第427話:夢現
――それは、懐かしい夢だった。
夢だとすぐに気付き、されど覚めないことを心から願ってしまうような、温かな夢。
エリザがどれだけ切望しても二度と戻ることができない、今よりも幼い頃の記憶。
そこには祖母がいて、母親と父親もいて。人里から離れた山の中でありながらも、平穏で満ち足りた日々が在った。
生まれ故郷であるハリスト国のケルメドから一家揃って逃げ出し、何年の月日が経ったのか。
夢の中でエリザが見た風景は、今もなお色褪せない懐かしさに彩られていた。
他者の目に触れないよう住み着いた山の中で造られた、木造の一軒家。山の木々を利用して造ったその家は質素なものだったが、“その頃”のエリザにとってはケルメドに存在する生家よりも思い出深い建物だ。
家の周囲には草木が少ない場所を開拓して作り上げた畑が広がり、家族四人で生活していくための野菜が青々と実っている。野菜の苗や種に関しては祖母や父親が仕留めた魔物の素材を対価に近隣の村から手に入れたものだが、最初の頃は試行錯誤の連続だった。
家から僅かに歩けば小川が流れ、日々の生活用水として役に立っていた。時折水浴びをしてははしゃぎ回ったのが、今となっては遥かに遠い出来事のように思える。
“その頃”のエリザにとっては、その山の中が世界の全てだった。吸血種だと知られて逃げ出したケルメドと比べれば貧相で、家族以外誰もいない極めて狭い世界。
それでも、エリザにとっては世界の全てだったのだ。
「良いか、エリザよ。今日教えるのはコモナ語に関してじゃ」
その狭い世界の中でも、エリザが最も懐いていた人物――それが祖母のカトリーヌである。
「コモナ語? とはなんじゃ?」
「ワシらが使っている言葉じゃよ。これからお主には読み書きを教えていこうと思っておる」
「えー……それよりもお外で遊びたいのじゃ!」
エリザに似た――正確に言えばエリザが似た桃色がかった金髪に、柔和な笑顔。エリザを見るカトリーヌの表情は柔らかく、エリザが頬を膨らませて反発するのを微笑ましそうに眺めている。
「外で遊ぶのはまた今度じゃ。読み書きに計算、それに礼儀作法……あとはワシが持つ知識を教えるから、しっかりと覚えるんじゃ」
「むぅ……お勉強は嫌いなのじゃ」
夢の中でそう語るカトリーヌの言葉を実際に聞いたのは、何歳の頃だったか。カトリーヌに対して頬を膨らませる自分自身を、“今”となってはエリザとしても恥ずかしく思ってしまう。
「ははは……安心せい。ワシも嫌いじゃぞ? じゃが、覚えていて損はない……いや、むしろこれから先のことを思えば覚えておくべきじゃと思ってのう」
「嫌いなのに……覚える?」
「うむ……」
幼い頃のエリザの質問に対し、カトリーヌはどこか憂いを帯びた顔付きで頷いた。その表情を見たエリザは膨らませていた頬をしぼませ、渋々といった様子で頷く。
「おばあ様がそう言うのなら……わかったのじゃ」
「うむうむ、エリザは良い子じゃのう……本当に、良い子じゃ」
その時のカトリーヌの表情を見て、幼い頃の自身がどう思ったのか。それはエリザも覚えていない。ただ、大好きな祖母が言うのならそうなのだろう、と納得したように思えた。
カトリーヌから教わったことは多岐に渡る。
コモナ語の読み書きから計算。
カトリーヌがどうやって知ったのかはわからないが礼儀作法。
自分達が住むカルデヴァ大陸と、そこに存在する主な国家。
魔物や魔法、魔法具といった知識。
更には精霊教やグレイゴ教などの宗教と、“どの国でどちらの宗教が根付いているか”。
そして――吸血種に関して。
「そのきゅ、きゅうけつしゅ? というのは……えっと、ワシのことで……」
「うむ……エリザは吸血種じゃ」
ケルメドの町から逃げ出す羽目になった原因だが、その頃のエリザにとってはそれ以上の意味を持たなかった。
祖母や両親に迷惑をかけている原因でもあるが、幼い頃のエリザとしては自身が知らない“何か”によって虐げられるなど理解できないことだったのだ。
「おばあ様は? かあ様ととう様は?」
「ワシらは……人間、じゃな」
「……なんでワシだけ違うんじゃ?」
この時エリザが思ったのは、何故自分だけがそうなのかという疑問。そして、幼い頃というのはそういった疑問はすぐに口から出る。
「っ……」
エリザの疑問に対して、カトリーヌは僅かに表情を変えた。唇を引き結び、痛みを堪えるかのように眉を寄せる。
そんなカトリーヌの表情の変化に戸惑うエリザだったが、カトリーヌはエリザを抱き寄せ、優しく抱き締めた。
「それは……エリザが大きくなったら教えよう……だから、元気に育つんじゃぞ? よく食べて、よく寝て、よく運動して……大きく、強く育つんじゃ」
「……うん」
“今”となっては果たされなかった約束。
その時のエリザにとっては、抱きしめてくれたカトリーヌの腕が僅かに震えていたことこそが重要だった。答えにくいことを聞いたのだと、幼いながらに理解したのだ。
だからこそエリザは疑問を飲み込んだ。それでも無性に、意味もなく泣きたくなったのは覚えている。
「……エリザは優しい子じゃなぁ」
そして、そんな自身を慈しむように、優しく撫でてくれたカトリーヌのこともエリザは覚えていた。
「今教えられることは少ない……じゃが、これだけは覚えておいてほしい」
続くカトリーヌの言葉もどこか真剣で、エリザは抱き締められたままで耳を澄ます。
「もしも将来、添い遂げたいと思える男と出会えたら……そしてその男が受け入れてくれるのなら、“その男とだけ”『契約』を交わすんじゃ」
「そい……とげる? 『契約』?」
「うむ……まあ、なんじゃ。お主の母と父のように、互いに好き合うような者ができれば……結婚したい、いつまでも一緒にいたいと思える相手ができた時に『契約』を交わすんじゃ」
そうすればきっと――その後の言葉は聞き取れなかったが、大事なことを教えてくれているのだとエリザにもわかった。
ただし、この時にエリザにはいまいち理解できていなかったが。
「むぅ……む、難しいのじゃ」
「難しいか……うむ、困ったのう……そうじゃ、“浮気”は駄目じゃろう?」
「うん、駄目じゃな」
そう言って、エリザはカトリーヌと笑い合う。その笑顔を見て、エリザも安堵する。
両親よりも博識で、強くて、それでいて温かな祖母が、エリザは大好きだったから。
それは今となって遠い、懐かしい思い出で。
『――――』
ザリ、と思考にノイズが走る。
夢の風景が変転する。
「エリザったら……いくら注意してもお母様の口調を真似しちゃうのよねぇ」
「可愛らしくていいじゃないか」
そう話すのは、頬に手を当てながら苦笑する母親と、穏やかに笑う父親。
人里を離れ、何年も山の中で生活しているとは思えないほどに幸せそうな二人だった。
エリザの母親は大きくなり始めていた腹部を優しく撫でながら、苦笑を深める。
「もう少しでお姉ちゃんになるのよ? わたしとしてはもう少し落ち着いてほしいわ」
「あの子ならきっと大丈夫さ。弟か妹かは生まれてみないとわからないけど、守るべきものができれば自然と落ち着くものだよ」
そんな言葉を交わす両親。それを聞いた当時のエリザは、僅かな不安と大きな期待を抱いていた。
新しい家族ができると、姉になるのだと聞かされ、いつになったら“そうなる”のかと毎日のように尋ねていた。知識としてはまだまだ先のことだと理解していたが、それでも尋ねずにはいられなかったのだ。
いつも魔物の素材を取引している村の者に頼み、出産の際には産婆の手を借りられるよう話もついていた。
ほとんど“戦い方を教えてくれなかった”が、カトリーヌが凄腕の魔法使いだとエリザも知っている。それでも治癒魔法は使えず、さすがに赤子を取り上げる知識も持ち合わせておらず、他者の手を借りることになった。
――それが今の生活を崩壊させる引き金だと、知りもせずに。
『――――』
ザリザリ、ザリザリと思考にノイズが走る。
夢の風景が再び変転する。
「ハッ……ハッ……ハァッ、ハッ……」
暗闇の中に響く、荒い息。それは乱れた呼吸によるもので、夢の中のエリザは僅かな月明かりだけを頼りに走り続けていた。
必死に、懸命に、少しでも遠くへと。『強化』も使えない子どもの足を精一杯動かして、草木を踏み締めるようにして森の中を走り続けていた。
誰かが追ってくるような気配はない。それでも一歩でも前へ、遠くへと駆けていく。
息を荒げながら走り続けるエリザの脳裏に過ぎるのは、何故、どうしてという言葉だけだ。
エリザには理解できない。家族が皆殺しにされたなど、理解したくもない。
それでもエリザの体は殺された家族から遠ざかるように動いていた。エリザを逃がすために残ったカトリーヌの言葉に従うように、動いていた。
“それ”は今となっても時折思い出す、悪夢の夜。
必死に逃げ回り、カトリーヌから教わった知識をもとにたった一人で旅をした記憶。
魔物に殺されるか、野盗に襲われるか、餓死するか。そんな恐怖と不安に駆られながら逃げ続けた、一ヶ月を超える苦難の日々の記憶。
だが、その時胸の内に宿っていたのは、本当に恐怖と不安だけだったのか――。
『――――』
不意に、遠くで“何か”の声が聞こえた気がした。
それは真っ白な紙に落とした墨汁のようにジワジワと、エリザの意識に侵食してくるような声。
『――来い』
声が輪郭を帯びる。曖昧に、遠くに聞こえていた声が近くで聞こえる。
『“こちら”に来い』
囁くようでいて、力強い声だった。その声は妙に心地良く、エリザの胸の内に滑り込んでくる。
今まで見ていた夢の風景が、遠ざかっていく。聞こえてきた声に押し流されるように、エリザの意識から消え失せていく。
祖母を、両親を、生まれてきたであろう弟妹を殺され、日々痩せ細っていく己の体に恐怖しながら逃げ続け、そして“辿り着いた先”のことさえも――。
「っ!?」
そこでエリザの意識が覚醒する。崖から滑り落ちそうになったところを、指先だけ引っかけて免れたような感覚と共に目を覚ます。
(ワシは……わたしは一体何を……っ!?)
夢から覚めたエリザだったが、見ていた夢に関して疑問を覚えるよりも先に、自身の現状に気付いて内心だけで声を上げた。
場所はスペランツァの町にある自宅の部屋である。しかし、今まで眠っていたはずだというのに何故か自分の体が立ち上がっていたのだ。
それに気付いたエリザは体を動かそうとするが、意思に逆らうように動かない。それならばと声を発しようとしたが、掠れた声すら出なかった。
(ぐっ……これは、まず、い……『思念通話』を……)
寝起きながらも自身の置かれた状況の危険さを感じ取ったエリザは、声すら出せないのならばと『思念通話』を使おうとした。だが、魔力を集中しようとしても上手くいかない。
(っ……なんで……)
体が自分のものではなくなったように、勝手に動き出す。それに合わせて、少しずつ意識も遠ざかり始める。
(さっきの……夢の中の、声……あれは……)
自分の体が勝手に窓の方へと向かっていくのを認識しながら、エリザは現状について必死に思考する。
夢の中で聞いた声。その持ち主を脳裏に思い浮かべ、エリザは抵抗するべく体を動かそうとする。
だが、力を込めても辛うじて指先を動かせる程度だ。魔法に関しても感覚が狂ったように上手く使えず、『思念通話』だけでなく『強化』も雷魔法も使えない。
そうしている間にも意識が遠退き、体は勝手に部屋の窓を開けようとしている。木で作られた窓は開け放てば人ひとりが通り抜けられるほどの大きさがあり、エリザの体は勝手に木窓を開けていく。
それをエリザは止めることができない。
思い通りに体が動かない――それでも、指先は動くのだ。
「…………っ!」
エリザは咄嗟に右手の親指の爪を人差し指に食い込ませる。そして痛みが走るのにも構わず、爪で皮膚を抉り取った。
続いて指先を滑らせ、滲み出た血を窓の縁に走らせる。そうして“僅かな抵抗”をしている間にも、意識が遠退いていく。
(レウ……ルス……!)
心中でエリザが最後に呼んだのはレウルスの名前で――その声を最後に、エリザの意識は途切れたのだった。




