった。
「助けて……レウルス!」
落下するレウルスの耳に届いたのは、エリザが“初めて”上げるであろう、心からの声。その声を聞いたレウルスは口の端を吊り上げ、応えた。
「――任せろ」
「っ!?」
エリザを足蹴にしていた男が小さく息を呑み、瞬時に背後へと跳ぶ。そして次の瞬間には、男が今までいた場所を両断するように大剣を振り下ろしていた。
大剣を地面に叩きつけた勢いで強制的に減速すると、トンボを切ってレウルスは着地する。そしてエリザを庇うように大剣を構え直すと、目を爛々と輝かせて猛然に笑う。
「先に声をかけたこっちが悪いんだろうけど、こういう時は素直に斬られとけよ変質者。ガキを嬲って楽しいか? ああ?」
「……おいおぉい、死人が降ってくるなんてさすがの俺も初めてだぁ。なんだい? 君も化け物だったのかなぁ?」
驚いた様子ながらも、男に油断はない。短剣を握った右手をだらりと下げ、自然体でレウルスの様子を窺っている。
「……レウ、ルス?」
男と対峙していると、背後から信じられないものを見たように震えるエリザの声が届いた。
助けてほしいと言ったくせに、実際に助けに来るとは思っていなかったのか。それでも名前を呼んでくれたことが嬉しく、レウルスは心中だけで苦笑した。
敵を前にして視線を外すことはできないが、それでもレウルスは男への返答を以ってエリザの呼びかけに応える。
「ラヴァル廃棄街所属、下級中位冒険者レウルス――エリザと同じ、“ただの人間”だ」