第392話:夜に その2
(寝惚けて下りてきた……なんてわけじゃなさそうだが……)
扉を開けて姿を見せたエリザに、レウルスはそんなことを内心で呟く。
闇夜に慣れて薄っすらと見える視界の中、レウルスは寝台に寝転がったままでエリザの様子を観察する。
それまで眠っていたのか、寝間着に素足と非常にラフな格好だ。ただし寝間着といっても前世で使用されていたようなパジャマがあるわけでもなく、寝やすいように薄手の服装に着替えるだけである。
これが家の中ではなく外――特に野営している時などは一々服を着替えたりはせず、旅装のままで眠るのが一般的だった。
レウルスの場合は不寝番として横になって眠ることはほとんどなく、眠るとしても防具などを身に着けて座ったまま眠るだけである。
その点、家の中で眠るとなるとさすがに防具の類は身に着けない。春を過ぎて少しずつ夏が近づき始めていることもあり、エリザも薄手の貫頭衣を身に着けているだけだった。
レウルスの自室の扉を開けたエリザは数十秒ほど動きを止めていたが、やがてレウルスの自室へと足を踏み入れてくる。寝惚けている可能性も考慮するレウルスだったが、エリザは開いた扉もきちんと閉めており、意識はしっかりとしてそうだった。
ヒタ、ヒタ、と素足を鳴らしながら、エリザは一歩一歩レウルスとの距離を詰め始める。
エリザの行動が理解できないレウルスは無言で、エリザもまた無言だった。それでもさすがに様子がおかしいと思ったレウルスは上体を起こす。
「こんな夜更けにどうした? 怖い夢でも見たのか?」
怖い夢でも見て一人で眠るのが怖くなった――そんな可愛らしい理由ならば、レウルスは苦笑すると共に添い寝の一つでもしていただろう。
だが、エリザは何も言わない。
暗闇でもはっきりとわかるほど、普段から紅い瞳を爛々と輝かせている。
「っ……は、ぁ……はぁ……」
エリザは荒く熱っぽい息を吐きながら、寝台の上で身を起こしたレウルスへと近づいていく。それなりに広さがあるレウルスの部屋だが、小柄なエリザでも十歩も歩かない内に端まで行きつく広さしかない。
エリザはゆっくりと、しかし確実にレウルスとの距離を詰めたかと思うと、寝台の傍に立ってレウルスをじっと見つめた。
上体を起こしたものの、寝台の上に座るレウルスと床に立つエリザの目線の高さは大して変わりがない。普段ならば見下ろす形になるエリザを同じ目線の高さで見る形になったレウルスは、首を傾げながら尋ねた。
「体調が悪化したのか? 辛いのならコルラードさんに頼んで魔法薬をもらってくるぞ?」
明らかにエリザの様子がおかしいが、レウルスとしては心配の言葉をかけることしかできない。
もしもエリザが“敵意”の類を向けてきたならば、レウルスも違った反応を見せただろう。だが、エリザは暗闇でもわかるほどに顔を赤くしながら荒い息を吐くだけだ。
声をかけてもエリザの返答はない。そのためレウルスとしても対応に困ってしまう。
(……何なんだ? まさか夜這いでもしに来たのか?)
レモナの町を訪れた直後辺りからエリザの様子がおかしかったが、夜営をした昨晩は“こんな行動”は取らなかった。
そのため冗談混じりに夜這いだろうか、などと考えたレウルスだったが、ひとまずエリザの体調を確認するべく右手を伸ばす。
「黙ってちゃ何もわからないぞ? 熱は……けっこうあるな。寝てるかもしれないけど、ネディに頼んで氷を出してもらうか?」
エリザの額に手を当てたレウルスだったが、手の平から伝わってくる熱はかなり高い。
何かの病気かもしれないが、氷で冷やせば熱も少しはマシになるだろうか、などと考えながらレウルスはエリザの額から右手を下ろし――そのままエリザに右手を掴まれた。
「……エリザ?」
エリザが行動を見せたことに疑問を覚えたレウルスは、何をするつもりかと眉を寄せる。
すると、エリザは何を思ったのか、掴んだレウルスの右手を自身の頬に当てた。そして心地良さそうに頬擦りをする。
「ん、ぅ……れう……るすぅ……」
熱を持った柔らかい頬を擦り付けながら、甘えるような声を出すエリザ。対して、レウルスは心底困ったように眉間の皺を濃くする。
(なんだこの……何? 一体何がしたいんだ……)
やはり寝惚けているのだろうか、それとも熱で思考がまともに動いていないのか。
「おーい、エリザ? 本当に大丈夫か?」
レウルスがエリザの頬をつつくと、エリザは嬉しそうに目を細めて口元を笑みの形に変える。
それは甘えるようで、じゃれつくようで――同時に、どこか艶やかだった。
(……ん?)
エリザは笑みを浮かべたままで、レウルスをじっと見つめる。レウルスはエリザの反応を訝しく思っていたが、改めてエリザの顔を確認して疑問を覚えた。
(あれ……おかしいな……エリザってこんなに可愛かったか?)
そんな疑問を覚えたことに、レウルスは内心で驚く。
以前満腹感を覚えた際にも似たような印象を抱いたが、今は状況が異なる。『熱量解放』を使う際に制御が難しいからと魔力量に気を付けているため、“上限”は超えていないはずなのだ。
それでもやけにエリザが可愛く見える。じっと見つめてくるエリザの瞳から、目が離せなくなる。
それまでレウルスの右手を握っていたエリザが、一歩距離を詰めた。熱に浮かされたように頬を桜色に染めながら、蠱惑な笑みを浮かべて。
「ふふっ……レウルス……」
エリザがレウルスの名を呼ぶ。その声色に込められた感情は深く、重く、それでいて華やかだ。
(っ……なん、だ……これ……)
そこでレウルスは自身の体に起こった異変に気付く。いつの間にか体が石にでもなったかのように動かなくなっているのだ。
レウルスは全身に力を込めて動こうとするが、指先を僅かに動かすだけでも一苦労である。それならばと『熱量解放』を使おうとしたものの、それよりも先にエリザが動いた。
動けないレウルスに対し、エリザは更に距離を詰める。そして両腕を広げたかと思うと、正面からレウルスに抱き着いた。
普段ならば恥ずかしがって行わないような行動である。エリザはレウルスの背中に両腕を回したかと思うと、力を込めて密着の度合いを高めていく。
「んっ……レウ、ルス……」
耳元で聞こえる、エリザの声。その声は相変わらず熱を帯びており、レウルスの名前を呼ぶその声色はいっそ愛しげですらあった。
密着したことでふわりと香るのは、エリザ自身の匂いか。同年代の少女と比べると些か発育が遅いエリザだが、薄手の寝間着越しに感じられる柔らかさはきちんと“女性”らしい。
(『思念通話』でサラを呼ぶか? でも、呼んでどうする? 攻撃させるわけにもいかないし、今のエリザが止まるかどうかも……)
『熱量解放』を使うタイミングを見失ったレウルスは、エリザのことを意識しないようにしながら思考を巡らせる。
明らかに異常で、いっそのこと別人かレベッカが化けていれば即座に斬りかかれるのだが、『契約』によって魔力のつながりがあるため抱き着いてきたエリザが本人であると嫌でもわかってしまう。
そのため荒っぽい手段で落ち着かせるわけにもいかず、レウルスは対処に困ってしまった。
(やっぱり『熱量解放』を使って振りほどいて、どうにか気絶させてみるとか……)
今のところ正面から抱き着かれただけで、特に害があるわけでもない。それでもエリザの様子がおかしいため“どうにか”しようと考えるレウルスだが、気絶させる手段も持ち合わせていないのだ。
首筋や鳩尾を強打すれば気を失うかもしれないが、大抵の場合、気絶するほどの勢いで打つと死ぬ危険性がある。ジルバならばどうにかできるだろうが、レウルスにはそんな技術はないのだ。
(……このままエリザの好きにさせてみるか)
体が動かなくて焦るレウルスだったが、エリザからは相変わらず敵意が感じられない。抱き着いたままもどかしげに体を震わせているが、“それ以上”のことは特になさそうだとレウルスは内心でため息を吐き――。
「っ!?」
首筋に痛みと熱が広がった。それに驚いて目線を動かしてみると、いつの間にかエリザが首筋に牙を立てているのが見える。
(っつぅ……けっこう痛いぞこれ。いきなり何を……って、血を吸ってる?)
エリザの突然の行動に驚いたレウルスだったが、首筋に牙を突き立てたエリザが傷口から溢れる血を舐めていることに気付いた。
(……あ、そういえば吸血種だったな)
あまり血を吸われる機会がないためレウルスも半ば失念しかけていたが、エリザは吸血種である。
エリザは血を吸うことが嫌いなのか、『契約』を交わして以来魔力が空になった時ぐらいしかレウルスの血を吸わなかった。
それだというのにこうして動きを止めて血を吸うエリザの姿に、レウルスは小さな困惑を抱く。
(魔力は……特に減ってなかったよな?)
エリザが血を吸う必要があるほど魔力を消耗するような機会はなかったはずだ。それに加えて、血を吸うとしても今のような状態になったことはない。
レウルスが困惑している間にも、エリザはレウルスの血を吸っていく。
『熱量解放』を使っていないため傷口が痛むが、エリザの舌が傷口周辺を舐めてくすぐったくもある。
そうして一体どれほどの時間が過ぎたのか、エリザが名残惜しそうにレウルスの首筋から離れた。そして自身の唇に付いた血を舐め取ったかと思うと、もう一度強くレウルスに抱き着く。
「…………?」
エリザの行動に困惑することしかできないレウルスだったが、エリザが静かな寝息を立てながら脱力したことに気付いた。同時に体が自由に動くようになり、もたれかかるようにして眠るエリザを慌てて支える。
「……なんだったんだ?」
軽くエリザを揺すってみるが、目を覚ます様子もない。そのためレウルスはどうしたものかと迷ったが、不意に視界が揺らぐのを感じた。
「っ……なん……ね、む……」
全身を襲う気怠さと眠気。それに気付いた時には体が傾き始めており、レウルスはエリザを抱き留めたままで寝台へと横たわる。
思っていたよりもエリザに血を飲まれてしまったのか、あるいはエリザが何かしたのか。
そんな疑問を解消する暇もなく、レウルスの意識は眠りの淵へと落ちていくのだった。
「……! ……!? ……!?」
そして、落ちた意識が浮上する。
何やら騒ぐような声で眠りから覚めたレウルスは、重たい瞼を持ち上げた。
霞む視界に映ったのは、顔を真っ赤にしたエリザである。
意識を失う前は抱き留めていたはずだが、寝ている間に力が抜けたのかエリザは床に降り立ち、何やら騒いでいる様子だった。
「な、なんっ、ななな、なんでわたしがレウルスと一緒に……というか、えっ? ええっ!? な、なに!? なんで!?」
妙に気怠く、そのまま再度の眠りにつこうとしたレウルスだったが、エリザが心底焦ったような声で騒いでいるのを耳にして意識をつなぎとめる。
どうやらエリザは元気を取り戻したらしく、“素”の口調で騒いでいるようだった。顔は何故か真っ赤に染まっているが、昨晩と違って単純に羞恥心によるものらしい。
(く、そ……なんだ、この……眠気……)
気を抜くと眠りに落ちそうになりながらも、レウルスは顔を上げてエリザの様子を確認した。
いつの間にか夜が明けたらしく、部屋の中も十分に明るい。そんな明瞭な視界の中で、エリザは何やら自身の“服の乱れ”を直しているようだった。
「っ!? れ、レウルス……な、なんでわたしはここにいるの? 昨日……な、何を……した、の?」
顔を赤くしながらそう尋ねるエリザに、レウルスは何と答えたものか迷う。
昨晩レウルスの血を吸ったことを覚えていないのか、エリザはしどろもどろになりながらレウルスに状況の説明を求めているようだった。
レウルスの視界の端、眠る際に使用している厚手の布に何ヵ所か血の跡がついているのが見える。どうやらエリザが首筋に噛みついた際に飛び散った血が付着しているようだが――。
(……駄目だ……眠い……)
どうにも眠くて仕方がない。
レウルスは焦ったように尋ねてくるエリザに申し訳ないと思いつつも、そのまま意識を手放すのだった。
どうも、作者の池崎数也です。
毎度ご感想やご指摘、お気に入り登録や評価ポイントをいただきましてありがとうございます。
拙作の総合評価が7万ポイントを超えました。
マイペースな進み方ではありますが、少しでも楽しんでいただける物語を書けるよう、頑張りたいと思います。
それでは、このような拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。




