第393話:大混乱
レウルスが“二度寝”から目覚めたのは、太陽が中天に昇ろうかという時間だった。
妙な気怠さを感じつつも目を覚まし、のそりと体を起こす。そして大きな欠伸を一つ零すと、涙で滲んだ目元を指で拭った。
(あー……だるい……)
心中でそんな呟きを漏らし、体がもう一度寝台へと倒れ込みそうになるのを辛うじて堪える。このまま三度寝したいところだが、木窓を閉めているにも関わらず明るい室内を見れば今の時間も察せられた。
(いかん……寝坊した……仕事……仕事……)
何度も欠伸をしながら寝台から下り、ぼんやりとする思考で自室の扉へと向かう。顔を洗って何か腹に入れれば少しは眠気も取れると思ったのだ。
「…………」
そして、度重なる欠伸によって涙が滲む視界の中で、何やら扉の隙間から顔を覗かせているエリザを発見する。エリザは無言でレウルスをじっと見つめており、それに気付いたレウルスは軽く手を上げた。
「エリザか……おはよう……おはよう? こんにちはか?」
脳の半分は未だに眠っているような感覚がある。レウルスは普段と比べるとのんびりとした口調でエリザに挨拶をするが、エリザは唇を引き結んだままレウルスを無言で見つめていた。
――その顔は、滲んだ視界でもわかるほど真っ赤である。
「まだ顔が……赤いなぁ……体調は……ふぁあああぁ……ねむ……」
ふらふらとした足取りでエリザの方に近づいていくと、エリザはビクリと体を震わせてから慌てたように扉を閉める。しかし数秒もすると再び扉が開き、隙間からエリザが顔を覗かせた。
「…………」
相変わらず無言で顔も真っ赤だが、その目付きはどこか恨めしげである。レウルスはそんなエリザの反応に疑問を覚えて首を傾げた。
「んー……なんだ……どうした?」
「どうした……じゃと?」
ピク、とエリザの眉が動き、表情が一変する。眉が吊り上がって怒りの形相を浮かべたエリザは扉を開けてレウルスの自室へと足を踏み入れ――慌てたように再び部屋の外へと逃げ出す。
(……なんだ? エリザが……えっと、様子がおかしい……ような……)
かつてないほど働きが鈍い思考の中で、レウルスはエリザの様子がおかしいことに疑問を覚えた。
エリザは再び扉の隙間から顔を覗かせると、顔全体を真っ赤にしたままで怒ったような、それでいて口元をにやけさせた表情をレウルスに向ける。
「ど、どうしたはこっちの台詞じゃ! 起きたら何故かレウルスの部屋にいて……その……えっと……あ、うぅ……」
最初は勢い込んで話していたエリザだったが、徐々に勢いを失い、湯気でも吹きそうなほど顔の赤みを増す。
「……ちょっと待ってて」
「……おう」
パタン、と扉が閉まり、扉越しにエリザが深呼吸をする音が響く。そしてエリザが五回ほど深呼吸をしたかと思うと、再び扉が開いてエリザが顔だけ覗かせた。
「き、昨日の夜……な、何を……した、の?」
そして恐る恐る尋ねるエリザ。その問いかけを受けたレウルスはどう説明したものかと回転が鈍い思考を動かす。
「何って……」
「や、やっぱりいい! “見てわかった”から! は、恥ずかしいからっ!」
だが、レウルスが何かを答えるよりも先にエリザが叫んで止めた。突き飛ばすようにして扉を開け、両手を体の前で振って必死にレウルスを止めている。
そんなエリザの反応に、レウルスは困ったように頬を掻いた。
(昨晩は……えーっと……そうだ、エリザが俺の部屋に来て、様子がおかしいと思ったら首を噛まれて……血を吸われて?)
レウルスは頬を掻いていた右手で自身の首元に触れてみるが、痛みもなければ傷跡もない。エリザと『契約』を結んで以来、少しの傷ならばすぐに塞がるようになったが、寝ている間に傷口が塞がったのだろう。
「そ、それでその……ど、どうだった?」
蝶番が弾け飛びそうな勢いで扉を押したエリザだったが、僅かに顔を伏せながらそんなことをレウルスに尋ねる。胸の前で指を突き合わせつつ、チラチラとレウルスを見ながら尋ねるエリザの顔は相変わらず真っ赤だった。
(どうだった……どうだった? 昨晩のアレが?)
レウルスは襲い掛かってくる眠気に抗いながら思考し、エリザがどんな返答を求めているのか思考する。
エリザに血を吸われる機会はほとんどないが、昨晩の血の吸い方はといえば――。
「あー……激しかったよ」
首からの出血が、という言葉を付け足すよりも先に、エリザが大きく目を見開く。
「は、激しかった!?」
「お、おう……」
顔だけでなく首筋や耳まで真っ赤にしながら叫ぶエリザと、その勢いに驚いて曖昧に頷くレウルス。
エリザは昨晩と違って長袖のシャツにロングスカートという普段着を身に着けた自分の体を見下ろしながら、わなわなと体を震わせる。
「ぜ、全然記憶にない……わ、わたしその、は、はじめて……だったのに……」
何やら激しくショックを受けていると思しきエリザだが、レウルスは心底不思議そうに首を傾げてしまう。
「……? 何を言ってるんだ? 初めてじゃなかったぞ?」
「ぅぇっ!? ち、違うよ!? はじめてだもんっ!」
「だもんって……」
普段の祖母を真似た口調とも“素”の口調とも異なる、心底焦ったような口調だった。レウルスはそんなエリザの反応に『何かおかしいな?』などと思いながら言葉を紡ぐ。
「ああ……いきなり寝込みを襲うような感じでってのは初めてだったか?」
「ねこっ……お、襲う!? わ、わたしの方から!?」
「うん」
「しかも前にもあったの!?」
「うん……うん?」
目を見開いて愕然とし、それまで真っ赤にしていた顔を真っ青にするエリザ。しかしすぐさま赤みを取り戻し、数秒すると再び顔色を青くする。
そんなエリザの反応を見たレウルスは、エリザと言葉を交わしている内に少しずつ眠気が引き始めた頭の中で疑問を覚えた。
(『契約』を交わした時にも血を吸っただろうに……忘れてる? いやいや、さすがに忘れないだろアレは……)
エリザにとって大した出来事ではなかったというのか――などと考えたレウルスだが、さすがにそれはないと否定する。
(つまり、俺とエリザの間に認識の相違があるわけか……全然記憶にない、なんて言ってるしな……)
レウルスは少しずつ平常に戻りつつある思考の中でようやく違和感を覚えた。そして何度か頭を振って眠気を強引に追い出すと、落ち着きのない様子で視線を彷徨わせているエリザをじっと見る。
「昨晩のこと……全然覚えてないのか?」
まずは認識の擦り合わせが必要だと思い、レウルスはそう尋ねた。するとエリザは青くなっていた顔色を再び朱色に染め、もじもじとしながら視線を逸らす。
「そ、そういった……でしょ? 起きたら隣にレウルスがいて……その、ふ、服が乱れてたし……血も……」
(朝方に一度起きた……ような気がするけど、何を騒いでいたかと思えば……その辺の知識はあるのな……じゃない……本当に覚えてないのか?)
レウルスは昨晩のエリザの様子を思い出す。
たしかに普段のエリザを知っているレウルスからすれば、別人かと思うほどに“異常”だった。
だが、エリザが嘘を吐いている様子はない。仮に嘘を吐いているのだとすれば大した名女優だろう。
(寝て起きたら隣に異性の俺がいて、服が乱れていて、寝ている場所に血もついてて……そりゃ記憶がなければ混乱するわな)
エリザの言葉を信じたレウルスはエリザ側に立って思考する。そして、エリザの様子がかつてないほどにおかしいことにも納得した。
「昨晩、エリザは俺の血を吸いに来たんだが……本当に覚えていないのか?」
そのためレウルスは昨晩起きたことに関して端的に述べつつ、再度の確認を行う。すると、エリザは目を丸くした。
「――え?」
そして心底不思議そうに首を傾げる。レウルスの言葉を信じきれないように、その視線がレウルスが使っている寝台へと向けられた。
「……それじゃああの血は?」
「俺の血」
「……なんで血が?」
「エリザが首に噛みついてきてな……けっこう深く噛まれたのか、痛みと出血が激しかったんだよ」
さすがに頸動脈を噛まれたわけではないが、皮膚を突き破るぐらい噛まれれば当然ながら血も出てくる。噛まれた際に血が飛び散ったのだろう、とレウルスは補足した。
「……首に傷がない……けど……」
「寝てる間に治ったみたいだな。ほら、エリザと『契約』してから傷が治るの早いし……」
「……本当に?」
呆然とした様子で尋ねてくるエリザに、レウルスは真剣な表情で頷く。
エリザは自身の体を見下ろし、レウルスの顔を見つめ、レウルスが使っている寝台に視線を向け、天井を見上げたかと思うと再び自身の体を見下ろし――。
「~~~~~~っ!?」
火が出そうな勢いで顔を真っ赤にしたかと思うと、目を回してその場に崩れ落ちた。
そんなエリザの反応に、レウルスはどうしたものかと眉を寄せる。眠気が取れるのがもっと早ければ、などと思いながらエリザを起こそうとするが、それよりも早くレウルスの耳に物音が届いた。
それは玄関の扉が開く音で、僅かな間を置いて足音が上がり込んでくる。
「ただいまー。エリザちゃん、レウルス君は起きた……って、なんでエリザちゃんが倒れてるの!?」
「えっ? なに? レウルスが起きたのに今度はエリザが寝ちゃったの?」
「……寝てる?」
床に倒れ伏したエリザを見て焦ったような声を上げるミーアと、不思議そうにエリザを見るサラとネディ。
騒がしくなった家の中で、レウルスはどう説明したものかと困り果てるのだった。