第503話:それはまるで御伽噺のような その3
ナタリアが借り上げている邸宅を後にしたルヴィリアは、馬車に乗り込むなり設置されている椅子に腰を下ろす。そして自身の胸に右手を当て、熱っぽい息を吐いた。
ドクン、ドクンと心臓が激しく脈を打つ音が手のひらを通して伝わってくる。心臓がまるで全力疾走でもした直後のように跳ね回り、ルヴィリアは大きく呼吸を繰り返すことで少しでも落ち着けようと試みる。
しかしどうにも上手くいかず、ルヴィリアは再度熱っぽい息を吐いた。
「お嬢様、一体如何されたというのですか? まさか本当に体調を崩されたのですか?」
「い、いえ、そういうわけではないんです……けど……」
馬車を動かさず、心配そうに顔を覗かせるセバスに辛うじてそう答えるルヴィリア。長年病床に臥せっていたこともあり、セバスの向ける瞳には心配の色が多分に含まれている。
セバスからすれば、主家の人間であるルヴィリアが突如として顔を赤らめ、慌てて場を辞するという異常事態である。相手が交流のあるナタリアとレウルスではあったが、失礼だと声高に非難されても否定できない状況だった。
当然の話ではあるが、ルヴィリアとてこのような真似をするつもりはなかった。レウルスが準男爵になるという話を聞き、他家の令嬢が動き出す前に少しでも“距離”を縮めておきたいと思ってレウルスの元を訪れたのである。
他家の令嬢と違い、ルヴィリアはレウルスと面識がある。自身の体を治すために協力してもらったという点もあるが、それ以外にもヴェルグ伯爵家としていくつか借りがある相手なのだ。
そのため近くを通りかかった、などという方便で面会を申し出たが、貴族の令嬢としてはかなり“ギリギリ”の行動だった。
ルイスもレウルスと会えば気さくに接し、周囲に向かって親しい間柄だと宣伝するが、これは同性だから成り立つ話である。ルヴィリアがそのような真似をすれば、“はしたない娘”だと噂されかねない程度には綱渡りだった。
レウルスに会ったことがない初対面の令嬢が突如として家に押しかければ、即日王都内の貴族界で話が伝わりかねないほどの醜聞になりかねない。それと比べればまだ軽微な影響だが、悪評が立ちかねない行動だったのだ。
それでもルヴィリアはレウルスのもとを訪れた。ルヴィリアからすれば、他に想うべき相手はいないと、添い遂げたい相手はいないという思いがあったのだ。仮に醜聞が流れたとしても、相手がレウルスならば問題ない。むしろ醜聞を利用しようと腹を括っていたほどである。
レウルスに対しても、色々と話をするつもりだった。
準男爵という立場になるのならば、貴族の令嬢を娶ってもおかしくはない。初代の準男爵ならば様々な面で不足が目立つだろうが、それを支え、つながりを得るには打ってつけだ。言い方は悪いが自身を“売り込む”つもりでルヴィリアはレウルスと対峙しようと思っていた。
実際に相対する相手はレウルスではなくナタリアになるだろうが、ナタリアも初代の男爵として色々と手が足りない立場である。その辺りを突けば即答はなくとも検討に値するだろうとルヴィリアは思っていた。
思っていた、のだが――。
「その……セバスさんは気付かなかったんですか?」
真っ赤になっていた顔が徐々に平静に戻り、暴れていた心臓もようやく落ち着きを取り戻す。そんな自分自身の状態を把握したルヴィリアは、相変わらず心配そうな顔をしているセバスにそんな質問を投げかける。
「何が……でしょうか? レウルス様に何かありましたか?」
主人に仕える者として他者の機微に敏感なセバスだったが、この時ばかりはルヴィリアの意図を図りかねた。
以前会った時よりも若干レウルスの背が伸びて筋肉もついたとは思ったものの、それ以外に特筆すべき点があったようには見えなかったのである。精々、体だけでなく顔立ちも多少大人びたか、と思う程度だ。
しかしルヴィリアには“別の何か”が見えていたのか、セバスの返答を聞いて視線を落とす。
ルヴィリアはつい先ほどのことを思い出す。時間にすれば十分と経っていないためすぐさま鮮明に思い出すことができるが、例え一日、一週間、一ヶ月――あるいは一年と経とうと鮮明に思い出せるのではないか。
“それ”を思い出した途端、ルヴィリアは再び心臓が高鳴るのを感じた。手で触れずとも顔が赤く、熱くなっているのが自覚できる。
「うぅ……」
真っ赤になった顔をセバスに隠すように、両手で覆う。そして虫が鳴くような小さな声を漏らしたルヴィリアの脳裏に浮かんだのは、先ほど言葉を交わした時のレウルスの顔だ。
――レウルスの目が、“自分を捉えていた”のだ。
これまでレウルスと顔を合わせた機会の数で言えば、それほど多くはない。その内の一回が二ヶ月半にも及ぶ長旅でレウルスを深く知ることができたが、当初ルヴィリアがレウルスに対して抱いた印象というのは中々に複雑である。
ルイスからは信用の置ける凄腕の冒険者だと聞いてはいた。実際、キマイラに襲われていたルヴィリアを助けたのがレウルスである。その強さはヴェルグ伯爵家が抱える領軍の兵士が束になってかかっても敵わないと思わせるほどだった。
そして、強さ以上にレウルスが持つ異質さが気になった。
体が弱く、社交界にも出ることがなかった身といえど、ルヴィリアはヴェルグ伯爵家の次女である。レウルスと初めて会った頃は子爵家だったが、それでも冒険者が相手となると下手すれば一生関わり合うこともなかっただろう。
レウルスは微塵も望まないが、立身出世を望む者からすれば貴族の令嬢――それもヴェルグ伯爵家の継承権が生じるほどに“生まれが早い者”となると、病弱だという点を差し引いても喉から手が出るほど娶りたいと思う者が多い。
ヴェルグ伯爵家と縁戚になり、援助を引き出すだけでも相当なものとなるだろう。もちろんルイスとて何の見返りもなく援助するような真似はしないが、平民だけでなく騎士爵の者ですら出世の足掛かりになると判断するはずだ。
そんなルヴィリアからすると、レウルスという男は心底不思議な存在だった。
ルヴィリアを見ていても、その瞳には映っていない。それは目が見えてないという話ではなく、ルヴィリアという一個人に何の興味も抱かず、仮にルヴィリアが目の前で死んでも翌日には忘れていそうなほどに興味を持たれていなかったのだ。
そんな話をしたとしても、レウルスは否定するだろう。そんなことはないと、苦笑なり大笑いなりするに違いない。
――路傍の石でも見るような瞳をしながら、否定するに違いない。
レウルスにとって大切なのは、レウルス自身が身内や家族と思い定めた者達だけだ。“引いた線の内側”にいる者に対しては気さくで、面倒見が良くて、頼りになるのだろう。だが、“線の外側”にいる者に関してはどうでも良いと思っている――と、ルヴィリアは見ていた。
そんなレウルスが、ルヴィリアをしっかりと見ていたのだ。
“それ”に気付いた瞬間、ルヴィリアはこれまで覚えたことがないような感情を抱いた。それまで胸に宿っていた慕情が瞬時に膨れ上がり、口から言葉として溢れ出しそうになる感覚があったのだ。
何故、どうして、と疑問を抱く。しばらく会わない間にどんな変化があったのか、レウルスはルヴィリアを一個の人間として捉えていた。
正直なところ、ルヴィリアは自分とレウルスと結ばれることはないのだろう、と思っていた。身分の差という壁もあったが、一度想いを告げて断られたことも尾を引いている。
それでもレウルスがサルダーリ侯爵によって騎士爵に推薦され、“様々な方面”から手が伸びて準男爵への道筋が定まった時、それを好機とルヴィリアは捉えた。
町娘のように好いた惚れたで結ばれるのではなく、貴族の娘らしく利益によって結ばれれば良いのではないか、と。
そこまでいけば、あとは時間の経過によって自然と親しくなるだろう。レウルスと長い時間を共に過ごし、少しずつでも懐に入っていくことができれば良いとルヴィリアは思っていたのだ。
これまで抱いていた感情は、恋だと思っていた。しかし焚火のように胸の中で熱を放っていた感情は、突如として溶岩のような莫大な熱量によって押し流される。
レウルスに告白をして、断られても燻り続け、徐々に熱量を増していった慕情。最早これ以上膨らむことはないだろうと思っていた感情が、爆発的に膨れ上がる。
そうなると貴族の令嬢という仮面はあっさりと粉砕され、ルヴィリアという一人の少女しか残らなかった。勢い込んでレウルスのもとを訪れたにも関わらず、“この様”である。
(どう、しよう……どうすればいいのでしょう……)
貴族の一員として様々なことを学んできたが、“このようなこと”は教わらなかった。身を焦がしそうなほどの熱情の対処など、教わることはなかったのだ。
「お嬢様、ひとまずお屋敷に戻りませんか? アメンドーラ男爵様やレウルス様には後日、謝罪を兼ねて改めてお会いすれば良いかと思いますが……」
「そう……ですね……今日のところは一度帰りましょうか」
セバスの言葉によって現実に引き戻されたルヴィリアだったが、熱を持った頬を両手で押さえながら小さく呟く。
「今度こそ……でも、し、心臓が破裂しそう……」
次に会う時は貴族の令嬢としての仮面を被り直さなければならないが、それがどれほどもつのかルヴィリア自身にもわからないのだった。




