第52話:嘘か真か
「――そんな奴を“騙して”利用していたお前がよく言えたなって話だよ」
その一言に、エリザの表情が凍りつく。予想外のことを言われたように、虚を突かれたように絶句する。
「おぉいおい、なんだよその顔はよぉっ! お前みたいなガキの演技に俺が気付かないとでも思ってるのかぁ? ヒャハッ、ヒャハハハハッ、笑わせるねぇっ!」
「演技……だま、す……?」
声を震わせて男の言葉を繰り返すエリザ。
「ちゃんと見てたよぉ? 甘えて拗ねて泣いて媚びてさぁ。何も知らないフリをして、その裏で守ってもらえるように振る舞う。その点だけは化け物らしくていいけどさぁ……“それだけ”じゃ駄目だろぉ? 化け物らしく、吸血種らしく血を吸えよ」
男はやれやれと肩を竦める。エリザの行動を半分褒め、半分貶める。
「ち、違うのじゃ……ワシは、そんなこと……」
「あーあー、うん、わかってるわかってる。生きるために必死だったんだよな? でも生きるつもりがあるなら、媚びるだけじゃなくてちゃんと血を吸ってくれよなぁ。そうすりゃもう少し見逃しても良かったのにさぁ」
そのせいでこんなに面倒なことになった、と男は吐き捨てるように言う。
「で、だ。次はそんな真似ができないよう、顔を変えましょうねって話。わかったかぁ? もしかすると血を集めて力をつけたら顔の傷も治せるかもしれないから、それまで頑張れよぉ? あっ、力をつけたらその段階で殺すけどなっ!」
何故そんなことをするのか、エリザは理解したくなかった。それでも男が嘘や冗談で言っているとは思えず、短剣がゆっくりと近づいてくる。
――エリザの視界が、絶望で黒く染まった。
エリザが思い返すのは、“この場”に至るまでの記憶。
生まれ故郷を追い出され、山の中で家族だけで過ごし、そして家族が殺されて逃げ出した時の記憶だ。
その時は理由もわからなかったが、祖母と両親を殺したグレイゴ教の面々は追ってこなかった。自分が森や山の中を移動していたのもあるだろうが、追っ手が追い付くことはなかったのだ。
家族が殺されたことに対する悲しみ。グレイゴ教への憎悪。一人だけになってしまった心細さと寂しさ。それらの感情を腹に抱えたまま、エリザは一人で歩いていく。
無力な自分に対する腹立たしさもある。家族を殺した相手に背を向け、一人で逃げ出すことへの後ろめたさもある。
それでも、もう疲れていた。家族もいない、住むべき場所もない、頼るべき人もいない。そんな状況に置かれて一人で生きていけるほど、エリザという少女は強くない。
大好きな祖母からは、もしも何かあれば北の方角へ逃げるよう言われていた。
ハリスト国はグレイゴ教の勢力が強いが、北にあるラパリやポラーシャは精霊教と勢力争いをしている。もしも可能なら、精霊教が完全に浸透しているマタロイまで逃げろと言われていた。
エリザはその教えを忠実に守って北に向かった。しかし、本当はマタロイまで辿り着けるとは思っていなかった。
成人もしていない、歳の割に発育が悪い子どもの足で、どうやって国を超えろというのか。グレイゴ教から逃げたいとは思っていたが、マタロイに辿り着く前に魔物に襲われて死ぬのが目に見えていた。
それでも人目につきやすい街道を避け、森の中に足を踏み入れていく。どうせ今日中に死ぬだろう。そんな諦観を抱えながら。
しかし、その予想に反してエリザは死ななかった。魔物に遭遇することもなく、グレイゴ教に追いつかれることもなく、いくつもの山と森を超えることができたのだ。
最初の三日間はいつ魔物に襲われるかわからない恐怖で眠ることができず、夜が訪れると草陰で膝を抱えていた。それでも死ななかった。
ロクに食べることもできず、時折水場を見つけては水を飲むだけで、最早空腹感を超えて飢餓感を覚えていた。それでも歩くことはでき、フラフラと彷徨うようにして森の中を進み、山を越えていく。それでも死ななかった。
開き直って物陰に隠れずに眠って――それでも死ななかったのだ。
そうして何日歩いたか、エリザは覚えていない。少なくとも一ヶ月を超え、二ヶ月に届き、もしかすると記憶が曖昧なだけで三ヶ月近く歩いたかもしれない。
自分がどこを歩いているかもわからず、太陽の位置を確認しながら北と思われる方向に歩くだけの日々。空腹と疲労で今にも倒れそうだというのに、中々倒れることもできない自分の体を恨めしく思ったことは一度や二度ではない。
グレイゴ教徒の追っ手が来ず、魔物にも遭遇しない状況では殺された家族の後を追うこともできなかった。かといって川で溺れ死ぬ勇気も、崖から飛び降りて死ぬ勇気も、首を吊って死ぬ勇気もない。勇気という名の度胸を、エリザは持ち合わせていなかった。
“その程度”で死ねる保証がなく、もしかすると苦しむだけで終わるかもしれない。そう思うと祖母の言葉に従って北を目指すことしかできず、黙々と歩き続けた。
――そして、一人の男と出会った。
その男と出会った時、エリザの胸中にあったのは絶望と諦観である。
肉が焼ける匂いに釣られ、腹を鳴らしながらフラフラと歩いた先にその男はいた。姿を見せなかったというのに、大剣を構えて明らかに警戒した様子で待ち構えていたのである。
その風貌を見れば、年上だということは理解できた。革鎧で身を包み、両手に構えた大剣は頑丈で切れ味もありそうだ。油断なく睥睨するその様は、少なくとも自分よりも遥かに強いだろうと感じられた。
その姿を見た時に思ったのは、ただ一つ。
――ああ、これで“終わる”ことができる。
少なくとも見かけ倒しということはないだろう。遠くから確認した大剣は業物のようで、いつ魔物が襲ってきてもおかしくないような平野で、暢気に火を熾して肉を焼いているような男だ。腕は立つ、少なくとも自分を殺せると思った。
そう思ったからこそ、エリザは姿を見せた。自分の姿を見て驚く男に僅かな“期待”が過ぎるが、心底疲れ果てていた。
それでも、エリザは数秒だけ視線を彷徨わせる。最早生きることに望みはない――が、死を目前にして心穏やかでいられるはずもない。
問題があるとすれば、見知らぬ相手に自分を殺させることぐらいか。自殺の手伝いをさせることに少しだけ躊躇したが、どうでもいいと切り捨ててしまった。
「ワシの名はエリザ=ヴァルジェーベ! 誇り高き吸血種じゃ!」
吸血種の名前がどれほど知られているかわからない。だが、吸血種という噂が立つだけで生まれ故郷から逃げ出す羽目になったのだ。国が変わろうとも大差ないだろう、と内心で疲れた笑い声を上げる。
もしかすると目の前の男もグレイゴ教徒かもしれない。そうでなくともハリスト国の中では吸血種という存在は有名だ。自分を狩れば金一封ぐらいは出るだろう
「シャアアアアアアアァァッ!」
「いぃっ!?」
それでも、一体どんな思考の帰結があったのかわからないが、突如として襲い掛かってきたその姿に驚いてしまう。
見た目以上の素早さで踏み込んできた男が振るう大剣は、到底避けようがない。自分から望んだことだがあまりにも躊躇なく斬りかかってきたことに驚き――それでも死を受け入れて諦観と絶望を覚えた。
やはり、逃げた先でも吸血種だと知られればこのような扱いを受けるのだ。そのような世界で生きるなど、困難どころの話ではない。家族のことを思えば、自分が吸血種だとわかった時に殺されるべきだったのだ。
そして、結果としてエリザは再び生き残る。
男の剣幕に驚いて転んだというのもあったが、何を思ったのか男が大剣の軌道を逸らしてしまったのだ。
男が何を考えたのか、エリザにはわからなかった。それでも、男の表情に一瞬だけ躊躇の色が宿ったことに気付いた――気付いて、しまった。
怯えた視線を向けてみると、男の動きが止まる。大剣を振りかぶったままで動きを止めた男の問いかけに、エリザは叫んで返す。
「それはこっちの台詞じゃあほおおおおおおおおぉぉっ!」
その叫びは男――レウルスの凶行と、いまだに生きようとする自分へ、半分ずつ向けたものだった。
エリザにとって、レウルスという男は不思議な存在だった。
同年代と呼ぶには無理があるが、それでも歳が近い男と話したのは数年ぶりである。それでも、レウルスが他の男と“違う”というのはすぐにわかった。
吸血種をとんでもない化け物だと勘違いしたこともそうだが、妙なところで常識がない。連れて行かれたラヴァル廃棄街では周囲に馴染んでいるようだったが、エリザから見ればやたらと浮いている男だった。
いくら殺しかけたといはいえ、吸血種と名乗った自分を庇うその姿。それはエリザからすれば理解し難いものであり――同時に都合の良いものだった。
実際に見たことはないが、祖母からキマイラという魔物について聞いたことがある。腕が立つ魔法使いである祖母をして、なるべく相手にしたくないと言わせるほど強力な魔物なのだ。
そんなキマイラを倒したレウルスは、身を寄せるには丁度良かった。周囲から疑いの眼差しを向けられても、レウルスだけは庇ってくれる。己の立場を悪くするとしても、徹底的に庇ってくれるのだ。
何か思うところがあるのか、怯えるような視線を向けるとその表情が優しくなる。反対に、媚びたように笑うと石でも噛んだように表情を歪める。
話を聞くと、どうやら昔いた村で扱き使われた上、子どもの死体を埋葬するような仕事まで押し付けられていたのだとわかった。
それが原因で年下の子どもに優しいらしい――が、“それだけ”が理由ではないと感じ取ったのは何故だったのか、エリザ自身にもわからない。年齢通りの言動をすることもあれば、父親のように大人びた態度を取ることもあったからだろうか。
それでも本性まではわからない。裏にどんな思惑を抱えているかわかったものではない。素直に他人を信じるには悪意に濡れ過ぎていて、家族以外に信じられる者などいないのだ。
エリザはそう思っていた。だが、そう思っていられたのは、レウルスと出会って何日経った頃までか。
気遣うことはするが裏はなく、吸血種と知って怯えることもなく、レウルスは近所の子どもでもあやすような気軽さで接し続けた。
その途中で自身の境遇を話して同情を惹きもしたが、散々泣き喚いて心が解れたのは一体どちらの方だったかわからない。一日と言わず、一時間経つごとに、言葉を一つ交わすごとに仲が深まっていくのを感じたのは、エリザだけの錯覚だったのか。
レウルスが何を思っていたのか、エリザにはわからない。レウルスのこと以上に、己の心の変化が理解できない。
正直に言うならば、エリザは人間を憎んでいた。グレイゴ教徒だけでなく、家族を除いた人間全てを憎んでいた。
“自分と違う”生き物を信じることなどできず、それでも、人恋しさを誤魔化すこともできない自身の心がどうしようもなく憎らしかった。
己の心境全てを理解できるはずもなく、かといってそれで良いのだと達観することもできず、新たに得た“居場所”で過ごす日々はエリザの心をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
――もしかすると、レウルスは信じても良いのかもしれない。
ほんの数日一緒に過ごしただけでそう思ってしまった自分が信じられないが、共に食事をして、泣いて笑って助けられて、からかいはするが嫌がることは何もしないレウルスに対して、知らず知らずのうちに気を許していった。
幼い頃はともかく、グレイゴ教から逃れるために人生の半分近くを山の中で過ごしてきた。身近な人間といえば家族だけで、レウルスに抱く感情がエリザには理解できない。
最初は自分を殺してくれると思った。
その次は利用できると思った。
だが、その次に抱いた感情はエリザにもわからない。
少なくとも悪い感情ではないだろう。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる分を差し引いたとしても、レウルス個人に向ける感情はいつの間にか温かいものへ変わっていたのだから。
レウルスとは色々な話をした。その中には“これから”の話もあった。
短い付き合いでも、レウルスのことは信じられる。信じたいと、そう思った。
だから――。
「…………っ!」
「あん?」
絶望に染まっていたエリザの瞳に、光が戻る。それを見た司祭と呼ばれる男は訝しげに眉を寄せた。
「やるなら……やればいいっ! ワシはお主に勝てん! じゃが、折れてはやらんし諦めもせんっ! 人を……レウルスを信じたのじゃ! “もう一度”人を信じると決めたのじゃ! どうされようと、お主が言うように人を襲って血を集めたりしないのじゃ!」
男からすれば、突如としてエリザが変貌したように見えた。それまで痛みと苦しみで呻いていたというのに、睨む瞳には力が宿っている。
「……ふぅむ。存外骨があったのか、それともやけになっただけか……開き直っただけだったら困るんだけどなぁ」
エリザの顔を刻もうとした短剣を止め、どうしたものかと男は悩む。
故郷を追い出され、家族を殺され、誰の助けも得られず孤独に旅をした割に、エリザの精神は“まとも”だった。
嬲るように告げたレウルスがそうさせたのか、あるいは別の理由があるのかわからなかったが、前者ならばただのお人好しではなかったのだなぁ、などと思考する。
「困ったなぁ困ったなぁ。これならそのレウルス君は生かして連れてくるべきだったよ……だから先走った馬鹿の尻拭いなんて嫌だったんだ」
言葉ではそう言いつつ、困った様子も見せずに男は笑う。握っていた短剣を両手でお手玉すると、思考をまとめるように視線を宙に向けた。
「お主の言うことも信じてやらぬっ! レウルスは絶対に生きているのじゃ!」
「……はぁ。なんだかねぇ、変な方向に覚悟決めちゃってるしさぁ……」
エリザの言葉に、男は深々とため息を吐く。そして空中で短剣を掴んで逆手に構えると、エリザの眉間に狙いを定めた。
「もういっかぁ……面倒だし殺そう。司教様には弱い吸血種の耐久力を確認したって言えばいいだろ……」
あっさりとエリザに見切りをつける男。ラヴァル廃棄街に単身で侵入してエリザを攫った割に、その決断は早かった。
「司祭様」
「あん? 止めても止まらねぇよ?」
暗闇から響いた声に、男は不機嫌そうな声を返す。目の前の男と他の者では意見が違うのかとエリザは考えたが、暗闇に潜む何者かがもたらしたのは“別の情報”だった。
「見張りから報告です。あの町の住人がこちらに向かってきており、接触までそれほど時間もかからないとのこと」
「んー? 狂犬は陽動の方に行ったんだろぉ? 森に入って撒いたのに、どうしてこっちの位置がわかるんだか……それならさっさと済ませるかぁ。周りの奴らを抜けるとは思えねえけど、変な横槍もらうのも嫌だしぃ?」
ラヴァル廃棄街の面々が向かってきている。そう聞いたエリザの瞳に安堵の光が宿ったのを見て、男は即断した。
男の殺気に気付いたエリザだったが、恐怖を堪えるように震えを押し殺す。短剣を構える男を睨みながら、自分が“信じたい”と思った者の顔を思い浮かべる。
男の言葉など信じない。レウルスは無事で、今も助けに向かってくれている。助けを待つことしかできない己が情けないが、そう信じることができる。
「助けて……レウルス!」
故に、その願いは希望に彩られていて。
「――任せろ」
その願いを叶える声が、“頭上から”響いた。