第41話:近づいた距離感
翌日、レウルスが目を覚ますと胸元が大惨事だった。
「あー……せめて顔を拭いてやれば良かったな」
レウルスの服が破れそうなほどに強く握り締め、胸元に顔を押し付けたまま泣き喚き、結局は泣き疲れて眠ったエリザ。あまりにも強く握っていたため眠ってからもエリザはレウルスの服を離さず、結局は抱き締めたままでレウルスも眠ってしまったのだ。
そしてその結果、レウルスの服は凄まじいことになっている。エリザが流した涙や鼻水が乾燥し、顔を押し付けたままで眠ってしまったエリザの顔に張り付いているのだ。
(……死んでないよな?)
エリザはもしかして窒息死しているのではないか、などと不安に思ってしまうほどの大惨事である。ひとまずエリザの背中に手を当ててみると、呼吸によって動いていることが確認できてほっと安堵の息を吐いた。
好きに泣かせて愚痴を吐き出させたが、涙や鼻水で窒息死していたら悲劇ではなく喜劇だろう。レウルスとしては笑えないが、少なくとも途方に暮れるに違いない。
困ったようにレウルスが視線を巡らせてみると、既に太陽が昇っているのか通気口から日の光が覗いている。そろそろ起きなければ魔物退治に当てる時間が減ってしまう。
「おい、エリザ? 朝だぞ」
抱き締めたままの――着ている服が顔面に密着しているため離れられないエリザの体を揺らし、そろそろ起きろと告げる。そうするとエリザはむずがるように顔をレウルスの胸板にこすり付けた。
「とう様……まだ、眠いのじゃ……」
「誰が父さんだ。そんな歳じゃ……ああくそっ、そんな歳だったわ」
前世を含めればエリザぐらいの年齢の子供がいてもおかしくなかった。それを忘れて自分は十五歳だと考えたレウルスは、まだ寝惚けていたのかと頭を振る。
(いや、生まれ変わって十五年だし、間違ってない……のか?)
精神年齢が体に引っ張られているのかもしれない。そんなことを考えつつもレウルスはエリザの体を揺らし、起きるよう促す。エリザが起きないことには服を脱ぐこともできないのだ。
「まだ……ん……んん?」
レウルスがエリザを揺らし続けると、ようやく反応があった。さすがに、昨晩殺されたと聞いたばかりの父親と勘違いされ続けるのは色々な意味できつい。そのためレウルスは安堵するが、エリザは自分の状態が理解できていないのか激しく混乱する。
「んっ? ぬ? ぬぬ? な、なんじゃ!? 何も見えんぞ!? とう様!? とう様ぁ!? 目が開かぬのじゃ!?」
「だから誰が父さんだと……ああもう、とりあえず落ち着け」
バタバタと暴れ始めるエリザを一度強く抱き締めて落ち着かせるレウルス。エリザはそんなレウルスの行動に安堵したように体を弛緩させ――すぐに思い切り硬直させた。
「お主何者じゃ!? とう様の匂いではないぞ!」
「匂いで判別するとか吸血種じゃなくて犬かよ……レウルスだ」
昨晩エリザの話を聞いた上で死んだという父親に間違われたからか、寝起きから大惨事な状態にある自分の服に絶望したのか、レウルスの反応はテンションが非常に低い。
そんなレウルスの冷たい反応にエリザは身を震わせる――ことは、何故かなかった。
「……前が見えんし、声が近いし、なんかあったかいのじゃ」
「そりゃ抱き締めてるからな……少しは落ち着いたか? それならまずは手を離してくれ」
「う、うむ……あれ?」
そう言ってレウルスがエリザの背中に回していた腕を解くと、エリザもレウルスの服から手を離そうとする。しかし寝ている間も握り続けたせいで関節が固まっているのか、思うように指が動かないようだった。
「外してやるから暴れるなよ?」
レウルスは服を握り締めたままのエリザの右手に触れ、ゆっくりと指を開かせていく。親指を開き、人差し指から小指まで順番に開き、そして今度は左手の指を開かせる。
「これでよし……でもここからが本番だな」
エリザの両手を解放させたものの、服にエリザの顔面が貼り付いたままだ。無理に引き剥がすと服もエリザの顔も危険だと考えたレウルスはエリザを立たせると、Tシャツ状の服を脱ぐ。
「あー、楽になった……そしてコレはどうするかなぁ」
レウルスは困ったように呟く。その視線の先では、顔にレウルスのシャツを貼り付けたままのエリザがいた。
「ぬぉー……何も見えんのじゃ……」
ゾンビのように両手を前に突き出し、情けない声を漏らすエリザ。このままでは剥がせないというのなら、せめて服を湿らせるべきだろう。
「水を汲んでくるから大人しくしてろって……ほら、ここに座ってろ」
そう言ってエリザの手を取り、木箱に座らせる。顔にシャツを貼り付けた少女が座っている姿はホラーのようだったが、原因が原因だけにレウルスも笑えない。
(予備の服、買っておいて良かった……)
キマイラ退治で得た報酬で装備を新調した際、ほんの数着ではあるが着替えの服も買っておいたのだ。ひとまず近くに置いてあったシャツを着ると、レウルスは物置から外に出る。
「おはようございます、レウルスさん」
すると、そこには水が入った木桶と手拭いを抱えるコロナの姿があった。
「これ、どうぞ。必要になると思って汲んできたんです」
木桶を差し出し、にこりと微笑むコロナ。普段ならばその気遣いに感謝するレウルスだったが、木桶と手拭いを受け取りつつ申し訳なさそうに小声で尋ねる。
「コロナちゃん? もしかして昨晩……」
エリザの話を聞いていたのか。そう尋ねたレウルスに対し、コロナは苦笑を返した。
「詳しい事情は何も聞いていませんよ? でも、エリザちゃんがずっと泣いていたのは……」
「あー……そりゃあんだけ泣き喚けば聞こえるよな」
防音どころか鉄筋コンクリートの建物でもないのだ。声を上げて泣き喚けば家中に聞こえていてもおかしくはない。
それでもコロナは何も文句を言わず、こうして水の準備をしてくれていたようだ。調理場に立っているドミニクにも視線を向けてみると、気にするなと言わんばかりに包丁を振る。
レウルスはそんな二人の心配りに感謝すると、もう一度頭を下げた。
「本当にありがとうな。でも、こうして顔を出してくれたってことは……」
「……少なくとも、わたしはあの子を警戒したいとは思いませんから」
詳しい事情はわからなくても、泣き喚くエリザの声からおおよその事情を察したのだろう。コロナは痛ましそうに目を伏せたが、すぐに笑顔を取り戻す。
「お父さんからはレウルスさんに任せるように言われましたけど、放っておけません。わたしに何かできることがあったら遠慮せずに言ってくださいね?」
柔和な善意100パーセントの笑みを浮かべるコロナに、レウルスはこれ以上ない援軍だと破顔した。
「心強いし助かるよ。何かあったらその時は頼らせてほしいな」
エリザとしても男のレウルスが相手では頼みにくいことがあるはずだ。その点、コロナならばエリザが警戒したとしても容易く解きほぐしてくれそうである。レウルスとしては精霊教やグレイゴ教よりもコロナのことを崇めたいぐらいなのだ。
それでも今はエリザのことをなんとかする必要がある。そう考えたレウルスは物置に戻ると、相変わらずゾンビのように両手を突き出して唸っているエリザの傍に膝を突いた。
「れうるすー……れうるすー……」
「はいはい、聞こえてるから。ほら、こっちに水が入った桶があるからちょっとしゃがんで……そうそう、良い子だ。大人しくしてろよ?」
エリザの手を取って座らせると、まずは手拭いを水に濡らして顔の周りを拭いていく。続いて顔に貼り付いたシャツを水で湿らせ、少しずつ剥がし始めた。
「むー……むー……」
「我慢我慢……お、やっと取れたな」
エリザの顔に傷がつかないよう丁寧に、それでいて手早くシャツを剥がすレウルス。エリザは顔からシャツが剥がれる感触に唸り声を上げていたが、無事にシャツを回収できたレウルスはほっと安堵の息を吐いた。
ディスカウントストアで安価の既製品を購入できるわけではないのだ。もちろん洗濯する必要はあるが、破れていないのなら再利用できる。レウルスは丸めたシャツを物置の隅に放ると、濡れた手拭いでエリザの顔を優しく拭き始めた。
「……これでよし、と」
洗顔代わりにエリザの顔を拭いてやると、エリザは借りてきた猫のように大人しくしている。それでも顔を拭き終わると目を開け、気恥ずかしそうに頭を下げた。
「た、助かったのじゃ……起きたら目の前が見えんから何事かと……」
「俺も驚いたよ……まさかエリザの顔面が服に貼り付いているなんて予想外だった……」
レウルスが真面目な表情でそう言うと、エリザは顔を上げてレウルスの顔をまじまじと見る。そして何がおかしかったのか小さく吹き出し、笑い始めた。
「ぷっ……ははっ、あははははははっ!」
目の端に涙を溜めながら笑うエリザ。何か心境の変化があったのか、それは出会ってから初めてエリザが見せる、心からの笑顔だった。
もっとも、笑う理由が涙と鼻水でレウルスのシャツに顔面を貼り付けた結果だというのは――。
「ははははははっ!」
笑うとしても、もっとマシな状況があっただろうに。そう思うと余計におかしく、レウルスも声を上げて笑うのだった。
朝食を食べ終えたレウルスは装備を整え、微笑ましそうに笑うコロナと昨日と比べれば険が取れたドミニクに見送られ、料理店を後にした。
エリザは相変わらず他者への警戒心を隠せていなかったが、それでも初めて顔を合わせたコロナに噛み付くこともなく、自己紹介だけは無事に終えることができたのである。
「の、のうレウルス……」
その辺りの警戒も、今後少しずつ改善していけば良いだろう。そんなことを考えていたレウルスだったが、昨日と違って隣をトコトコと歩いていたエリザが頬を朱に染めながら、それでいてどこか申し訳なさそうに口を開いた。
「その、じゃな? あの……この町の近くに川はないのかの? できれば水浴びがしたいんじゃが……」
上目遣いで窺うように尋ねるエリザ。それを聞いたレウルスは僅かに首を傾げ、ああ、と納得したように頷く。
この世界では――と言えるほどレウルスは世間を知っているわけではないが、少なくともシェナ村でも風呂の類に入ったことがなかった。村の中を流れていた小川で体を洗うか、時折降る雨で体を洗うかの二択しかなかったのである。
不衛生な状態では病気にもなりやすいということで、体が洗えない場合でもレウルスは水に浸した布で体を拭いていた。それでもやはり前世の日本と違って温かい風呂やシャワーではないため、綺麗になった気がしないのである。
それでも体を拭けるだけでも上等であり、いつしか風呂に入るという思考自体抜け落ちていた。
しかしながらエリザは違うのだろう。昨晩泣き喚いたことで緊張の糸も良い意味で切れたのか、時折自分の腕などの匂いを嗅いでは恥ずかしそうにしている。
「水浴びか……この町から東に一時間ぐらい歩くと川が流れてるって聞いたような?」
「そうか……一時間か……」
ラヴァル廃棄街に初めて到着した際、水が飲める場所がないか聞いた結果がそうだった気がしたレウルスである。もっとも、東に一時間といっても具体的な場所まではわからない。
レウルスの返答を聞いたエリザはわかりやすく落ち込んでいた。そういった姿は昨日までに見られなかったものであり、エリザに何かしらの変化が起きたのだろうとレウルスは一人頷く。
家族を皆殺しにされた過去を考えれば、警戒心が強くても仕方がないだろう。それでもレウルスには様々な表情の変化を見せるようになっており、昨晩の大泣きが良い方向へ転がったらしい。
(なるべく早い段階でエリザに冒険者としての手柄を立てさせたいけど、焦っても魔物と遭遇するかは運次第か……あまり時間はかけられないけど、エリザが『強化』を使えるようになれば少しは安全に魔物と戦えるだろうし……)
折角良い方向に転がったのだ。エリザの心を休ませる意味でも水浴びをさせるというのは悪くない。レウルスとしても井戸以外の水場の位置を知っておきたいところだ。
そう考えたレウルスはエリザを連れて冒険者組合へと向かい、昨日と同じようにシャロンと合流する。そして再びラヴァル廃棄街の南側での魔物退治を請け負う前に、シャロンへと尋ねた。
「なあシャロン先輩。この町では体を洗う場所ってないか? もしかして井戸で汲んだ水を使って体を拭くだけか?」
一番良いのは湯船に浸かれることだが、ラヴァル廃棄街でそれを望むのは贅沢が過ぎるというものだろう。せめて水風呂でもいいから体全体を洗える場所があれば良いのだが、と思いながらレウルスが尋ねると、シャロンは小さく首肯する。
「蒸気風呂ならある」
「蒸気風呂? ……ああ、サウナか」
一体何のことかと思ったレウルスだが、おそらくはサウナのことだろうと予測する。どうやら湯船に浸かれるような風呂はないようだが、サウナで汗を流して水で体を拭けばそれなりに汚れを落とせるだろう。
「ただ、利用料は大銅貨3枚」
「高くないかソレ!? あれ? いや、妥当なのか?」
レウルスは続いたシャロンの言葉に思わず目を見開いた。
大銅貨3枚――日本円で考えると三千円ほどだろうか。今のままではさすがに払うのが厳しい額である。
即座にツッコミを入れたレウルスだったが、ラヴァル廃棄街のような場所でサウナ風呂を使用するとなるとそれなりに対価が必要なのだろう。蒸気を発生させるのもタダではないのだ。
それが三千円程度で利用できるのならば利用するのも良いだろう。今はまだ、手持ちの金が心許ないため利用できないが。
「……この町から東に一時間も歩くと川があるって聞いたんだけど、それは本当か?」
故に、まずは川の有無を確認することにした。レウルスがラヴァル廃棄街に辿り着く前にも小川を見かけ、キマイラを撒くために飛び込んだが、徒歩で一時間程度の距離ではない。
「本当。場所はボクもわかるけど……行く?」
「いいのか?」
自分で言い出したことだが、南の森の調査は良いのだろうか。そんな疑問から尋ねるレウルスに、シャロンはエリザを少しだけ見てから頷き、小声で答えた。
「……体を洗いたいという気持ちはわかる」
どうやらシャロンとしてもエリザの“状態”が気になるらしい。レウルスが念入りに顔を拭いたが、一ヶ月以上旅を続けたせいで色々と――エリザの名誉のためにもレウルスはそれ以上考えないことにした。
「昨日は魔物に遭遇しなかった。もしかすると他の場所に移動しているのかもしれない。水源の位置を知っておくのは重要だし、川に向かいながら索敵する」
シャロンとしては南側の森で魔物に遭わなかったことが気にかかるようだ。そのためレウルスはシャロンの申し出に遠慮なく頷くのだった。