第451話:異質 その1
――アレは何だ?
溶けそうな思考の中で、レウルスはそんな疑問を抱く。
スラウスを仕留めることすら忘れて空を見上げるレウルスだったが、全身に伝わってくる形容しがたい感覚が目を逸らさせないのだ。
空の裂け目から染み出した物体は最早黒色としか見えないような、濃い紫色。粘性を持っているように空の裂け目から染み出し、重力に従うようにして落下してくる。
本能は懐かしさを覚え、心が惹かれ――僅かに残った理性が盛大に悍ましさを叫ぶ。
(液体……スライム、か? いや、アレは……)
色を除いた見た目と気配はスライムに似ているが、あくまで似ているだけだ。肌を震わせ、全身に鳥肌が立つような悪寒はスライムを優に上回る。そして何よりも、冗談かと思いたくなるほどに強い魔力が空気を通して伝わってきた。
魔力という気体を集めに集め、液体にした上で煮詰めて濃縮したような濃さ。離れていても魔力が匂いとして漂ってくる錯覚を覚えるほどで、レウルスの意識が完全に謎の物体へと向けられる。
魔力の大きさはスラウスすら超え、この場にいないジルバやレベッカ達全員を合わせても届くかどうか。何よりも、魔力の質が違う。その気配だけで近隣の魔物がまとめて逃げ出しそうなほど威圧感がある。
全力で戦うところを見ていないためレウルスにも断言はできないが、下手すればヴァーニルさえ超えそうな威圧感。
だが、しかし。威圧感を覚えると同時に、レウルスはこうも思うのだ。本能が叫ぶのだ。
アレほどの魔力を持つのならきっと、食べればうま――。
「ッッ!」
レウルスは自身の頭を殴りつけ、二度、三度と振る。溶けていきそうな思考をつなぎ留め、“レウルスとしての”意識を保つ。
アレは駄目だ、危険だ、スラウス以上に放置できない。そう叫ぶ理性が本能を抑えつけ、レウルスは割れんばかりに歯を噛み締める。
「何故、だ……何故現れた!?」
そんなレウルスの傍で、スラウスが愕然とした声を上げた。信じがたいと言わんばかりに目を見開き、落下してくる物体へ殺気を向けている。
スラウスの反応を見たレウルスは、盛大に表情を歪めた。暴れに暴れる『熱量解放』の手綱を僅かに緩め、理性の色を濃くする。
「おい……何か知ってるのなら教えろ。アレは放置できる代物じゃないだろ?」
スラウスに対する激情をこの時ばかりは飲み込み、レウルスは疑問をぶつける。スラウスも放置はできないが、それ以上に放置するべき相手ではないとレウルスの勘が訴えかけてくるのだ。
『首狩り』の剣を振り上げたままで、スラウスが何か行動を起こそうとすればそのまま斬れる状態ではある。しかし、今はスラウスを斬るよりも優先するべきだと判断した。
空の裂け目から染み出し、落下していた“何か”が地面に着地する。外見こそ液体だがそのまま地面に染み込むということもなく、黒い球体として形を保つ。見た目だけで言えばスライムの『核』を巨大化させたような姿だが、間違ってもスライムではないだろう。
大きさは約二メートルと、魔物と比べればそれほど大きくはない。その程度の大きさならば中級どころか下級の魔物でも十分にあり得る大きさだろうが、下級や中級程度の存在だと誤認するような者はこの場には存在しなかった。
レウルスは黒い球体から視線を外し過ぎないよう注意しつつ、ナタリアや翼竜の様子を見る。
ナタリアはレウルスと同様に最大限の警戒を表情に浮かべ、黒い球体から少しずつ距離を取っていく。急速に動かないのも魔法を使わないのも、黒い球体の得体が知れないからだ。何をきっかけとして動き出すかわからない以上、警戒するに越したことはない。
『グ……グルルルル……』
そして、翼竜はレウルスの目から見てもはっきりとわかるほどに怯えていた。レベッカが操っているとはいえスラウスと戦う際ですら微塵も怯えた様子を見せなかったというのに、今は瞳を揺らしながら巨躯を震わせ、小さく唸り声を上げている。
『ギ、ギ……ガアアアアアアアアアアァッ!』
スラウスが何かを言おうとした瞬間、翼竜があっさりと自制の限界を迎えた。己を奮い立たせるように咆哮したかと思うと、黒い球体目掛けて炎を吐き出す。
射線上に散らばる瓦礫を燃やし尽くしながら黒い球体へと迫る炎。それは周囲の被害や延焼を微塵も考慮しておらず、恐怖から逃れるために反射的に行動してしまったかのようだった。
もしかすると、レベッカの制御から外れてしまったのかもしれない。そう思わざるを得ないほどに単調な炎の濁流が黒い球体へと迫り――そのまま炎の中に飲み込まれる。
「…………」
レウルスは思わず無言で事態を注視した。サラと『契約』しているレウルスならば多少の痛手で済むかもしれないが、並の魔物なら瞬く間に焼け焦げるような熱量である。黒い球体にどのような影響があるのかと目を細めるが、数秒としない内に細めた目を見開くこととなった。
(……効いてない?)
火傷どころか炎で炙られた様子すらない。黒い球体が降り立った周囲は炎で炙られた結果地面から煙が上がっているが、黒い球体自体に効果があったようには見えなかった。
それでも、何かしら思うところがあったのか。黒い球体が僅かに振動したかと思うと、形を変える。
球体の左右から細長い触手が一本ずつ生え、目にも止まらない速度で翼竜目掛けて放たれる。それを見るなり翼竜は跳ねるようにして宙へと逃げ、翼をはばたかせて黒い球体から距離を取ろうとした。
翼竜を追うようにして触手が軌道を変え、そのまま翼竜の首へと巻き付く。そして彼我の体格差を無視したように翼竜が空から引きずり降ろされ、地面へと叩きつけられた。
『グルゥッ!?』
翼竜の口から苦悶の声が漏れる。巨体の翼竜が叩きつけられた衝撃は地面に亀裂を走らせるほどで、さすがの翼竜といえど無視するには痛手過ぎたようだ。
だが、黒い触手が止まることはない。翼竜の首に絡めた触手を締め上げ、骨が軋むような音を上げさせる。
「チィッ!」
このままでは、少なくとも今は味方である翼竜が死ぬ。そう判断したレウルスは即座に地を蹴り、今にも翼竜の首をねじ切りそうな触手へと斬りかかる。
翼竜の首に巻き付き、ピンと伸びた状態ならば触手も細く、斬りやすいはずだ。レウルスはそう思い、踏み込みと同時に両手で握った『首狩り』の剣を振り下ろす。
(か――てぇっ!?)
そして、心中で驚愕の声を上げた。翼竜の首を絡め取る際の動きは軟体のようだったというのに、『首狩り』の剣を通して伝わってきた感触は明らかに硬質だ。
“今の状態”でも刃が通らないことにレウルスは戸惑いを覚え――ヒュッ、と風を切るような音が聞こえた。
「レウルス!」
「っ!?」
ナタリアの声と、風切り音と共に感じる殺気。レウルスは即座に身を翻すと、背後から迫っていたスラウスの拳をギリギリのところで回避する。
「――テメェ」
一度は蓋をしていた殺意が顔を覗かせ、レウルスの理性を焼き焦がしていく。それでも辛うじてのところで踏み止まったのは、今の状況でスラウスまで相手にしている余裕がないからだ。
「和解したわけでもなかろう。戦いの最中に敵に背を向けるなど笑わせてくれる」
そう言ってスラウスは頬を吊り上げて皮肉げに笑う。
「アレを相手にそんな“鈍ら”で斬りかかるのもそうだ……我が相手ならばまだしも、な」
しかし、続いた言葉に希薄になっていたレウルスの理性が待ったをかけた。スラウスの言葉にレウルスは疑問を覚えたものの、今は時間がない。
『熱量解放』はまだ解いていない。その先まで踏み込んだまま、戻ってなどいない。
レウルスはスラウスの首を狙って『首狩り』の剣を一閃するが、スラウスはそれを見越したように背後へと跳んで斬撃を回避する。
その間にレウルスも動く。放り出していた『龍斬』のもとへと駆け、『首狩り』の剣を鞘に納めるなり『龍斬』を拾い上げる。
「シャアアアァッ!」
そして再度、黒い触手へ挑む。既に死の淵に足を踏み入れつつある翼竜の元へ駆け寄り、『龍斬』に魔力を込めながら全力で振り下ろす。
両手に伝わる硬質な感触。それは『首狩り』の剣と同様の硬さを感じられたが、『龍斬』はレウルスに応える。
『龍斬』の刃が黒い触手に食い込み、僅かな拮抗を経て切断する。返す刃で黒い球体から伸びていたもう一本の触手も切断し、翼竜を拘束から救い出す。
『グ、ルゥ……』
翼竜の口から弱った声が漏れ出た。それでも解放された首を数度振るだけで戦意を取り戻し、唸り声を上げ始める。
黒い球体が相手だろうと、『龍斬』ならば斬れる――が、まずい。
「…………」
レウルスは黒い触手を斬った際、微細ながらも違和感を覚えていた。スラウスと黒い球体を同時に警戒しながら刀身に視線を向けてみると、すぐさま違和感の正体に気付く。
ほんの僅かとはいえ、『龍斬』の刃が欠けていた。スライムを斬った際でも多少の摩耗で済んでいたというのに、刃が欠けていたのだ。
今すぐ戦闘に支障があるわけではないが、レウルスにとって唯一無二の相棒である愛剣でさえ“この様”だ。それも『熱量解放』を使い、全力で魔力を込めてでの結果である。
「……レウルス」
そんなレウルスの背中に、ナタリアから声がかかった。いつの間に移動したのかレウルスを間に挟み、スラウスと黒い球体から距離を取るようにして杖を構えていた。
「アレはここで仕留める……これは理屈じゃないわ。今まで幾度も戦場を超えてきたけれど、アレは放置できない。領主だとか元王軍の将軍だとかは抜きにして、“一人の人間として”アレは仕留めるべきよ」
そう話すナタリアの表情は、これまで見たことがないほどに硬い。レウルスとナタリアでは黒い球体へ抱いた感情が異なるのか、ナタリアが握る杖の先端が僅かに震えて見えた。
「勝算は?」
「あなたに切り札があったように、わたしにも切り札があるわ」
「何をすればいい?」
「時間を稼いでちょうだい」
短く言葉を交わし、レウルスは改めてスラウスと黒い球体を見る。
黒い球体がスラウスを襲う様子はなく、スラウスも黒い球体へある程度の警戒心を残しつつもレウルスへ視線を向けている。
スラウスを仕留めなかったのは痛手だったが、時間を稼ぐだけならばどうにかなる。レウルスはそう判断し、『龍斬』の柄を強く握りしめた。
そんなレウルスの姿を見て、ナタリアは杖から片手を離す。そして腰帯に括り付けられたポーチに手を伸ばし、“中身”を取り出した。
それは、濃い紫色をした『魔石』だった。ナタリアは右手に杖を、左手に『魔石』を握り、意識を集中させていく。
『――風の精霊よ』
ナタリアの口から『詠唱』が紡ぎ出される。
それを聞いたレウルスはナタリアの狙いを悟り、即座に動き出すのだった。




