第455話:変性 その1
「――ァ?」
自身の胸部に突き刺さった触手を見て、レウルスの口から空気が漏れるようにして小さな声が零れる。
咄嗟に上半身を捻って心臓を貫かれることだけは回避したものの、触手は鎧ごと胸部を貫通していた。皮を、筋肉を、胸骨を抉り抜き、更には肺すら貫通した触手にさすがのレウルスも動きが止まる。
『熱量解放』を使っていても感じる痛みと熱。『熱量解放』を使っていなければ、発狂しそうな激痛。
幸いな点があるとすれば、触手はレウルスが身に着けていた鎧を粉砕したわけではなく、破片を出すことすらなく綺麗に抉り抜いたことだろう。
金属片が体の内部を傷つけることがなかったというのは幸運なことで――拳大の触手が胸部を貫通した現状では、大した幸運でもないが。
「ギ、ガ、ギィ……グ、ガアアアアアアアアアアアアァッ!」
口から血を吐き出しながらもレウルスが動き出す。触手を左手で掴み、右手で『龍斬』の刃を擦り合わせるようにして強引に触手を引き千切ろうとする。
だが、『龍斬』を振り切れない状態では触手の切断には至らない。僅かに刃が触手に食い込むものの、それ以上先には刃が進まなかった。
「ゼ、ビュ……ビュ……」
片肺が潰された影響か、呼吸の音もまともではない。息を吸ってもまともに呼吸ができているようには感じられず、口を開けば血が流れ出てしまう。
レウルスが身に着けている鎧は『龍斬』同様、ドワーフ製の一点物だ。複数の魔物を素材とした三層の鎧は並大抵の攻撃ならば余裕を持って防ぎきるだけの頑丈さがあったが、黒い球体が放った触手は濡れた指先で障子紙を突くように容易く貫通してしまった。
当然ながら、レウルスの肉体は鎧ほど頑丈ではない。『熱量解放』を使っているため相応の頑丈さがあるものの、そんなものは知ったことではないと言わんばかりに一撃で重傷を――致命傷の一歩手前と言えるほどの怪我を負わされてしまった。
もっとも、常人ならば致命傷どころか即死してもおかしくはない怪我である。レウルスだからこそ致命傷の一歩手前であるとも言えたが、これまで幾度も乗り越えてきた戦いの中でも一、二を争う規模の怪我という点に変わりはない。
(意識を……集中、しろ……っ!)
『熱量解放』が解ければ間違いなく死ぬ。そう直感したレウルスは痛みを堪え、己が負った怪我へ意識を集中する。
『首狩り』に半ばまで首を斬られたことがあったが、その時と比べればまだマシだ。傷口に触手が突き刺さったままで異物感が酷いが、まだ治せる。
『首狩り』の時でさえ傷を治すことができたのだ。まずは触手を斬り、その後に傷を治すべきだとレウルスは思考し――ドクン、と体が大きく脈を打つ。
「……………………?」
『熱量解放』を使っていても感じていた痛みが、急に引いていく。しかしレウルスはその事実に気付くことはなく、“そんなこと”よりも体内で起こった異変に気を取られていた。
胸部に突き刺さった触手が伝えてくるのは激痛と異物感だけ――では、ない。触手を通して感じ取れる黒い球体が持つ魔力にレウルスの体が反応する。
――これは良い、最上の糧だ。
無意識のうちにそんな言葉が脳裏を過ぎるほど、芳香で濃密な魔力。どうにか触手を斬ろうとする理性とは裏腹に、レウルスの体は触手が持つ魔力を貪欲に喰らい始めた。
「っ、ぅ……ぉ……」
黒い球体が持つ魔力が触手を通してレウルスの体に吸収されていく。それは様々な魔物を喰らって魔力に変えてきたレウルスでも感じたことがないような、急激な魔力の蓄積。
上級の魔物の肉を食べた時でさえ、これほどの満足感はなかったと断言できるほどだった。
『――――』
そこで初めて、黒い球体から僅かとはいえ感情らしきものが漏れた。困惑するように球体を微かに震わせ、レウルスの胸部に刺さった触手を引き抜きにかかる。
「…………」
それをレウルスが無言で止めた。傷口に突き刺さっている触手を左手で握り、抜けないように力を込めて引き留める。
――まだだ。
――もっと、もっとだ。
本能が叫び声を上げ、肉体はその叫び声に追従するように触手を離さない。レウルスは自らの血で口元を赤く汚しながらも口の端が吊り上がるのを感じつつ、凄惨に笑った。
そんなレウルスに何か思うところがあったのか、黒い球体がこれまで見なかった行動を起こす。新たに生やした触手をレウルスに突き刺さった触手へと振り下ろし、無理矢理引き千切ったのだ。
――もっと魔力を寄こせ。
――もっと“腹”を満たせ。
魔力を得られなくなった途端、本能が不満そうな声を上げる。レウルスの肉体は切断された触手が消失し、胸部に開いた穴から血が噴き出し始めた。しかし、エリザの力を借りているからか、あるいは魔力を急速に補充できたからか、音を立てるようにして傷口が塞がり始める。
物の数秒で傷口が塞がったレウルスは、自身の調子を確かめるように左手を開閉する。そして黒い球体へ視線を向けると、『龍斬』を握る右手に力を込めながら前傾姿勢を取った。
――触手を通してあれだけの魔力が得られるのならば、本体はもっと美味いのではないか?
そんな思考が脳裏を占め、レウルスは黒い球体へと駆け出す――その直前。
「なん、じゃ……これ……」
「っつぅ……」
「ッ!?」
エリザとサラから苦悶の声が上がり、レウルスは寸でのところで踏み止まる。声のした方向へ視線を向けてみれば、胸元を押さえながら苦悶の表情を浮かべるエリザとサラの姿があった。
そんな二人の姿に、レウルスの理性は辛うじて息を吹き返す。
(くそっ……ありゃやばい……“美味いけど不味い”な……)
得られた魔力の充足感は、かつてないほどだ。それこそ普段はレウルスに流れ込む『契約』の魔力が逆流し、エリザとサラに影響を及ぼすほどに。
“だからこそ”危険だと、エリザとサラにこれ以上の負担はかけられないとレウルスは踏み止まる。今にも駆け出しそうな足を止め、黒い球体に喰らい付きそうな口を閉じ、割れんばかりに歯を噛み締める。
(俺が今やるべきことは、姐さん達を守ること……それだけだ……)
だからこれ以上無理をする必要はない。レウルスはそう思ったが、体から溢れそうなほどに取り込んだ魔力がそれを許さない。
溜め込んだのなら吐き出すべきで――レウルスを脅威と認識したのか二十を超える触手を繰り出す黒い球体に、レウルスは即座に反応した。
これまで以上に『龍斬』に魔力を込め、迫り来る触手を端から斬り飛ばしていく。一本一本斬っていたのでは間に合わないと、四、五本まとめて両断していく。
そんなレウルスの攻撃に触発されたのか、それまでは緩やかなペースで触手を生やしていた黒い球体が即座に触手を生み出した。
中にはレウルスが繰り出す斬撃の隙間を縫うようにして迫る触手もあったが、多少掠める程度ならばレウルスも構わない。脇腹や太ももが抉られて血が噴き出すが、数秒と経たずに傷口が塞がっていく。
後ろに通しさえしなければ、それで良い。自分を狙ってくるのなら、都合が良い。
「シャアアアアアアアァァッ!」
触手を斬り、払い、潰し、抉られる。傷を負っては治し、傷を与えては再生される。ネディからすらも意識を外した黒い球体相手に『龍斬』一本で渡り合う。
『――“元のカタチ”へ戻し給え』
不意に、レウルスの耳にクリスとティナの声が届いた。その声に釣られて視線を向けてみれば、ひび割れた空へ向かって手を掲げたクリスとティナの姿があり、手に持っていたはずの狐の面がいつの間にか消えているのが見えた。
「……ぅ、お」
触手を斬りながら見た光景に、レウルスは自然と声が漏れる。
レモナの町の上空に現れていた空のひび割れ。その“ひび”が端から消え始め、時間を追うほどに空が元の形へと戻っていく。
それに合わせて、黒い球体にも変化が現れた。それまで感じられていた濃密な魔力が僅かに薄くなり、生やしていた触手の数が半数の十本ほどへと減少した。
空のひび割れが完全に消え失せるまでかかった時間は、およそ一分程度。その間も黒い球体から放たれる触手を斬り続けたレウルスは、徐々に勢いが落ちてきているのを感じた。
――今ならば黒い球体も斬れるのではないか?
そう考えたレウルスだったが、本能が否と答える。
斬れる斬れない以前に、ここまで酷使した『龍斬』がもたない。
空のひび割れが消えたとはいえ、黒い球体から感じ取れる魔力の量は相変わらず膨大だ。触手を斬る度に削れていた『龍斬』で黒い球体の本体を斬ろうとしても、途中で刃が止まって刀身が折れかねない。
それならば、どうするか。その答えは、それまでレウルスが守り抜いたナタリアが持っている。
クリスとティナに続いて『詠唱』が完了したのか、ナタリアの周囲には濃密な魔力が渦巻いている。総量では黒い球体に及ばないものの、ナタリアの制御下に置かれた魔力は解き放たれる時を今か今かと待ち望んでいるようだった。
レウルスとナタリアの視線がほんの一瞬交錯し、レウルスが即座に動き出す。
ナタリアは既に魔法を撃つ準備が整っているが、“そのまま”撃てばレモナの町に甚大が被害が及びかねない。
それならば、どこに向かって撃つか。
(もってくれよ、相棒――!)
レウルスは心中で『龍斬』に声をかけると、黒い球体に向かって駆け出すのだった。




